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棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~  作者: くろ
第2章 現代・高校将棋部編
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第3話 俺の決意と母の沈黙

「……すっかり遅くなっちゃったな」


ぽつりと独り言が漏れた。

いつもならサッカー部のあと帰るのは19時を過ぎることもある。

だけど、今日は部活に出ていないのに、この時間。


完全に、あの先生のせいだ。

……でも――楽しかった。


オレンジ色の街灯が、ゆっくりと夜の闇に溶けていく。

歩くたびに、指先に残った駒の感触が、ふっと蘇った。


佐久間先生は、確かに強かった。

その先生の一手を読み切れたとき。

迷いもなく駒を打ち込めたとき――


胸が、確かに震えた。


(……やっぱり、将棋が好きなんだな、俺)


江戸で過ごした日々が、

掌のどこかでまだじんわりと熱を残している。

あの空気も、あの音も、あの時間も――全部。


胸の奥に芽生えた、はっきりした気持ち。


将棋を続けたい。


だけど、そのすぐ隣でひっかかるものがある。

胸の奥の、ずっと触れないようにしていた場所。


あの“夢”で見た

母さんの涙。

そして、あの言葉。


(……言っていいのかな)


言葉にすれば、なにか大事なものが壊れる気がする。

けれど、言わなければ前に進めないのも分かっていた。


---


「ただいま」


玄関を開けた瞬間、

ふわっと温かい匂いが鼻をくすぐった。

洋風のだしと甘いキャベツの香り――

俺の大好きなロールキャベツだ。


「あら、お帰り。遅かったわね。」


母さん――神谷美月はエプロン姿のまま振り返った。

仕事のはずなのに、疲れた色はどこにもない。

いつもの、柔らかい笑顔。


母さんは雑誌編集の仕事で土日も出ていくことが多い。

それでも平日はなるべく早く帰ってきて、

俺の夕飯を作って、こうして待っていてくれる。


昔からずっと変わらないその優しさが、

今夜だけは、胸にちくりと刺さった。


腹ペコなのに、

胸の奥に沈んだ“重たいもの”だけは――

どうしても消えてくれなかった。


---


「ごちそうさま」


「あらあら、早いわね。

 いつも言ってるでしょ、ゆっくり食べなさいって」


母さんはいつもの調子で笑いながら食器を下げてくれる。

その何気ない仕草さえ、今の俺にはどこか遠く感じた。


食器を洗う母さんの後ろ姿を見つめながら、

俺はずっと――考えていた。


言うべきか。

言わないべきか。


でも、言わなければ――

きっと俺は、この先、前に進めない。


台所の水の音が止み、

片づけを終えた母さんが、また席へ戻ってくる。


「ねえ、母さん」

「どうしたの?」


胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。

今言わなきゃ、もう言えない気がした。


「俺……病院で夢を見たんだ。

 おじいちゃんと……将棋してる夢」

「え……?」


母さんの手が、ぴたりと止まった。

その顔は、驚いたというより――怯えているように見えた。

俺は、そのまま続けた。


「夢の中で指してる感覚が、やけにリアルでさ。

 なのに……そのこと、今まで全然覚えてなくて」

「……」


母さんは唇をきゅっと結んだまま、ひと言も発さない。

その沈黙が、かえって何より答えに近いようで――

胸が、きゅっと締めつけられた。


「それで……その夢には、母さんも出てきたんだ」


母さんの目が、ほんのわずかに揺れた。


「母さんは……父さんの仏壇の前で泣いてて――

 それで、俺……父さんも将棋をやってた気がして……」


そこまで言っても、母さんは何も言わなかった。

目を伏せたまま、テーブルの上に置かれた指先だけが、かすかに震えている。


(……やっぱり、この話、触れちゃいけないのかもしれない)


けれど、もう止まれなかった。


「なんで、俺……将棋のこと、覚えてなかったの?」


その問いに、

母さんの肩がほんのわずかに揺れた。


重い、重い沈黙のあと――

ようやく、母さんが口を開いた。


「……蓮は、なんでそのことを……知りたいの?」


静かな声だった。

でもその奥には、何かを必死に抑え込んでいる響きがあった。


胸がドクン、と鳴った。

息がうまく吸えない。

それでも――逃げられなかった。


「俺……あの頃の楽しさ……思い出したんだ」


母さんの瞳が、わずかに揺れる。


「俺、将棋がしたいんだ」


まっすぐ母さんを見つめて言った。


その言葉を聞いた瞬間――

母さんの表情が、ふっと変わった。


驚きでも怒りでもない。

悲しみとも違う。

その全部を混ぜて、押しつぶして、

それでも笑おうとしているような――そんな顔。


「……蓮……」


かすかに震える声。

でも、言葉はそれ以上続かなかった。


深い沈黙。

触れてはいけない“過去”がそこにあるのが、痛いほど伝わってきた。


蓮は息を呑む。


(……母さん……?)


――今まで見たことのない母さんの顔だった。

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