表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
棋聖の孫、江戸に立つ ~盤上の記憶譚~  作者: 一進(にのまえすすむ)
第1章 江戸・修行編
11/64

第11話 宗歩の弟子、小野五平

▲6八玉――


盤上に響いたその一手が、

広間の空気を変えた。


宗歩はしばらく盤を見つめ、

やがて小さく頷いた。


「……見事。其方の勝ちだ」


「……え?」


その言葉を聞いた瞬間、

張りつめていた全身の力が、一気に抜けた。


勝った。

――命をつなぎとめた。


俺は床に手をついたまま、

しばらく動けなかった。


指先が震える。

呼吸がうまくできない。


ようやく息を吐いた瞬間、

涙が一粒、盤の上に落ちた。


歓喜ではない。

ただ、生き残ったという実感。


対局室の空気が、

少しずつ現実に戻っていく。


けれど、心だけは――

まだどこか遠くをさまよっていた。



‐‐‐



気がつくと、俺は宗歩の背を追って、

城を出ていた。


いつの間にか夜の帳が降り、

街灯もない江戸の通りが闇に沈む。


道の両脇には、

瓦屋根の家々が肩を寄せ合い、

障子の隙間からこぼれる灯が、

闇の中に淡く滲んでいた。


湿った土の匂い。

行燈の油が焦げる匂い。


遠くで犬が吠え、

誰かが戸を閉める音がする。


アスファルトも街灯もない世界。

ジャージ姿の俺だけが、

この風景から浮いているのがわかる。


(……これが江戸の夜)


まるで夢の中を歩いているようだった。



‐‐‐



「どうせ帰るところもないであろう」


宗歩の声が闇に響いた。

俺は何も言えず、ただうなずいた。


連れて行かれたのは、城下の一角にある屋敷。


「お帰りなさいませ、先生」


出迎えたのは、俺と同い年か、

少し年上くらいに見える青年だった。


青年は、無駄のない動きで、

宗歩の履物を片づける。


その眼差しには、

警戒の色が滲んでいたが――


不思議と安心するような、

温かい眼差しでもあった。


「……先生、この者は?」


「五平。この者は今日から私の弟子となる。蓮と申す」


その言葉が広間の空気をざわつかせた。


(……ごへい?って、まさか……)


俺の頭の片隅で、記憶が甦る。


――小野五平。


後に、家元出身以外で、

初めての"推挙制名人"となる伝説の棋士。


当時は世襲制で、いくら実力があっても、

なれなかった"名人"という地位。


そう、この隣にいる宗歩でさえも。


その五平が目の前にいる?


五平が名人になったのは、

宗歩の死後、何十年も経った後だったと思うから……


今、目の前にいる五平は、

宗歩の元で修行しているときってこと?


「先生。

 この前は、もうこれ以上、

 弟子は取らないと仰っていたような?」


「そうだな。……だが、この者は特別じゃ」


宗歩はそれ以上語らず、

ただ俺の方を見た。


その目に宿るのは、

まるで何かを見通すような静かな光。


五平はポカンとした表情になった。


「五平。

 蓮に召し物と寝床を用意してやってくれ」


「は、はい。分かりました!」


五平は、俺を部屋へと案内してくれた。


廊下を歩く2人の足音が、静かに響く。


屋敷の中は広く、木の香りで、

心が落ち着くような気がした。


五平は部屋の戸を開け、灯りをともす。

明かりがゆらぎ、畳の上に淡い影を落とした。


「着替えはここに置いておくよ」


五平は手早く畳んでいた着物を差し出す。


「……色々聞きたいこともあるけど、

 ひどく疲れている様子だから、

 早く休んだ方がいい」


そう言って、五平は軽く笑って出ていった。



‐‐‐



1人になった部屋。

ようやく息がつけた。


畳の上に腰を下ろすと、

遅れて疲労が押し寄せてくる。


――生きている。

――そして、本当に、江戸時代にいるんだ。


そう実感した瞬間、遠くから、

おじいちゃんの声が聞こえたような気がした。


(蓮……偉かった。よく頑張ったなあ)


静かに、胸の奥が熱くなる。

昔と変わらず、俺を褒めてくれるおじいちゃんの声。


思わず涙がこぼれた。


用意された服に着替えた後、

布団に潜り込み、まぶたを閉じる。


静かな夜。


遠くから聞こえる虫の声が、

俺の心に温かく響いた。


俺はやがて、深い眠りに落ちていった。


江戸での、新しい日々が始まろうとしていた――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
無事、勝って、宗歩さんの弟子になれましたね! やはり、穴熊の急所の端攻めできましたか〜。 王で受けに行く怖さや、それで、活路が開ける展開が、リアルで良かったです! 今後の江戸での生活がどうなってい…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ