第24話 五平の想い
とうとう、俺が江戸に来てから――半年の月日が過ぎた。
日々の修行に明け暮れ、
町へ出れば子どもたちと遊び、団子屋では雫や五平と笑い合う。
そんな日々が、もう当たり前のように続いていた。
今でも、現代のことを忘れた日は一日だってない。
戻りたいという気持ちは変わらない。
けれど、それは――
この温かな日常と、大切な人たちとの別れを意味する。
現代への未練と、この江戸で得た居場所への愛着が、出口のない迷路のように胸の奥で渦を巻いていた。
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いつものように修行を終え、部屋へ戻ろうと廊下を歩いていたとき。
ふと、奥の部屋から声が聞こえた。
(……これは? 宗歩先生と……五平の声?)
二人が話している。
思わず、俺は柱の陰に身を寄せた。
「先生。……私と蓮に、対局をさせていただけないでしょうか」
五平の声が、張り詰めた空気を震わせた。
俺は思わず、息をのむ。
「……何故だ?」
先生の声は静かだった。
だが、その静けさの奥に、わずかな興味が潜んでいるように感じた。
「……自分でも、うまくは申し上げられません」
一拍の沈黙。
それまで抑えていた感情が、言葉とともにあふれ出す。
「ただ、感じるのです。
蓮は……私たちの“この世”の者ではない、と。」
心臓が跳ねた。
息を止めたまま、陰に隠れる俺の足がわずかに震える。
先生は、しばらく黙っていた。
やがて、口を静かに開いた。
「――お主が、そう感じる理由は?」
「……蓮の将棋です」
五平は、はっきりと言った。
「蓮は、明らかに私たちの知らぬ理の手を指している。
先生、あの将棋は……どこから来たのでしょうか?」
しばし、沈黙が落ちた。
その静けさの中で、先生の息づかいがわずかに変わった気がした。
「……なるほど。五平、お主の目は確かなようじゃな。」
宗歩の声は、静かに――だが確かに、何かを認める響きを帯びていた。
しばらくして、畳を擦る衣擦れの音。
五平が身を正したのだろう。
「私は、あの将棋にまだ触れるべきではないかもしれません。
……それでも、私は対峙してみたいのです。
今を逃せば、その時は二度と訪れないかもしれない。
……そう感じる時があるのです。」
先生が盤に手を伸ばしたのだろうか。
駒の触れ合う、乾いた音が響いた。
「――ならば確かめてみるがよい。
盤上で、そなたが感じた真理に、触れてみるがよい。」
その声は静かだった。
だが、その静けさの奥に、確かな力強さがあった。
「……はい。必ず、確かめてみせます。」
五平の声は、震えていた。
扇子が閉じられる乾いた音が、部屋に響く。
「明日、道場に盤を用意せよ。――蓮にも伝えておけ。」
その言葉が終わると同時に、俺は息を呑んだまま壁に背を預けた。
(……俺と、五平が対局を……?)
胸の奥で、何かがゆっくりと熱を帯びていく。
恐れと興奮――その狭間で、ひとつの思いが形を成した。
“この一局が、俺の運命を変えるかもしれない。”
その確信にも似た予感だけが、静かに、確かに、胸の底に灯っていた。




