第21話 忍びの名
雫の角成り、そして俺の歩の突き捨て――
この手を境に、盤上の空気が一気に変わった。
雫は同銀。銀が離れた瞬間、俺は6筋へ踏み込む。
しかし雫も怯まない。
作り出した馬が盤上を駆け巡り、俺の攻めをいなす。
「……やるもんだね」
「……そっちこそ」
どちらも最善を尽くし、盤上の振り子はわずかにも傾かない。
けれど、その均衡の中で――
俺たちは確かに、互いを認め合っていた。
局面は、最終盤。
雫は俺の陣に銀を打ち込んだ。
俺の飛車と金、二枚を同時に狙う鋭い一手。
「……ふっ、流石のあんたでも、この手は困ったかい?」
雫の声が響いた刹那、俺は盤面に指を伸ばす。
5九の飛車で8九の桂を奪い、そのまま成り込む。
乾いた駒音が、張り詰めた空気を切り裂いた。
(――なんだって……?)
雫の目が見開かれ、盤面に釘づけになる。
(……なるほど。ここで飛車を取れば、私の銀が玉から離れる……)
一瞬、雫の手が止まった。
だが次の瞬間、唇の端がわずかに上がる。
「残念だったね。その手には引っかからないよ!」
雫は金を取った。
高く響く駒音が、静かな部屋の空気を震わせる。
「これで――あんたの玉の命も、風前の灯火だ。
どう受けるんだい?」
しかし、俺に受けの手を指す気などなかった。
△8七金打――王手。
そして、雫の王が6六に逃げるのを確かめ、俺はその金で8六の銀を払う。
雫の瞳が再び見開かれる。
予想外の一手に、息を呑む。
……だが、次の瞬間。
雫は小さく笑った。
「……なんだい、形づくりかい。
とうとう観念したようだね!」
雫は4二に歩を成り込み、俺の玉に詰めろをかける。
あと一手で詰まされる――絶体絶命の局面。
だが、俺はその盤面から目を逸らさなかった。
「この手は形づくりなんかじゃない!」
静寂が、部屋を満たす。
俺はまっすぐに彼女を見据えた。
「あなたの刃は――もう、見切った!」
△4六銀。
3五の銀を、ただ4六へと進めるだけの一手。
「面白い……あんたの玉、討ち取ってやるよ!」
雫の怒涛の王手が始まった。
馬が入り込み、金を奪い、銀が迫る。
俺の玉を追いつめる攻め――だが。
(これで終わりだ! ……何!?)
雫は息を呑んだ。
指先が震える。
駒音の余韻が、静寂の中でまだ消えない。
雫は気づいた。
先ほどの俺の一手、4六の銀。
それが、最後の詰め手――3七金――を防いでいることに。
そして、同時に、雫の6六の王の逃げ道を塞ぐ一手だったことに。
雫は全てを悟ったように天井を見上げ、静かに瞼を閉じた。
部屋の空気がわずかに揺れ、時間が止まったように見えた。
長い沈黙のあと、雫は顔を下ろし、頭を垂れる。
「……あたしの負けだよ」
その声には、悔しさでも諦めでもない、
ただ清らかな敬意が滲んでいた。
そして、真っすぐに俺の顔を見つめる。
俺も、彼女の瞳を見つめ返し、はっきりと言った。
「……ありがとうございました」
盤上には、戦いの余熱だけが残っていた。
駒たちは静かに眠りにつき、
その静寂の中に――確かな絆が生まれていた。
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「いやあ……まさか、あたしが負けるとはね!」
小屋を出て、団子屋へ戻る途中の路の上で、雫が肩をすくめた。
その声には、悔しさよりもどこか晴れやかな響きがあった。
「正体を知られたからには、このまま忍びを続けるわけにもいかない。
今日で、忍び家業は廃業させてもらうよ」
「……えっ!?」
意外な言葉に、思わず足が止まった。
「そういや、あたしが負けたとき、どうするか決めてなかったね。
……あんたの言うこと、1つだけ聞いてあげるよ。何がいい?」
言葉が空気の中に溶けた。
しばし、風の音だけが耳に残る。
俺は少し考えたあと、目を逸らさずに言った。
「じゃあ……俺は雫の正体、誰にも言わない。
だから――忍びを辞めないでほしい」
「……はあっ!?」
雫は素っ頓狂な声を上げた。
目を見開いたまま、こちらを凝視する。
「その代わり、俺や五平がピンチになったら助けてよ。
あの天井から出てきたときみたいにさ」
雫はしばらく黙っていたが、やがてくるりと背を向けた。
「生意気言いやがって……1つで済んでないじゃないか」
そう言いながら、袖でそっと目元をぬぐう。
振り返ると、いつもの勝気な笑みが戻っていた。
「――くれは」
「えっ?」
「紅羽が、あたしの本当の名前。
……あんたには、教えておくよ」
「……そうなんだ。……いい名前だね」
風が吹き抜け、竹林の影が路に揺れる。
二人は再び歩き出した。
団子屋までの帰り道――言葉はなかったが、
勝負の余熱の中に、不思議な静けさと、
確かな信頼の気配が漂っていた。
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(五平、待ってるだろうな……)
呉服屋で用事を済ませたら団子屋に来ると言っていた五平。
あれからかなり時間が経っている。
店に着くと、暖簾の向こうに五平の姿はない。
(さすがに怒って帰ったかな……)
申し訳ない気持ちで胸がチクりとした。
仕方ないと団子屋を後にしたが――
念のため、呉服屋の方を覗いてみることにした。
店の前では、なぜか人だかりができている。
(何だろ……?)
と覗き込むと――
「王手っ!」
「な、なんだとぉ!?」
ちゃぶ台の上に簡易盤。
その向こうでは、真剣な表情の五平が、
呉服屋の主人と対峙していた。
(……まさか、将棋指してるのか?)
「かぁ~、また負けた! 五平、もう一局だ!」
「いやぁ旦那、商いより将棋の方が熱心じゃありませんか!」
観衆から笑いが起こる。
完全に即席の路上将棋大会だ。
「五平?」
声をかけると、五平が振り向いた。
「……蓮? おおっ、もうこんな時間か!」
「何やってるんだ?」
「それは将棋に決まってるだろ!
宗歩先生の弟子たるもの、挑まれた勝負は受けて立つってな!」
先生に聞かれたら怒られそうなことを言って、また駒を並べ始めた。
五平の笑顔を見て、どこかまだ張り詰めていた緊張がほどけていく。
町の人々の笑い声が、江戸の空に溶けていった。




