第18話 忍びの将棋
俺は雫に腕を引かれ、町外れの小さな木小屋へと連れていかれた。
中は薄暗く、古い畳が軋み、湿った木の匂い。
雫は何も言わず、中央に小さな将棋盤を置く。
その音が、戦いの合図のように響いた。
「振り駒は――あたしが振るよ」
そう言って、歩の駒を五枚手に取る雫。
目にもとまらぬ速さで駒を舞わせ、盤の上に落とす。
表が三枚。
駒を振った者、つまり、雫の先手。
(今の動き……見えなかった……)
雫は、空気を揺らさぬまま畳に腰を下ろした。
その瞳が、闇を裂くように光る。
「行くよ」
▲7六歩。
駒の音が鋭く跳ねた瞬間、空気が刃のように張りつめた。
そして――静寂。
まるで、盤の底で忍びが息を潜めているかのように。
「……よろしくお願いします」
△3四歩。
俺は指先の震えを押さえながら応じた。
角道が開いたその瞬間――
雫の眼光が、獲物を見定める刃のように光った。
▲2二角成。
すかさず角を取りに来る。
俺もすぐ△同銀で取り返す。
そして――
▲4五角打。
空気が、凍った。
(まさか……!)
筋違い角――。
将棋でも異端とされる、裏芸・奇襲戦法の代表格。
序盤から相手の読みを外し、戦場を乱す。
まるで――忍びが闇に紛れ、息を殺して刃を突き立てるようだった。
「ふふ……どうしたの? 怖じ気づいた?」
雫は、俺の動揺に気づいている。
(これが、雫の将棋……忍びの将棋か……)
振り駒といい、その指し手といい、圧倒されてばかりだ。
雫のペースに乗せられている。
このまま進めば危ない――そう直感した。
(ここは堅実に穴熊で……)
雫も、この囲いは見たことがないはずだ。
現代将棋が生み出した最強の守り――穴熊。
先生には禁止されているが、それがいちばん安全だろう。
――けれど、それでいいのか?
これまでの宗歩先生との修行で培ったもの。
俺の将棋――
俺は意を決して、駒に手を伸ばした。
△5二金右。
6三の地点を受けた瞬間、雫の角がすかさず俺の歩をかすめ取る。
▲3四角。
(来た……!)
一拍の間を置き、息を吸い込む。
ここだ――!
△6五角打。
盤上が、再び光を放つ。
奇襲に、奇襲で応じる。
相筋違い角。
火花のように視線がぶつかった。
一瞬の沈黙。
雫が目を細め、笑う。
「……まさか、返してくるとはねえ」
「……あなたの好きにはさせない」
俺は静かに、そして力を込めて呟いた。
呼吸が、盤と重なっていく。
一手ごとに、胸の奥が熱を帯びる。
この時代で得たものを――
今、盤の上で確かめる。




