第26話 胸の奥の光
俺は吸った息をゆっくり吐き、顔を上げる。
向かいには五平。
背筋をまっすぐに伸ばし、俺を見据えている。
その視線は、いつもと同じ優しさを含んでいるのに、
どこか、鋼のように揺るがない芯があった。
二人とも、この対局の意味を噛みしめながら、
ゆっくりと駒を並べていく。
駒音がひとつ響くたびに、
胸の奥で、何かが静かに鳴った。
それは緊張でも、不安でもない。
ただ――
この一局を迎えられたことへの、
言葉にならない実感。
五平が歩を5枚手に取り、そっと振る。
先手は五平。
宗歩先生は少し後ろに立ち、
無言で2人の背中を見守っている。
「よろしくお願いします」
重なった声が、
静かに、しかし確かに、この勝負の幕を開けた。
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五平がゆっくりと右手を伸ばす。
▲7六歩。
盤上に初手の駒音が静かに響いた。
ただの一音のはずなのに、
この広い道場の空気が、わずかに震えた気がした。
俺も、駒にそっと手をかける。
△8四歩。
飛車先を突く。
▲2六歩。
△8五歩。
相居飛車の出だし。
定跡による静かで美しい序章――
だが、その裏で、お互いの呼吸が確実に研ぎ澄まっていく。
そして、五平は▲7七角。
俺は少し考えて、△3四歩と角道を開ける。
そして、短い沈黙のあと――
▲6六歩。
五平が角道を閉ざしたことで角換わりではなく、
がっちり組み合う相居飛車戦になった。
五平の構えは“雁木”。
俺は――自然と“矢倉”を選んでいた。
「……矢倉か」
五平がわずかに目を細める。
「うん。――昔から、好きなんだ」
口が勝手に動いていた。
矢倉。
おじいちゃんと何度も並べた囲い。
理屈じゃない。
気づけば、この形に手を伸ばしている自分がいた。
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お互いにがっちりと囲いを築き、
五平が端歩を突いたところで、俺は△7五歩。
五平も▲4五歩。
お互いに歩をぶつけ、戦いが始まる。
俺が△6四角と、角を飛び出し3七の桂を狙う。
すると、五平は▲2七飛。
攻撃力を保ちつつ桂馬に紐をつける、
ぎりぎりの受け。
そして▲2四歩。
俺の△同歩を見て、五平は間髪入れず▲6五歩。
俺の角を追いながら自分の角筋を通し、
さらに▲2五歩――継ぎ歩。
(……当たり前だけど、やっぱり五平はすごい)
俺の角の睨みの中、
危険を承知で攻めの形を保ち続ける。
五平は強い。
一手でも誤れば斬られるような展開。
その緊張が、胸の奥をざわつかせる。
でも――
その渦中で、俺の中の“何か”が静かに動いていた。
(……なんだろう、この気持ち)
勝ちたい。
負けたくない。
その思いは、たしかに胸の中にある。
けれど、御城将棋のあの時みたいな――
胸を締めつける恐怖はなかった。
ただ、五平の“次の手”が知りたい。
どんな狙いで、
どんな筋を潜ませているのか。
その一手を、越えてみたい。
そんな思いが、
ふっと胸の内に広がっていく。
――ああ。本当に。
やっと思い出した。
おじいちゃんがどんな手を指してくるのか、
ワクワクして待っていた、あの日。
次は何を指そうか、
考えるのが楽しくて仕方なかった時間。
「今日こそ、おじいちゃんに勝つんだ!」
と、何度も息巻いていた小さな俺。
将棋を指しているときが、
いちばん輝いていた。
その光がふっと胸の奥に戻ってきて――
気づけば、指先に熱が宿っていた。
俺は、何よりも――
こんなにも将棋が好きだったんだ。




