第22話 番外編① 棋譜に秘められた師
雫――紅羽との戦いを終えて、再び修行の日々に戻った俺は、あの対局の棋譜を並べながら、ひとり静かに振り返っていた。
あの戦いの余熱が、まだ指先に残っている。
駒を置くたびに、あの一手の感触が蘇る。
先生とは、いつも駒落ち戦でしか対局していなかった。
だから、誰かと平手で指すのは不安もあった。
けれど――不思議と、動揺はなかった。
それはきっと、先生から命じられた“棋譜並べ”のおかげだ。
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「蓮。私が他の者を見ている間は、こちらの棋譜を並べよ」
そう言って渡されたのは、数々の棋譜だった。
和紙に筆で記されたそれらは、墨がかすれ、
指先で何度もなぞられたように、柔らかく古びていた。
「これは、私がある者と指した対局の記録だ」
先生はそう言っていた。
棋譜になぞって指し手を進める。
「……凄い」
俺には思いつかない鋭い手の数々。
先生も、もちろん凄い。
しかし、対局相手の棋力も並大抵ではない。
一手一手を並べていくたびに、その指し手が自分の中に染みこんでいく。
そして、何か温かいものに包まれるような空気を感じた。
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先生の言う“ある者”が、誰なのか――
あの時の俺には、まだわからなかった。
今になって、やっとわかった。
この棋譜の対局者の片方は「宗歩殿」。
もう片方には「某」と記されている。
そして、この対局の手合いは――すべて平手。
この時代の天野宗歩は、強すぎるがゆえに、
いつも宗歩が駒を落とす側だったはず。
その宗歩と互角に戦える相手。
そして、よく見ると――見覚えのある字。
(そうか、この棋譜を残したのは……)
あの対局でも、おじいちゃんは俺を見守っていてくれた――
盤の上に、うっすらとおじいちゃんの笑顔が浮かんだ。
そんな気がした。
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棋譜並べを終えると、先生がやってきた。
いつも通り、先生に飛車を落としてもらっての対局が始まる――
そう思っていた、その時だった。
「本日は、平手での対局としよう、蓮。」
「えっ……?」
初めての平手戦。
思わず息を呑む。
まだ、飛車落ち戦でも先生の相手にはならない俺。
それなのに、ハンデなしの平手で指そうという。
(……何か目的があるのだろう)
そう思いながら、盤に向かう。
お互い、角道を開け、俺が飛車先の歩を突く。
▲8六歩。
そして、なんと――
宗歩殿は角を交換し、続いて筋違い角。
(ええっ!?)
思わず声が漏れた。
「……昨夜、伊賀の者より、便りが届いた。」
先生が静かに言う。
「……っ!?」
「蓮。そなたの将棋、私に見せてみよ。」
その瞬間、全てを悟った。
伊賀の者――紅羽は将軍の護衛。
ならば、将軍付きの先生とつながっていても不思議じゃない。
どういう経緯かは分からないが、
紅羽が筋違い角の話を伝えたのだろう。
だけど――角の使い方でこの人に挑むなんて、
どう考えても無謀だ。
それでも、不思議と胸が熱くなった。
そして俺も――相筋違い角。
盤上のすべてが、眩しいほどに輝いて見えた。
……その対局は、今までのどの対局よりも楽しかった。




