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棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~  作者: 一進(にのまえすすむ)
第1章 江戸・修行編
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第20話 覚悟の一手

――▲1八角。


雫がその手を指した瞬間、

俺は、はっと我に返った。


対局中、周囲の音も呼吸も遠くへ霞むほど、

俺は全神経を盤に注いでいた。


そう、それは――

体ごと盤に溶け込んでいくような感覚だった。


雫の角の動きを封じ、

彼女が一度、角を引いた。


張り詰めていた勝負の呼吸が、

わずかに緩んだ気がした。


俺は小さく息を吐く。


だが、一度退いたとはいえ、

角は盤上を自在に駆ける駒。


ほんの一瞬でも隙を見せれば、

俺の玉を貫く刃となる。


それでも――

焦りはなかった。


この位置の角が初見であれば、

動揺したかもしれない。


しかし、俺はこの角を知っている。


そう、現代でも語り継がれる――

師・天野宗歩の名手“遠見の角”を。


この刃、

必ず見切ってみせる――



---



雫の角を引かせたとはいえ、

まだ勝負は半ば。


一手指すたびに、空気が軋む。


息を呑む攻防の中――

雫が放った手、▲5六歩。


その一手が、

盤上の空気をわずかに震わせた。


俺は、この歩を5五の歩で、

取ることができる。


だが、取れば雫は▲5五歩打と打ち、

俺の5四の銀を動かしに来るだろう。


そして、この銀こそ、雫の隠し刃――

1八の角の道を塞いでいる、唯一の駒。


この歩を取れば、

6三の地点に雫の角が成り込む。


雫の角が世に放たれ、

より強力な“馬”へと昇華する。


(仕方ない。

 この歩は取らない方が――)


……いや。

ここは取るべきだ。


修行の日々で積み上げた感覚が、

そう告げている。


俺は盤に深く潜りこむように、

意識を沈めた。


頭の中で、

駒たちが脈打つように躍動する。


俺は息を吸い、

この決断の先にあるものすべてを、

受け入れる覚悟を決めた。


心音がひときわ強く、

胸の奥で波を打つ。


そして――

渾身の力を込めて、△5六同歩。


「……かかったね!」


その瞬間、雫の眼光が鋭く光る。

盤上に風が走る。


すかさず、雫は▲5五歩打。


俺が△同銀と応じた刹那、

彼女は1八の角を持ち上げ、

6三の地点に成り込む。


一気に俺の自陣へと踏み込んだ。

まるで、闇から現れた忍びのように。


雫の表情が、

勝利を確信したように鋭く変わる。


「……油断したのかい?」


彼女は唇の端を上げる。

だが俺も、すでに駒を握っていた。


△8六歩。


――その瞬間。

盤上に、轟くような駒音が響いた。


歩の突き捨て。

それは、反撃の合図だった。


飛車、角、そして前線へと進めた銀。


駒たちが呼吸を合わせるように、

一斉に躍動し、雫の王に襲い掛かる。


盤上が震え、雫の目が見開かれた。


「……なんだい、

 見落としたわけじゃなさそうだね」


「言ったはずです。

 あなたの好きにはさせないと」


意地と意地がぶつかり合い、

盤上に火花が散る。


その刃が交わった先に、

決着の刻が、確かに近づいていた。

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