第11話 宗歩の弟子、小野五平
▲6八玉――
盤上に響いたその一手が、広間の空気を変えた。
宗歩はしばらく盤を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……見事。其方の勝ちじゃ」
「……え?」
その瞬間、張りつめていた全身の力が一気に抜けた。
勝った。
――命をつなぎとめた。
俺は床に手をついたまま、しばらく動けなかった。
指先が震える。
呼吸がうまくできない。
ようやく息を吐いた瞬間、涙が一粒、盤の上に落ちた。
歓喜ではない。
ただ、生き残ったという実感。
対局室の空気が少しずつ現実に戻っていく。
けれど、心だけはまだどこか遠くをさまよっていた。
‐‐‐
気がつくと、俺は宗歩の背を追って、城を出ていた。
いつの間にか夜の帳が降り、街灯もない江戸の通りが闇に沈む。
道の両脇には、瓦屋根の家々が肩を寄せ合い、
障子の隙間からこぼれる灯が、闇の中に淡く滲んでいた。
湿った土の匂い。行燈の油が焦げる匂い。
遠くで犬が吠え、誰かが戸を閉める音がする。
アスファルトも街灯もない世界。
ジャージ姿の俺だけが、この風景から浮いているのがわかる。
(……これが江戸の夜)
まるで夢の中を歩いているようだった。
‐‐‐
「どうせ帰るところもないであろう」
宗歩の声が闇に響いた。
俺は何も言えず、ただうなずいた。
連れて行かれたのは、城下の一角にある屋敷。
「お帰りなさいませ、先生」
出迎えたのは、俺と同い年くらいの青年だった。
青年は、無駄のない動きで宗歩の履物を片づける。
その眼差しには警戒の色が滲んでいたが――
不思議と、安心するような温かい眼差しでもあった。
「……先生、この者は?」
「五平。この者は今日から私の弟子となる。蓮と申す」
その言葉が広間の空気をざわつかせた。
(……ごへい?って、まさか……)
俺の頭の片隅で、記憶が甦る。
――小野五平。
後に、家元出身以外で初めての"推挙制名人"となる伝説の棋士。
当時は世襲制で、いくら実力があってもなれなかった"名人"という地位。
そう、この隣にいる宗歩でさえも。
その五平が目の前にいる?
五平が名人になったのは、宗歩の死後、何十年も経った後だったと思うから……
今、目の前にいる五平は、宗歩の元で修行しているときってこと?
「先生、この前は、もうこれ以上弟子は取らないと仰っていたような?」
「そうだな。……だが、この者は特別じゃ」
宗歩はそれ以上語らず、ただ俺の方を見た。
その目に宿るのは、まるで何かを見通すような静かな光。
五平はポカンとした表情になった。
「五平、蓮に召し物と寝床を用意してやってくれ」
「は、はい。分かりました!」
五平は、俺を部屋へと案内してくれた。
廊下を歩く2人の足音が静かに響く。
屋敷の中は広く、木の香りで心が落ち着くような気がした。
五平は部屋の戸を開け、灯りをともす。
明かりがゆらぎ、畳の上に淡い影を落とした。
「着替えはここに置いておくよ」
五平は手早く畳んでいた着物を差し出す。
「……色々聞きたいこともあるけど、ひどく疲れている様子だから、早く休んだ方がいい」
そう言って、五平は軽く笑って出ていった。
‐‐‐
1人になった部屋。
ようやく息がつけた。
畳の上に腰を下ろすと、遅れて疲労が押し寄せてくる。
――生きている。
――そして、本当に、江戸時代にいるんだ。
そう実感した瞬間、遠くから、おじいちゃんの声が聞こえたような気がした。
(蓮……偉かった。よく頑張ったなあ)
静かに、胸の奥が熱くなる。
昔と変わらず、俺を褒めてくれるおじいちゃんの声。
思わず涙がこぼれた。
用意された服に着替えた後、布団に潜り込み、まぶたを閉じる。
静かな夜。
遠くから聞こえる虫の声が、俺の心に温かく響いた。
俺はやがて、深い眠りに落ちていった。
江戸での、新しい日々が始まろうとしていた――。




