エピローグ 盤に託された想い
白い光がゆっくりとほどけていき――
耳に、遠くから聞こえる車の音が流れ込んできた。
畳の感触が膝を押し返す。
(……ここは……)
視界に染み込むのは、懐かしい天井。
少し色の落ちた梁。
障子の隙間から差し込む、夕方の柔らかな光。
――おじいちゃんの部屋だ。
(戻ってきた……?)
胸の奥が、ひとつ深く脈を打った。
息が、ひどく浅い。
俺は、五平と指して……
将棋を心の底から楽しいと思って……
その時、盤が光って――
「蓮?」
振り返ると、おばあちゃんが立っていた。
少し心配そうに眉を寄せている。
「そろそろ帰らないと、お母さんが心配するわよ」
「……え?」
声が震えた。
思わず、周りを見渡す。
部屋は――江戸に行く前のまま。
畳の色も、積んだ本の位置も同じ。
そして俺の服も、あの瞬間のまま。
(……夢……だったのか……?
いや……そんなわけ……ない)
だって、あの熱も。
盤の重みも。
五平の笑顔も。
宗歩先生の気配も。
全部、全部、こんなに――
手を伸ばせば触れられそうなくらい、鮮やかに残っている。
「……!?」
胸の奥がひゅっと縮んだ。
思わず息を呑む。
将棋盤が――ない。
そこにあるのは、
ぽつんと置かれた、空の木箱だけ。
(……やっぱり……夢じゃなかった)
だって、この箱には……
江戸に行く前、将棋盤が収められていたはずだ。
中身だけが、綺麗に――消えている。
(でも、どうして……?)
おばあちゃんにうながされて立ち上がると、
胸の奥が、じわりと痛んだ。
家に戻る道すがら、
夕焼けが、いつもよりずっと遠く見えた。
(先生……五平……紅羽……
みんなに、ちゃんとお別れ言えなかったな……)
思い出すたびに、胸がきゅっと締めつけられる。
足取りが、自然と重くなる。
視界の端が、じんわり滲んだ。
涙は落とさない。
落としたら――本当に終わってしまう気がして。
だからただ、ぎゅっと拳を握りしめた。
(……みんな……ありがとう)
手のひらには、
あの対局の熱だけが、確かに残っていた。
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五平は、蓮が消えていった空を――
まるでそこにまだ蓮がいるかのように、じっと見つめていた。
「先生……蓮は……どうなったのですか?」
かすれた声だった。
さっきまで並んで盤に向かっていた温度だけが、まだ胸の奥に残っているような声。
宗歩は静かに目を伏せる。
だが、そのわずかな沈黙だけで答えは十分すぎるほど伝わった。
五平は、ゆっくりと息を吐いた。
「……そう、ですか」
言葉にした途端、胸の奥の熱が少しだけ冷めていく。
それでも、蓮と指したあの瞬間の余韻だけは確かに残っていた。
「蓮は……いるべき場所へ戻ったのですね」
その言葉は、理解と寂しさが入り混じった――
自分に言い聞かせるような声だった。
宗歩は静かに五平を見つめ、深く頷く。
「……うむ」
その一音に、すべてが込められている気がした。
五平は、ほんの少しだけ目を赤くしながら、
それでも笑おうとして――
かすかに口元をほころばせた。
「蓮なら、きっと……その指し手で道を切り開いていくでしょう」
かすれた声で呟くと、五平はそっと盤へ視線を落とした。
蓮と向かい合っていた、あの盤へ。
「しかし……指し掛けのまま終わってしまったのは、心残りです」
盤面には、二人の攻め合いがそのまま残っている。
五平は悔しそうに、けれどどこか誇らしげにその局面を見つめた。
――その時だった。
宗歩の表情が、わずかに変わる。
(……これは)
盤が――残っている。
宗一郎が消えたとき、
彼の世界へ戻ったとき、
盤もまた、光に包まれて共に姿を消した。
しかし今回は――
盤だけが、ここに在る。
宗歩はそっと目を細めた。
(宗一郎殿…… そなたは――)
そのときだった。
まるで長い時を越えて、
友の声がかすかに――しかし確かに――
宗歩の胸の奥に響いた。
――宗歩殿、蓮をありがとう。
次は、わしが恩を返すときじゃ。
其方の弟子が迷ったとき……
この盤が光となるように――
宗歩の胸に、小さな確信が灯る。
宗一郎は、五平のためにこの盤を残したのだと。
盤は静かに佇み、
江戸の光を受けて柔らかく輝いていた。
宗歩は一度、空を見上げてから――
五平の肩に手を置いた。
「五平……またいつの日か、蓮に会うときがくるかもしれんな」
「……え?」
五平は一瞬だけ顔を上げた。
だが、その言葉の真意までは掴めない。
それでも――
なぜか胸の奥が、かすかに熱くなる。
五平は夕空の向こうに、
もう一度だけ、蓮の背中を見た気がした。
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棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~ 【江戸編・完】




