第17話 雫のもう一つの顔
あの事件から一か月。
春の陽気が町を包み、城下はさらに活気づいていた。
宗歩から外出の許しを得て、俺と五平は再び町へ出ていた。
町の中を歩きながら、五平と俺は他愛もない話をしていた。
そのとき、五平が言った。
「あーあ。そろそろ、蓮と対局してみたいよなあ」
「……そうだね。でも先生に止められてるから」
宗歩先生の門下には十人以上の弟子がいる。
けれど、俺はその誰とも対局を許されていなかった。
今の俺が未熟だから――
それもあるだろう。
けれど本当は、俺の“将棋”そのものが違うのだと思う。
(現代の将棋なんて、この時代の人たちは見たこともないからな……)
宗歩先生は、その“異質さ”を感じ取っている。
だから、俺の将棋を封じている。
まだ、五平と俺の将棋は交わる時ではない――
ということなのだろう。
「まあ、いつか対局しようぜ!そのときは、負けねえからな!」
「うん!俺も負けない!」
そんな他愛のないやり取りをしながら町を歩いていると、あっという間に帰りの時間が近づいてきた。
「蓮、俺は先生の使いで呉服屋に行かねばならん。少し待っててくれ」
「へえ、そうなんだ。
じゃあ俺は、そうだな……あの団子屋で待ってるよ」
「おう、すぐ戻る!」
五平が去ると、町のざわめきが一層鮮やかに聞こえた。
香ばしい匂いが風に乗って漂う。
あのとき、遅れて出てきた団子の味が――
まだ舌の奥に残っている気がした。
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俺が団子屋にたどり着き、暖簾をくぐろうとしたとき――
ちょうど一人の町娘が店の奥から出てきた。
それは、以前会った団子屋の従業員、雫だった。
どうやら、仕事を終えてちょうど帰るところらしい。
雫が俺に気づき、ペコリと頭を下げてくれた。
その仕草の柔らかさに、一瞬、時間が止まったように感じた。
けれど次の瞬間――
雫の眼差しと、目元のホクロが、あのときの記憶を鮮やかに呼び覚ました。
胸の奥で、何かが弾けた。
電流が走る。
あの天井から舞い降りた黒装束――
ずれた覆面の隙間から覗いた、あの視線。目元のホクロ。
「あっ……!」
「――ッ!?」
俺が目を見開き、思わず声を上げた瞬間――
雫の表情が固まった。
そして次の瞬間、
柔らかなはずの雫の手が、今は鋼のように俺の口を塞いだ。
「んんっ!?」
「……こっちにおいで」
驚く間もなく、腕を掴まれ、すごい力で路地裏へと引きずり込まれた。
狭い裏通り。
壁に押し付けられた俺の目の前で、雫の瞳が鋭く光る。
その瞳は――団子屋で見せた柔らかな笑顔のものとはまるで違っていた。
「……あんた、気づいたんだね」
「な、何のこと?」
「とぼけても無駄。
……あのとき、少ししか顔は出なかったから大丈夫だと思ったのに」
その声に、冷たい刃のような緊張が混じっていた。
俺は悟った。
やっぱり、この雫があのときの忍者なんだ――。
(……でも、なんで団子屋で働いてるんだ?)
「普段は情報を集めるため、町で働いているのよ」
俺の心を読んだかのように、雫は静かに言った。
一瞬の沈黙。
空気が張りつめ、胸の鼓動の音だけが響いていた。
そして、雫が低い声で静かに言った。
「……残念ね。
あたしの正体を知った者は、生かしちゃおけないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、血の気がサーッと引いた。
雫の瞳には、冗談の色が一片もない。
確かに――将軍の護衛をしている忍なら、正体を知られるわけにはいかないだろう。
そして、その秘密を知ってしまった俺――
その考えに辿り着いた瞬間、空気の温度が一気に下がった気がした。
「えっ……ちょ、ちょっと待って!」
思わず手を振りながら、声が裏返った。
「な、何のことか分からない! 本当に!」
今さらながら、何も気づいていないふりを試みた。
そんな言い訳が通じるはずもないと分かっていながら――
それでも俺は、藁にもすがるように必死に首を振った。
雫はしばらく俺を見つめ、それからふっと息を吐いた。
「……今日はなんで一人なんだい?」
俺は、五平と一緒に町へ来たこと。
五平が用を足しに、呉服屋へ向かったこと。
そして、この団子屋で待ち合わせることになった旨を話した。
「……そう。五平さんも後から来るんだね」
雫は俺の肩を押さえたまま、静かに黙り込んだ。
その沈黙の意味が、最初は分からなかった。
けれどすぐに、一つの考えが頭に浮かんだ。
(そうか……)
雫は、俺が自分の正体に気づいていると思っている。
ただ、もしここで俺が消えれば、
あとから来る五平はこの団子屋を疑うはずだ。
そうなれば、雫にも疑いの目が向くかもしれない。
……たぶん、そんなことを今、考えているのだろう。
「……あんたは、宗歩様の弟子だと言ってたね」
「そ、そうです」
「……消すわけにいかないか」
“消す”という言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
そのすぐあとで、雫は袖の中から小さな将棋の駒を取り出した。
木の香りが、一瞬だけ春の風に混じる。
「じゃあ、こうしよう」
その目が、まっすぐ俺を射抜いた。
「勝負さ。将棋でね」
「え……?」
「あんたが負けたら――」
雫の声が一段低くなる。
「あたしのことは、すべて忘れな」
瞳がきらりと光った。
「宗歩様の弟子なら、将棋で交わした約束――
反故にするなんてこと、しないわよね?」
路地裏に吹く風が、一瞬止まったような気がした。
「……わかりました」
五平もかつて敗れたことがあるという雫。
その本当の実力は分からない。
勝てる確信も、もちろんない。
それでも――俺は覚悟を決めた。
本当に無事に帰れるかもわからない。
そんな状況なのに、胸の奥が熱くなる。
――宗歩先生以外の誰かと将棋を指すのは、江戸に来てからこれが初めてだ。
恐怖と高揚が入り混じったまま、
俺の心は、静かに――けれど確かに、沸き立っていた。




