第3話 俺の決意と母の沈黙
「……すっかり遅くなっちゃったな」
ぽつりと独り言が漏れた。
いつもならサッカー部のあと帰るのは19時を過ぎることもある。
だけど、今日は部活に出ていないのに、この時間。
完全に、あの先生のせいだ。
……でも――楽しかった。
オレンジ色の街灯が、ゆっくりと夜の闇に溶けていく。
歩くたびに、指先に残った駒の感触が、ふっと蘇った。
佐久間先生は、確かに強かった。
その先生の一手を読み切れたとき。
迷いもなく駒を打ち込めたとき――
胸が、確かに震えた。
(……やっぱり、将棋が好きなんだな、俺)
江戸で過ごした日々が、
掌のどこかでまだじんわりと熱を残している。
あの空気も、あの音も、あの時間も――全部。
胸の奥に芽生えた、はっきりした気持ち。
将棋を続けたい。
だけど、そのすぐ隣でひっかかるものがある。
胸の奥の、ずっと触れないようにしていた場所。
あの“夢”で見た
母さんの涙。
そして、あの言葉。
(……言っていいのかな)
言葉にすれば、なにか大事なものが壊れる気がする。
けれど、言わなければ前に進めないのも分かっていた。
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「ただいま」
玄関を開けた瞬間、
ふわっと温かい匂いが鼻をくすぐった。
洋風のだしと甘いキャベツの香り――
俺の大好きなロールキャベツだ。
「あら、お帰り。遅かったわね。」
母さん――神谷美月はエプロン姿のまま振り返った。
仕事のはずなのに、疲れた色はどこにもない。
いつもの、柔らかい笑顔。
母さんは雑誌編集の仕事で土日も出ていくことが多い。
それでも平日はなるべく早く帰ってきて、
俺の夕飯を作って、こうして待っていてくれる。
昔からずっと変わらないその優しさが、
今夜だけは、胸にちくりと刺さった。
腹ペコなのに、
胸の奥に沈んだ“重たいもの”だけは――
どうしても消えてくれなかった。
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「ごちそうさま」
「あらあら、早いわね。
いつも言ってるでしょ、ゆっくり食べなさいって」
母さんはいつもの調子で笑いながら食器を下げてくれる。
その何気ない仕草さえ、今の俺にはどこか遠く感じた。
食器を洗う母さんの後ろ姿を見つめながら、
俺はずっと――考えていた。
言うべきか。
言わないべきか。
でも、言わなければ――
きっと俺は、この先、前に進めない。
台所の水の音が止み、
片づけを終えた母さんが、また席へ戻ってくる。
「ねえ、母さん」
「どうしたの?」
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
今言わなきゃ、もう言えない気がした。
「俺……病院で夢を見たんだ。
おじいちゃんと……将棋してる夢」
「え……?」
母さんの手が、ぴたりと止まった。
その顔は、驚いたというより――怯えているように見えた。
俺は、そのまま続けた。
「夢の中で指してる感覚が、やけにリアルでさ。
なのに……そのこと、今まで全然覚えてなくて」
「……」
母さんは唇をきゅっと結んだまま、ひと言も発さない。
その沈黙が、かえって何より答えに近いようで――
胸が、きゅっと締めつけられた。
「それで……その夢には、母さんも出てきたんだ」
母さんの目が、ほんのわずかに揺れた。
「母さんは……父さんの仏壇の前で泣いてて――
それで、俺……父さんも将棋をやってた気がして……」
そこまで言っても、母さんは何も言わなかった。
目を伏せたまま、テーブルの上に置かれた指先だけが、かすかに震えている。
(……やっぱり、この話、触れちゃいけないのかもしれない)
けれど、もう止まれなかった。
「なんで、俺……将棋のこと、覚えてなかったの?」
その問いに、
母さんの肩がほんのわずかに揺れた。
重い、重い沈黙のあと――
ようやく、母さんが口を開いた。
「……蓮は、なんでそのことを……知りたいの?」
静かな声だった。
でもその奥には、何かを必死に抑え込んでいる響きがあった。
胸がドクン、と鳴った。
息がうまく吸えない。
それでも――逃げられなかった。
「俺……あの頃の楽しさ……思い出したんだ」
母さんの瞳が、わずかに揺れる。
「俺、将棋がしたいんだ」
まっすぐ母さんを見つめて言った。
その言葉を聞いた瞬間――
母さんの表情が、ふっと変わった。
驚きでも怒りでもない。
悲しみとも違う。
その全部を混ぜて、押しつぶして、
それでも笑おうとしているような――そんな顔。
「……蓮……」
かすかに震える声。
でも、言葉はそれ以上続かなかった。
深い沈黙。
触れてはいけない“過去”がそこにあるのが、痛いほど伝わってきた。
蓮は息を呑む。
(……母さん……?)
――今まで見たことのない母さんの顔だった。




