第7話 遥との約束
「遥ちゃん、
ちゃんと安静にしてなきゃダメよ」
看護師さんの厳しい声が響いた瞬間、
遥は、気まずそうに視線を落とした。
「……ごめんなさい。」
看護師さんは、
俺と将棋盤に視線を落とした。
俺は、この看護師さんを知っている。
俺の病室にも来てくれている、
森さんという人だ。
いつもは柔らかい笑顔の印象しかないのに――
こんな厳しい表情を見たのは、初めてだった。
「……あら? 君、204号室の神矢君よね」
「あ、はい。
今……遥さんと将棋をしてました」
「……そうだったのね」
森さんは、小さく息を吐いた。
(もとはと言えば、
俺がこの部屋を覗いたせいで……)
胸の奥がじんと痛む。
「すみません」
森さんは、首を小さく横に振った。
「いや、全くダメってわけじゃないのよ。
ただ……将棋って、
すごく頭を使うでしょ?
今、遥ちゃんは、
体力を温存しないといけない時期なの」
さっきまでの厳しさは、
いつの間にか消えていた。
目元の表情はもう、
普段のあの柔らかさに戻っていた。
遥が俺を見る。
「ごめんね、無理言っちゃって。
でも……すごく楽しかった」
「いや、俺の方こそ……
ありがとう。楽しかったよ」
そう返すと、
遥はほんのり唇をゆるめて微笑んだ。
弱っているはずなのに、
その笑顔は不思議と芯があって、
まっすぐで――
胸が締めつけられる。
「私がよくなったら……
また……続き、指そうね」
小さくても、
その声は胸の奥で静かに灯るように響いた。
「……うん」
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部屋を出ると、
森さんがそっと後を追うようにして、
廊下まで出てきた。
「神矢君」
「…? はい」
「遥ちゃん、
ずっと安静にしてるのもつらいから……
よければ、話し相手になってあげて」
その言葉に少し胸が熱くなる。
「……分かりました」
森さんは、
安心したようにやわらかく頷いて、
病室へ戻っていった。
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それから――
俺は毎日、遥の病室へ通った。
「私はね。英語が一番、得意教科なんだよ」
「そうなんだ。俺は……体育だな……」
「え?」
遥は、楽しそうに笑う。
「蓮君は? 部活とか入ってる?」
「サッカー部に入ってるんだ。
そこで怪我して……」
話題は色々変わったけど――
やっぱり将棋の話が一番多かった。
あるとき、遥が俺に尋ねた。
「蓮君は何の駒が一番好き?」
「好きな駒? 全部の駒の中で?」
「うん」
「俺は……飛車かな。一番強いし」
「そうなんだ!
やっぱり飛車って人気だよね」
遥は窓の外を見ながら言った。
「私はね……桂馬が好きなんだ」
「桂馬?」
「うん。他の駒は、前とか横とか……
決まった方向にしか動けないでしょ?
でも桂馬は、前に駒があっても、
ぴょん、って飛び越えて――
誰も行けない場所に行けるの」
その言い方は、
まるで自分自身に言い聞かせるみたいだった。
「私は昔から体が弱いから……憧れるんだ」
胸の奥がじんわり痛くなる。
その小さな願いはあまりにも純粋で――
胸が締めつけられるほど眩しかった。
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俺の退院も2日後に迫り、
遥の病室に向かおうとすると、
廊下で看護師の森さんに出会った。
「……あ、神矢君。
遥ちゃんだけど……体調が急に悪化してね。
今日は遥ちゃんには会えないの」
心臓が、ドクンと音をたてる。
「……え? 大丈夫なんですか?」
「……ええ。
朝から少し息が苦しそうになって……
でも、今は落ち着いてるから大丈夫よ」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥の強張りがふっとほどける。
「そうなんですね……よかった……」
森さんは優しい表情で俺を見つめた。
「神矢君が退院するまでに、
会えるようになるか分からないけど……
また遥ちゃんをよろしくね」
「……はい!」
でも、次の日も、
俺が退院する日になっても、
遥の体調が戻ることはなかった。
俺は病室に寄ることもできず、
ただ、病院の外から、
遥の病室の窓を、しばらく見つめていた。
そのまま母さんの車に乗り込み――
静かに病院を後にした。
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「……神矢君?」
遠い場所から名前を呼ばれた気がした。
「神矢君? 誰か思いついたのかい?」
「……あ」
俺は、ゆっくりと現実へ引き戻された。
目の前には理科室の壁。
佐久間先生が、こちらをのぞき込んでいる。
ほんのさっきまで、
俺の心は“あの日の病室”に、
置き去りのままだった。
「……あ、いや……1人、いるんですけど」
「何! 本当か! どのクラスだい!」
「いや、今は入院してて……」
言葉にした途端、
胸がきゅっと締めつけられた。
(……遥……
今、どうしているんだろう)
その想いが心の奥で膨らんでいくと、
もう、じっとしていられなかった。
「先生……
今度、その子に会ってきます」
「……うん! 期待してるよ!」
あの日――
病室で聞いた声が、胸に静かに響く。
『私がよくなったら……
また……続き、指そうね』
俺は、あの約束を果たしたい――
そう思った。




