第5話 兆し
教室のざわめきと、病室の静けさのあいだで、僕らの時間はゆっくりと、でも確かに動きはじめた。
声にできない秘密を抱えたまま、小さな嘘とほんの少しの勇気を織り交ぜて、心は静かな波紋を広げていく。
まだ見ぬ未来の片隅に、たしかに灯った光のようなもの——
それはまだ、ほのかで儚いけれど、確かに僕らの胸を温める、ささやかな“兆し”。僕はそれを信じることにした。
いつか、そこから新しい季節が芽吹くことを願いながら。
いつもの日々が始まる。そう思ったのも束の間、予想外の出来事が起きた。
「おはよう!」
「あぁ、おはよう」
元気よく挨拶してきたのは、僕の前の席に座る蟹山。僕とは対照的な陽キャ男子だ。そんな彼の手の中で、あの人形がもみくちゃにされていた。僕は咄嗟に彼の手から人形を奪うように取り戻す。
「ちょっと、これやめてくれない?」
「ん?ああ、ごめん。いやさ、こんなのつけてるの珍しいなって」
「ま、まぁね……」
まさか、とは思ったが、僕の予感は見事に的中した。
「この人形、どうしたの? 一人でこういうの買うタイプじゃないでしょ、お前」
「えっ……」
最悪だ。蟹山にまで突っ込まれるとは。どうにかごまかさなければ、と咄嗟に言葉を探す。
「い、いや、実は僕……こういうの、ちょっと好きでさ。あ、アハハ……」
視線を斜め後ろに向けると、低島がこちらを見ていて、親指を立ててニヤリと笑った。いや、何もよくないよ!?内心でツッコんでいると、蟹山がさらに追撃してくる。
「へえ? でもさ、そんな趣味あるって聞いたことないけど。……プレゼントなんじゃないの?」
なぜこんなに勘が鋭いのか。僕はもはやお手上げ状態だった。
こいつは本当に口が軽い。僕は知ってる。だからこそ話したくなかった。でも、「プレゼント」ってだけじゃ、どうしても話が繋がらない気がして……ほんの少し、彼に打ち明けた。今思えば、あのときの僕は、ずいぶん甘かったと後悔している。
「ま、まぁ、プレゼントなんだよ。『こういうの、好きそう』って言ってくれてさ……」
「ふ〜ん。彼女?」
「なんでそうなるの!?」
本当になんで!? どうして僕の周囲の人間は、“プレゼント=彼女から”という脳内変換が即座に起きるんだ。これが思春期というやつなのか。僕には、いまだに青春の法則がわからない。
「え? そんな反応するってことは、やっぱ彼女だな〜」
くそ、やっぱりこの手の相手に嘘は通じない。けど、こいつはノリも軽いし、口も軽い。——そう思った瞬間、彼女の言葉が、ふと胸に蘇った。
『君が大切に思うことは、誰も決して裏切ったりしないんだよ。』
それが本当なら。信じていいのなら。こいつにも、話していいんだろうか。胸の奥で、葛藤がせめぎ合う。
でも——
「……わかった。話すよ。でも、条件がある。この話は絶対秘密。他に知ってるのは低島だけ。だから、僕と君と彼女、3人だけの秘密にする。それを守ってくれるなら……」
「あぁ、もちろん。誰にも言わないよ」
その返事は、あまりにも軽かった。彼はこれから知ることの重さを、まだ知らない。それでも僕は、信じてみることにした。彼女がくれたあの勇気を、もう一度、信じてみたかった。
僕は他の友達にバレることがないようパソコンのメモにこれまでの経緯をまとめて、蟹山にそっと見せた。彼は目を丸くしながら、じっと画面を見つめていた。そして——
「……辛かったな」
そう言って、僕の肩をポンと叩いた。その手の温度が、妙に優しくて。少しだけ、友達ってものを、信じてみてもいい気がした。
その日の放課後。僕は病室に向かい、今日の出来事を彼女に話した。
「なるほど、蟹山くんって子にも話したんだね」
「うん。君のおかげだよ。君の“信じてみて”って言葉が、僕の背中を押してくれた。本当にありがとう」
「でしょでしょ! もっと褒めてもいいんだよ〜?」
「うん……そういうとこはあんまり、見習わなくてもいいかな」
「ねぇ〜なんでそうやって、すぐ冷たくするの?」
「冗談だよ。」
僕は笑いながら、そっと、彼女の頭に手を伸ばした。まさか撫でられると思っていなかったのか、彼女は驚いた顔をしたあと、満面の笑顔で僕の肩に頬をすり寄せてきた。花のような匂いと、やわらかな温もりが伝わってくる。僕はこの温もりを、ずっと感じていたかった。
「じゃあ、もう帰るね」
「ちょっと待って!」
ドアノブに手をかけた僕に、彼女が声をかける。
「え?」
「私のこと知ってる友達が、もう2人できたんでしょ? じゃあ、学校でもやりとりしていいよね!」
「やりとりって……まさか、連絡手段?」
「そう! 学校でもメールしようってこと!」
「僕、スマホに入ってるメッセージアプリなんてパソコンに入ってないよ」
「そこは君が工夫するんでしょ?」
「いや、学校のパソコンにそんなの入れたら僕、速攻で没収されるよ」
「うーん……じゃあどうすれば……」
2人して唸っていたけれど、すぐに思いついた。
「じゃあ、Mailを使おう」
「えむ……めーる?」
困惑する彼女の隣に、僕はまた座る。
「うん、Mmail。学校のパソコンに元々入ってるMaableって検索アプリ、知ってる?」
「知ってるけど……私、そんなのスマホに入れてないよ?」
「大丈夫。そこのパソコン——病室にあるやつにも入ってるはずだよ。開いてみて」
僕が指さすと、彼女は嬉しそうに眼鏡をかけて、ノートパソコンを開いた。その横顔が、いつもより少し大人びて見えた。
「えっと、まーぶる……まーぶる……あ、あった! これ?」
「それそれ。で、Mmailを開くと……」
「うわっ、メール画面だ!」
「この“宛先”ってとこに僕のアドレスを入れれば、学校でもやりとりできるよ」
僕は小さな紙にMmailのアドレスを書いて渡す。
彼女はその紙を両手で受け取って、パァっと顔を輝かせた。
「ありがとうっ!」
その笑顔があまりにも眩しくて、病室の蛍光灯なんかよりずっと明るかった。自然と僕の顔にも、笑顔が浮かんでくる。
「じゃあ、またね」
「うん、またね!」
病室を出ると、背後から「わ〜っ!」という彼女のはしゃぐ声が漏れてきた。どうやら、よっぽど嬉しかったらしい。彼女の笑顔が、まだ脳裏に焼き付いている。僕は廊下を歩きながら、小さく息を吐く。さっきまでいたあの小さな部屋と、この長い廊下。たったそれだけの移動なのに、今日は景色が少し違って見えた。
彼女とこうして繋がれるようになったこと。
蟹山に話せたこと。
どれも、ほんの些細なことかもしれない。でも、それがたしかに、何かの始まりのように思えた。未来のことなんて、まだ何もわからない。けれど——
「……また、会いに来よう」
独り言のように呟いた声が、病院の壁にやさしく吸い込まれていった。
その夜、彼女からメールが届いた。
内容は、頭を撫でてくれて嬉しかった、本格的にカップルみたいになってきて嬉しい。というようなものだった。
何の特別な意味もない、でもなぜか胸がふわりと温かくなる、そんなメッセージだった。まだ何も変わっていないはずなのに、ほんの少しだけ、未来のことを想像してみたくなった。
でも、何か忘れている気がする……いや、きっと気のせいだろう。そう心を躍らせながら、僕は深い眠りについた。