第5話 父の想い
俺は、ただ母さんの震える肩を見つめていた。
慰めの言葉なんて、
今の母さんには何ひとつ届かない気がした。
胸の奥に重たい石が沈んでいくようで、
呼吸すら苦しい。
しばらくして――
母さんは涙をぬぐうこともせず、震えた声で続けた。
「……蓮。あなたはね。
お父さんが亡くなったあと……
一日中、ずっと泣き続けていたの」
その言葉は、刃物みたいに鋭く、
俺の胸に突き刺さった。
「おじいちゃんもおばあちゃんも、
必死で抱きしめて……
ようやく眠ってくれたと思ったら、
ぐったりして、力が抜けていて……」
母さんは、
遠い記憶をそっと指先でたどるように、
ゆっくりと言葉を継いだ。
「蓮は、もう……
泣きじゃくる声も出ないくらい、
泣き疲れて……
それで――」
そこで一度、言葉が途切れた。
俺の喉が、ごくりと鳴る。
「……目を覚ました蓮はね。
将棋のことを、何ひとつ……
覚えていなかったの」
コチ、コチ、と、
台所の時計の規則正しく刻む音だけが響く。
その音が、沈黙をゆっくり、深く、
沈めていった。
「忘れたんじゃなくて……
きっと思い出すと辛すぎるから、
心が蓋をしたのね。
あなたを守るために……」
母さんは震える指で、
ハンカチを握りしめながら言った。
「だからね……蓮」
ゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、真っ直ぐ俺を射抜く。
「お母さんは決めたの。
――もう二度と、
将棋の話はしないって」
息を呑んだ。
重たい石がさらに深く沈む。
でも同時に――
その重みの正体が、
ようやく分かった気もした。
「蓮……ごめんね」
母さんは立ち上がり、
振り返ることなく寝室へ向かった。
扉が静かに閉まる音だけが、家に落ちた。
俺はしばらく動けなかった。
胸に沈んだ重さが、
ゆっくりと痛みに変わっていくのを感じていた。
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自分の部屋に戻り、
俺は布団の上へ座り込んだ。
母さんの言葉。
忘れていた父さんのこと。
幼い自分の涙。
全部が胸の内で渦を巻く。
(……俺が将棋をすると、
母さんにつらい記憶を……)
そう思った瞬間――
ぽたり、と涙が落ちた。
(でも……俺は……)
拳を握る手が震える。
(俺は、やっぱり将棋がしたいんだ……)
自分の心の声が、静かに響いた。
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その日の夜中――
美月はひとり、
居間の奥にある仏壇の前に座っていた。
闇に沈む部屋。
仏壇の灯だけが、小さくぼんやりと光っている。
「……ねえ、あなた」
仏壇に向かって囁くように言う。
「蓮がね……また将棋をやりたいって……」
美月は、仏壇の隅に置かれた、
小さな木箱を手を伸ばした。
箱を開くと、
そこにはひとつだけ収められた“飛車”の駒。
蓮がまだ1歳の頃――
ふいに手に取って離さなかった駒。
美月はその駒を指先でなぞりながら、
問いかける。
「あなたは……蓮に将棋をしてほしい?」
遺影の悠真は、
穏やかに笑っていた。
その笑みが、美月の背中を――
そっと押すような温かさを帯びていた。
「……そんなの、聞くまでもなかったわよね」
美月は目を閉じ、小さく笑ったあと、
飛車の駒を静かに胸に抱いた。
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俺は玄関で靴を履きながら、
ふと動きを止めた。
足が重い。
胸のあたりに、
まだ昨日の夜の“重たいもの”が残っている。
朝食も――
味がしなかった。
母さんの話が、
ずっと頭の中で渦を巻いている。
父さんのこと。自分のこと。
そして――将棋のこと。
(俺は……どうしたらいいんだろう)
答えの出ない問いを抱えたまま、
玄関のドアにそっと手をかけた――
その時。
「蓮」
母さんの声が飛んできた。
振り向くと、
まっすぐ俺を見つめる母さんが立っている。
涙の痕がうっすら残っているのに――
その瞳の奥は、
不思議なくらいまっすぐで強かった。
「学校まで気をつけてね。
それと……昨日、お母さんね。
お父さんに……聞いてみたの」
母さんは一度だけ呼吸を整え、
迷いを押し込めるように言葉を続けた。
「蓮。将棋をやりたいなら……
お父さんの分まで、精いっぱい頑張りなさい」
静かな玄関に、その言葉が響いた瞬間、
胸の奥に、小さくて温かい灯がともった。
昨日まで心にまとわりついていた迷いが、
そっと溶けていく。
母さんは止めなかった。
つらかったはずなのに――
それでも、俺の背中を押してくれた。
(……ありがとう、母さん)
こみ上げる熱を胸の奥で抱きしめるようにして、俺は深く頷いた。
「……うん!」
涙を堪えながら玄関を踏み出す。
外の空気は、昨日より少しだけ温かく感じた。
俺はゆっくりと――
駅に向かって歩き出した。




