第27話 取り戻した光と別れ
五平の▲2五歩――
取れば3七の桂が跳ねてくる。
そうなれば、こちらが受けきるのは難しい。
正しい対応が求められる局面だ。
俺は――△4二飛。
飛車で4四の金に紐をつける。
五平が2四の歩を取れば、
その瞬間に2六へ歩を打つ切り返しが入る。
ただ、五平にうまい手があれば――
俺の玉は一瞬で寄り筋に入ってしまうかもしれない。
(……どう攻めてくる?)
高鳴る鼓動を抑えきれずに――
それでも、不思議と胸が躍って、
俺は五平の次の一手を待った。
しばしの沈黙の後、
五平の指先がつまんだ駒は――王将。
▲8八王。
(……え?)
まさかの受け。
攻め合いに踏み込むと思っていたところで、
五平はあえて玉を深く潜り込ませた。
その静かな一手が、盤上の温度を変えた。
俺は△5五歩。
五平の角道を遮りつつ5六の銀を追いやり、
その隙に2五の歩をさらう。
(これで……少しは玉が安全に――)
そう考えた、その瞬間。
五平の右手が、迷いなく跳ねた。
▲同桂。
(……っ!? 角道を止めてるのに……ここで桂が来るだって!?)
俺は2四に銀をかわす。
すると――
五平の手が、さらに跳ねる。
▲3三桂成。
何もない空間に、桂を成り捨てた。
(……!? そうか……)
一瞬で理解が追いつく。
この成桂を取りつつ、
浮いている2四の銀に紐をつけるには――
同金か同玉しかない。
けれど、どちらを選んでも、
次に▲2五歩と叩かれれば――
銀の逃げ場が、ない。
(……っ。やられた)
流石の一手だった。
俺は仕方なく、△同金で成桂を払う。
すると五平は、ためらいなく▲2五歩打。
このままでは、銀と桂の交換になってしまう。
俺は一度、深く息を吸って読みを深めた。
(――次は俺の番だ)
俺の指し手は――
△3五桂打。
4七の銀と2七の飛車、両取りをかけるいわゆる“ふんどしの桂”。
もちろん、五平の陣には3六に歩があり、
この桂はすぐに取られてしまう。
けれど、2四の銀でその歩を取れば――
銀は手順に逃げながら、働き続ける。
(これで、まだ戦える……!)
五平の表情が険しくなり、
やがて――ゆっくりと口角が上がった。
「……一本取ったと思ったのにな。
蓮……やっぱり、お前はすげえよ」
対局の最中とは思えないほど、どこか柔らかい声だった。
その響きに、思わず俺は顔を上げた。
「蓮……俺はさ……おいてかれそうな気がしてたんだ」
五平の視線は、盤面から離れ、
ただまっすぐに俺だけを見ていた。
「先生が蓮を見る目を見て……
蓮が日に日に強くなっていくのを見て……
気づけば、不安で……
俺は先生の一番の弟子じゃなくなるんじゃないかって。
そんなふうに思って……正直、怖かったんだよ」
その声には、恥じらいも照れもあった。
でも――紛れもない本心だった。
「だけどな」
五平は、溜めていた息をふっと吐き、
もう一度、俺をまっすぐ見据えた。
「……今、お前と指してたら、もうそんなのどうでもよくなった」
「え……?」
「おいてかれるとか、誰が一番の弟子だとか……
そんなの、今はどうでもいい。
蓮とこうして盤の前で向き合ってるのが……
ただ、楽しいんだよ」
その瞬間――
五平の手が、鋭く盤に伸びた。
俺の3五の桂を駒台に勢いよく置き、
駒音高く――▲同歩。
「余計なことは考えない!
俺がこの勝負に勝つ! 来い、蓮!!」
熱がぶつかった。
五平の本気が、真っ直ぐ胸に刺さる。
「……うん!
俺だって負けない!!」
その歩を五平に負けない勢いで駒台に置き――
△同銀。
五平の目がわずかに見開かれ、
次の瞬間、くしゃっと笑った。
盤上に、二人の息が絡み合う。
俺の心臓が激しく脈打っている。
五平の笑顔が、眩しいほどに輝いて見えた。
「将棋って……やっぱり楽しいな!! 蓮!!」
「……うん! 五平!
俺も……やっと思い出したよ」
喉の奥が熱くなった。
声が震えそうになる。
「五平のおかげで……
将棋がこんなに楽しいってことに。
……ありがとう、五平」
そして――
その瞬間――
盤が、
目の前のこの盤が――
ふっと、
俺を包み込むような、
温かい光を宿し始めた。
(……え!?)
光は盤の角の傷から溢れ、
まるで呼吸するように――
ゆっくりと、優しく脈動し始めた。
「……蓮!? ……蓮!!……」
五平の声が、すっと遠のいていく。
宗歩先生が、一歩、静かに踏み出した気配がした。
その足音でさえ、光に溶けていくようだった。
(この光……まさか……!)
体がふわりと浮くような感覚。
視界が白く滲んでいく。
「――っ!!」
光が一気に広がり、
あたり一面が、眩しい白に包まれた。
五平が、何かを言いかけて手を伸ばす姿が――
遠く、ぼやけていく。
江戸の空気が、すっと遠ざかる。
けれど――胸の奥の熱だけは、確かに残った。
白い光が静かに揺らぎ、
ふっと、景色そのものがほどけていく。
――音も、匂いも、温度も。
すべてが静かに遠ざかり、目の前には真っ白な景色だけが残った。
そして――
気がつくと、
俺はおじいちゃんの部屋に膝をついていた。




