表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~  作者: くろ
第1章 江戸・修行編
20/33

第20話 覚悟の一手

――▲1八角。


雫がその手を指した瞬間、思わず、はっと我に返った。


対局中、周囲の音も呼吸も遠くへ霞むほど、俺は全神経を盤に注いでいた。

そう、それは――体ごと盤に溶け込んでいくような感覚だった。


雫の角の動きを封じ、彼女が一度、角を引いた。

張り詰めていた勝負の呼吸が、わずかに緩んだ気がした。

俺は小さく息を吐く。


だが、一度退いたとはいえ、角は盤上を自在に駆ける駒。

ほんの一瞬でも隙を見せれば、俺の玉を貫く刃となる。


それでも――焦りはなかった。

この位置の角が初見であれば、動揺したかもしれない。


しかし、俺はこの角を知っている。

そう、現代でも語り継がれる――師・天野宗歩の名手“遠見の角”を。


この刃、必ず見切ってみせる――


---


雫の角を引かせたとはいえ、まだ勝負は半ば。

一手指すたびに、空気が軋む。


息を呑む攻防の中――

雫が放った手、▲5六歩。

その一手が、盤上の空気をわずかに震わせた。


俺は、この歩を5五の歩で取ることができる。

だが、取れば雫は▲5五歩打と打ち、俺の5四の銀を動かしに来るだろう。

そして、この銀こそ、雫の隠し刃――

1八の角の道を塞いでいる、唯一の駒。


この歩を取れば、6三の地点に雫の角が成り込む。

雫の角が世に放たれ、より強力な“馬”へと昇華する。


(仕方ない。この歩は取らない方が――)


……いや。

ここは取るべきだ。

修行の日々で積み上げた感覚が、そう告げている。


俺は盤に深く潜りこむように意識を沈めた。

頭の中で、駒たちが脈打つように躍動する。


俺は息を吸い、この決断の先にあるものすべてを、受け入れる覚悟を決めた。

心音がひときわ強く、胸の奥で波を打つ。

そして――渾身の力を込めて、△5六同歩。


「……かかったね!」


その瞬間、雫の眼光が鋭く光る。

盤上に風が走る。

すかさず、雫は▲5五歩打。

俺が△同銀と応じた刹那、彼女は1八の角を持ち上げ、6三の地点に成り込む。


一気に俺の自陣へと踏み込んだ。

まるで、闇から現れた忍びのように。


雫の表情が、勝利を確信したように鋭く変わる。


「……油断したのかい?」


彼女は唇の端を上げる。

だが俺も、すでに駒を握っていた。


△8六歩。

その瞬間、盤上に――轟くような駒音が響く。


歩の突き捨て。

それは、反撃の合図だった。


飛車、角、そして前線へと進めた銀。

駒たちが呼吸を合わせるように、一斉に躍動し、雫の王に襲い掛かる。

盤上が震え、雫の目が見開かれた。


「……なんだい、見落としたわけじゃなさそうだね」

「言ったはずです。あなたの好きにはさせないと」


意地と意地がぶつかり合い、盤上に火花が散る。

その刃が交わった先に、決着の刻が、確かに近づいていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ