第16話 忍びの眼差し
町での探索を楽しんだ蓮と五平。
屋敷に戻ると、
宗歩は将軍家の用から、
すでに帰っていた。
宗歩は二人の方に視線を向け、
静かに言った。
「五平、蓮。
来週、将軍・家慶殿に、
お披露目の将棋を指すことになった。
二人とも、見に来るか?」
「勿論でございます!」
五平が間髪入れずに答えた。
(あの将軍って、
徳川家慶だったのか……?)
「将軍・家慶」という名を聞いて、
俺は一瞬だけ、胸の奥がざわついたが、
「私も行きます!」
とすぐに言った。
俺と五平の輝く瞳を見て、
宗歩は小さく笑った。
その笑みには、
戦場へ向かう武士のような――
静かな気迫が宿っていた。
---
お披露目将棋の日。
御座の間には、
張り詰めた静寂が満ちていた。
畳の上には二面の将棋盤。
宗歩はその中央に静かに座している。
その前には、
幕府が育てる若手の俊英――
御城将棋の登用を控えた、
二人の有望株が並んでいた。
その二人を相手に、
宗歩が指導として角を落とし、対局に臨む。
しかも、一人ずつではなく、
二人を同時に相手にする、二面指し。
俺がやったら、きっと盤面が混ざって、
頭がぐちゃぐちゃになる。
(ハンデまであげて、
二人同時に相手だなんて……
いくら先生でも大丈夫なのか?)
俺は少し不安だったが、
それは杞憂に終わった。
広間に、静かな駒音が響く。
それはまるで呼吸そのもののように、
一定の間を刻んでいた。
有望株の二人の仕掛けに、
宗歩は淀みなく静かに応じていく。
その差し手には、一切の迷いがない。
まるで盤上すべての手を、
すでに見通しているかのようだった。
(凄い……!!!)
有望株の二人の指を止める時間が、
次第に長くなっていく。
宗歩の一手を目にするたびに、
力の差を実感しているのだろう。
この二人が宗歩に圧倒されながらも、
必死に喰らいつこうとしている――
その様子を、
将軍・家慶は実に満足そうに眺めている。
そして、俺と五平は息を飲み、
ただただ盤に釘付けになっていた。
(……ん?)
一瞬、空気が震えた。
冷たい針のような気配が、
全身をかすめる。
それは――視線。
盤に注がれる、鋭く、
熱を帯びた視線。
俺や五平のものよりも、
はるかに熱い。
誰かが、息をひそめ、
この勝負を見つめている。
(……この視線、どこからだ?)
思わず辺りを見回す。
しかし、
礼儀正しく座している家臣たちからは、
その気配を感じない。
(気のせいかな?
でも待てよ……
この感じ、最近どこかで――)
俺がそんなことを思った、その瞬間。
「――曲者だっ!!」
鋭い叫び声が、御座の間を裂く。
廊下の方から、
刃を抜いた一人の男が飛び出してきた。
そのまま、
将軍・家慶を目がけて一直線に、
矢のような速さで迫ってくる。
「上様をお守りせよっ!」
家臣の武士たちが、一斉に立ち上がる。
刀が抜かれ、畳が軋む音。
空気が、一瞬で戦場のものに変わった。
そのとき――
俺の頭上の天井が、
バリッと音を立てて割れた。
破片が舞う中、黒装束の影が、
音もなく舞い降りる。
(えっ……忍者!?)
目で追う暇もなく、
その影――いや、忍者は、
稲妻のような速さで曲者に飛びかかった。
刃を交わし、払う、打つ。
わずか数呼吸のうちに、
男は床に押さえつけられていた。
「うわ……速っ!……凄い!」
俺は思わず声を漏らす。
暴れる男を押さえつけるその腕が、
一瞬わずかに緩む。
男が抵抗して体をねじる。
その瞬間――
覆面がずれ、忍者の右横顔がのぞいた。
真っ白な肌。
凛とした目元。その下に――
小さなホクロ。
(……え?女の人?)
忍者はすぐに覆面を直し、
男に一撃を加える。
男が気を失うのを見届けると、
忍者は何事もなかったかのように、
天井裏へと消えていった。
---
曲者の男は家臣たちによって捕らえられ、
連れていかれた。
誰の命で将軍・家慶を襲ったのか。
これから、厳しい尋問が待っているだろう。
お披露目将棋は、また日を改めて、
後日に行われることとなり、
俺と五平は城を後にし、帰路についた。
歩きながら、
五平は目を輝かせて言った。
「いやー。
あの忍者、惚れ惚れしたなあ!」
「……そうだね」
俺は五平に、あの忍者は女の人だった、
と言おうか悩んだ。
けれど、
五平が信じてくれる気がしなかったから――
言葉を飲み込んだ。
「多分……
将軍の護衛の伊賀の忍者だな、あれは」
「護衛の忍者なんているの?」
「そうだな、蓮も見ただろ?
あの忍者が将軍を守ったところ」
俺も確かに見た。
曲者をあっという間に退治してしまったあの手際、見事だった。
ただ、俺は別のことを考えていた。
盤を見つめていた視線――
あの視線は、
天井にいた忍者のものだったのでは?
覆面の奥で光った瞳。
その目元のホクロ。
それが、どうしても頭から離れなかった。
まるで――
あの眼差しが、
今もどこかで、俺を見ているような気がした。




