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棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~  作者: くろ
第1章 江戸・修行編
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第17話 雫のもう一つの顔

あの事件から一か月。


春の陽気が町を包み、城下はさらに活気づいていた。

宗歩から外出の許しを得て、俺と五平は再び町へ出ていた。


町の中を歩きながら、五平と俺は他愛もない話をしていた。

そのとき、五平が言った。


「あーあ。そろそろ、蓮と対局してみたいよなあ」

「……そうだね。でも先生に止められてるから」


宗歩先生の門下には十人以上の弟子がいる。

けれど、俺はその誰とも対局を許されていなかった。


今の俺が未熟だから――

それもあるだろう。

けれど本当は、俺の“将棋”そのものが違うのだと思う。


(現代の将棋なんて、この時代の人たちは見たこともないからな……)


宗歩先生は、その“異質さ”を感じ取っている。

だから、俺の将棋を封じている。

まだ、五平と俺の将棋は交わる時ではない――

ということなのだろう。


「まあ、いつか対局しようぜ!そのときは、負けねえからな!」

「うん!俺も負けない!」


そんな他愛のないやり取りをしながら町を歩いていると、あっという間に帰りの時間が近づいてきた。


「蓮、俺は先生の使いで呉服屋に行かねばならん。少し待っててくれ」

「へえ、そうなんだ。

 じゃあ俺は、そうだな……あの団子屋で待ってるよ」

「おう、すぐ戻る!」


五平が去ると、町のざわめきが一層鮮やかに聞こえた。

香ばしい匂いが風に乗って漂う。

あのとき、遅れて出てきた団子の味が――

まだ舌の奥に残っている気がした。


---


俺が団子屋にたどり着き、暖簾をくぐろうとしたとき――

ちょうど一人の町娘が店の奥から出てきた。


それは、以前会った団子屋の従業員、雫だった。


どうやら、仕事を終えてちょうど帰るところらしい。

雫が俺に気づき、ペコリと頭を下げてくれた。


その仕草の柔らかさに、一瞬、時間が止まったように感じた。

けれど次の瞬間――

雫の眼差しと、目元のホクロが、あのときの記憶を鮮やかに呼び覚ました。


胸の奥で、何かが弾けた。

電流が走る。


あの天井から舞い降りた黒装束――

ずれた覆面の隙間から覗いた、あの視線。目元のホクロ。


「あっ……!」

「――ッ!?」


俺が目を見開き、思わず声を上げた瞬間――

雫の表情が固まった。


そして次の瞬間、

柔らかなはずの雫の手が、今は鋼のように俺の口を塞いだ。


「んんっ!?」

「……こっちにおいで」


驚く間もなく、腕を掴まれ、すごい力で路地裏へと引きずり込まれた。


狭い裏通り。

壁に押し付けられた俺の目の前で、雫の瞳が鋭く光る。

その瞳は――団子屋で見せた柔らかな笑顔のものとはまるで違っていた。


「……あんた、気づいたんだね」


「な、何のこと?」

「とぼけても無駄。

 ……あのとき、少ししか顔は出なかったから大丈夫だと思ったのに」


その声に、冷たい刃のような緊張が混じっていた。


俺は悟った。

やっぱり、この雫があのときの忍者なんだ――。


(……でも、なんで団子屋で働いてるんだ?)


「普段は情報を集めるため、町で働いているのよ」

俺の心を読んだかのように、雫は静かに言った。


一瞬の沈黙。

空気が張りつめ、胸の鼓動の音だけが響いていた。

そして、雫が低い声で静かに言った。


「……残念ね。

 あたしの正体を知った者は、生かしちゃおけないんだよ」


その言葉を聞いた瞬間、血の気がサーッと引いた。

雫の瞳には、冗談の色が一片もない。


確かに――将軍の護衛をしている忍なら、正体を知られるわけにはいかないだろう。

そして、その秘密を知ってしまった俺――

その考えに辿り着いた瞬間、空気の温度が一気に下がった気がした。


「えっ……ちょ、ちょっと待って!」

思わず手を振りながら、声が裏返った。


「な、何のことか分からない! 本当に!」


今さらながら、何も気づいていないふりを試みた。

そんな言い訳が通じるはずもないと分かっていながら――

それでも俺は、藁にもすがるように必死に首を振った。


雫はしばらく俺を見つめ、それからふっと息を吐いた。

「……今日はなんで一人なんだい?」


俺は、五平と一緒に町へ来たこと。

五平が用を足しに、呉服屋へ向かったこと。

そして、この団子屋で待ち合わせることになった旨を話した。


「……そう。五平さんも後から来るんだね」

雫は俺の肩を押さえたまま、静かに黙り込んだ。


その沈黙の意味が、最初は分からなかった。

けれどすぐに、一つの考えが頭に浮かんだ。


(そうか……)


雫は、俺が自分の正体に気づいていると思っている。

ただ、もしここで俺が消えれば、

あとから来る五平はこの団子屋を疑うはずだ。

そうなれば、雫にも疑いの目が向くかもしれない。


……たぶん、そんなことを今、考えているのだろう。


「……あんたは、宗歩様の弟子だと言ってたね」

「そ、そうです」

「……消すわけにいかないか」


“消す”という言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

そのすぐあとで、雫は袖の中から小さな将棋の駒を取り出した。

木の香りが、一瞬だけ春の風に混じる。


「じゃあ、こうしよう」

その目が、まっすぐ俺を射抜いた。


「勝負さ。将棋でね」

「え……?」

「あんたが負けたら――」

雫の声が一段低くなる。

「あたしのことは、すべて忘れな」


瞳がきらりと光った。


「宗歩様の弟子なら、将棋で交わした約束――

 反故にするなんてこと、しないわよね?」


路地裏に吹く風が、一瞬止まったような気がした。


「……わかりました」


五平もかつて敗れたことがあるという雫。

その本当の実力は分からない。

勝てる確信も、もちろんない。

それでも――俺は覚悟を決めた。


本当に無事に帰れるかもわからない。

そんな状況なのに、胸の奥が熱くなる。


――宗歩先生以外の誰かと将棋を指すのは、江戸に来てからこれが初めてだ。


恐怖と高揚が入り混じったまま、

俺の心は、静かに――けれど確かに、沸き立っていた。




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