第1話 プロローグ ~空の上の記憶~
[登場人物紹介]
神矢 蓮 本作の主人公。高校一年生。
神矢 宗一郎 プロ棋士だった蓮の祖父。
神矢 千景 蓮の祖母。
神矢 美月 蓮の母。夫を若くして亡くす。
天野 宗歩 伝説の棋士。
小野 五平 宗歩の弟子。
徳川 家慶 江戸幕府第十四代将軍。
雫 団子屋で働く町娘。
俺は気づくと、空の上に浮かんでいた。
何を言ってるんだ、と思うかもしれない。
でも、本当にそうだった。
周りに広がるのは、青い空と白い雲。
下を見れば、ミニチュアのような町の景色が広がっている。
思わず、背筋に冷たいものが走った。
俺はただでさえ高いところが苦手だ。
二階のベランダから下をのぞくだけでも、足がすくむ。
なのに、ここはそれどころじゃない。
足元には何もない。
ただどうやら、落ちる気配はなかった。
(……なんなんだ、これ?)
頼りない姿勢のまま、俺は必死に下を見回した。
(ここは……)
見覚えのある景色だった。
そうだ。
ここは俺の住んでいる町だ。
試しに体を前へ傾けてみると、
俺の体は、すうっと町の方へ進んだ。
まるで空を飛んでるみたいに。
なんとも不思議な感覚だった。
少しずつ高度を下げていくと、
一軒の家が目に入った。
古い瓦屋根。大きな庭。
縁側の脇に立つ柿の木の葉が、
太陽の光を受けて眩しいくらいに輝いている。
見間違えるはずがない。
これは、おじいちゃんとおばあちゃんの家だ。
もっと近づいてみると、
その縁側に一人のお年寄りと、小さな子どもが、
何かを挟んで向かい合って座っていた。
(あれは……おじいちゃん?)
そのお年寄りは、俺の祖父・宗一郎だった。
俺の胸がどくんと鳴った。
ここはおじいちゃんの家だ。
その縁側におじいちゃんが座っていたって、
全然不思議じゃない。
でも――
おじいちゃんは、もう十年以上前に亡くなっている。
呆然としながら、
俺は、おじいちゃんの向かいに座る小さな子どもへ目を向けた。
まだ幼稚園に通っているくらいの男の子。
その顔を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
「……俺?」
そこに座っていたのは、幼い頃の俺だった。
ちびっこの俺は、二人の間に置かれた何かを真剣に見つめている。
四角い木の台。その上に置かれた小さい駒。
よく見ると、それは、足つきの立派な将棋盤だった。
(え? 俺とおじいちゃんが将棋を指してる?)
その光景に驚いた。
俺は将棋なんて、駒の動かし方を知っている程度だ。
おじいちゃんと勝負になるわけがない。
そう思ったとき、ちびっこの俺が突然叫んだ。
「ねえ! おじいちゃん! 早く指してよー!」
うわ。
声まで昔の俺だ。元気すぎる。
宗一郎は困ったように笑いながら、盤を見つめている。
「うーん、困ったわい……」
どうやら、おじいちゃんの手番らしい。
ちびっこの俺は待ちきれずに前のめりになっている。
やがておじいちゃんが、仕方なさそうに一手を指した。
その瞬間――
「よし! これで詰みだ!」
ちびっこの俺は、ほとんど間を置かずに駒を打った。
しばらく盤を見つめていたおじいちゃんが、
ゆっくりと頭を下げる。
勝負が決まったらしい。
「やったー!」
ちびっこの俺が飛び上がった。
「おじいちゃんに、二枚落ちで初めて勝ったー!」
(え……?本当に?おじいちゃんが負けた?)
あり得ない光景に息が詰まった。
いくら二枚落ちだからって、
そんなことがあるはずはなかった。
だって、おじいちゃんは――
「えっ、あなたが負けたの?」
いつの間にか縁側に出てきていたおばあちゃんも、目を丸くしている。
おじいちゃんはバツが悪そうに笑っていた。
でも、よく見ると――
すごく嬉しそうな顔をしていた。
ちびっこの俺はというと、
勝てたのがよほど嬉しいのか、
縁側でぴょんぴょん飛び跳ねている。
その姿を見ているうちに、何かが込み上げてくるのを感じた。
……あ。
なんだ……これ。
胸の奥で、ほどけていく。
ずっと忘れていたはずの温もりが、
音もなく溢れ出してきた。
ああ――そうか。
思い出した。
俺は、この頃、勝てなくて当たり前なのに、
負けるたびに悔しくて。
それでも何度も、
何度もおじいちゃんに挑戦して。
やっと勝てたことが嬉しくて。
それだけで、世界が全部輝いて見えた。
そうだ。
俺は――
将棋が好きだったんだ。
---
その瞬間、視界が、真っ暗になった。
(……え?)
さっきまで、おじいちゃんの家にいたはずなのに。
次に見えたのは、薄暗い部屋だった。
ここも見覚えがある。
俺の家の、仏壇が置いてある部屋だ。
部屋の奥には……父さんの仏壇がある。
俺の大好きだった父さん。
でも、父さんは心臓が悪くて、
俺が小さい頃に亡くなった。
その仏壇の前に、母さんが座っている。
背中を丸めて、静かに泣いていた。
俺は声をかけようとした。
でも、声が出ない。
母さんは俺に気づく様子もなく、
ただ仏壇を見つめている。
これも――昔の光景なんだろうか。
そんなことを思った時、
母さんが、小さな声で呟いた。
「あなたは……」
声が震えていた。
「ただ、将棋が好きだっただけなのにね」
(……将棋?)
その言葉に、
胸の奥がざわついた。
父さんと――将棋?
なぜか、その二つがうまく結びつかない。
父さんが将棋を指していた記憶なんてない。
……なのに。何かが引っかかる。
ずっと閉じていた扉の向こうから、
かすかな記憶が漏れてくるような――
そんな感覚。
(父さんが……将棋?)
そのとき、頭の奥に、一つの光景がちらついた。
盤の前に座る男の背中。
将棋盤へ伸びる、大きな手。
二本の指でつままれた駒。
――パチン。
駒を置く音。
(……父さん?)
さらに、別の光景が浮かんだ。
将棋盤を前にして笑っている父さん。
誰かと話している父さん。
たくさんの人に囲まれ、
真剣な顔で盤を見つめている父さん。
「……そうだ」
思わず、声が漏れた。
父さんも――
将棋を指していた。
どうして忘れてたんだ。
父さんは将棋が強かった。
ものすごく強かった。
たしか――
プロを目指していたくらいに。
なのに。
(……あれ?)
そこから先が、出てこない。
父さんがどんな将棋を指していたのか。
俺と将棋を指したことがあったのか。
思い出そうとする。
だけど――何も浮かばない。
さっきのおじいちゃんとの将棋は、
あんなにはっきり思い出せたのに。
(なんで……?)
胸が苦しい。
父さんのことなのに。
どうして俺は――
---
「――っ!」
目を開けた。
真っ白な天井が見えた。
そして俺は――
見覚えのないベッドの上にいた。




