第1話 出会い
よく友達と遊んでいた公園には、一際大きな枝垂桜の木がある。
今は夏、花を咲かせる季節ではないけれど、その木は他の木の倍近い背丈で、枝を地面に向かって優雅に垂らし、鮮やかでもなく、かといって深いとも言いきれない曖昧な緑の葉を茂らせている。まるでこの公園の御神木のような、そんな存在感を放っていた。
この木には、ある“魂”が眠っている。
……いや、眠っているはずなのに、なぜかいつも落ち着かない。風が吹くたびに葉がざわめき、その音が、耳元で誰かが囁くように聞こえてくるのだ。
今日も僕は、その木の下にあるベンチに腰を下ろし、遠くで鬼ごっこをする小学生たちをぼんやりと眺めていた。
「おはよう。今日で……1週間だね。君は元気にしてた?」
もちろん、返事は返ってこない。聞こえるのは、風に揺れる葉のワサワサという音だけ。けれど僕には、それがどこか寂しげなため息のように思えた。
「まだここで、僕を見守ってくれてるのかな。……君はほんと、律儀だよね。」
やっぱり、返事はない。
「少しくらい、返事してくれてもいいのにさ。」
そう呟いて、ひとりで苦笑する。きっと傍から見たら、かなり変なやつだと思われてるだろう。
「僕はもう行くよ。今日から夏期講習なんだ。朝から夜まで塾にこもる受験生って、ほんと大変だよね。」
時間がないのはわかっていたけど、今日だけは顔を見せておきたかった。特別な記念日じゃないけど、君との“1週間”は、僕にとって特別なんだ。
「……講習が終わったら、また来る。おそらく、夜の10時くらいになると思うけど。」
そう言いながら立ち上がり、自転車にまたがる。
「安心してよ。君との約束のあの高校、絶対に合格するからさ。」
ペダルをこぎ出すと、イヤホンからsumokaの歌が流れ始めた。それは、僕らの思い出をやさしく呼び起こすようで。そして、まだ終わっていない別れをそっと突きつけてくるような、切なく心地よい旋律だった。
時はさかのぼり、中学1年生の春。
僕はいつものカードショップで、『MATU』として大会に出場していた。
「えっと、対戦卓は……5番。相手は『まぁむ』さん?」
店員が読み上げる対戦表を聞きながら、指定されたテーブルへ向かう。このカードショップにはもう2年近く通っているけれど、『まぁむ』という名前は初耳だった。どんなプレイヤーだろう? 少しわくわくしながら席に着いた。
だが――
僕の目の前に現れた相手は、予想を裏切る存在だった。机を挟んだその向こう側にいたのは、僕と同じ年頃の、女の子だった。思わず「えっ」と声が漏れる。彼女には聞こえていなかったようだが、このカードゲームで女の子と対戦するのは初めてで、完全に意表を突かれた。
「対戦お願いします……えっと、私、この大会に出るのは初めてなので、何か間違ってたら教えてもらえると嬉しいです……」
弱々しくそう言った彼女の声からは、まだゲームを始めて間もないことが伝わってきた。
「了解しました」
僕はそう返して、手際よく準備を始める。そして、試合開始の合図が響いた。
『準備はできましたでしょうか? それでは第1回戦――デュエル、スタート!』
「対戦お願いします。さいしょはグー、じゃんけんぽん。勝ったので先行もらいます。マナチャージして、ターンエンドで」
彼女がどんなデッキを使ってくるのか――僕はプレイの確認も兼ねて、注意深く見守っていた。しかし次の瞬間、またしても驚かされる。
「えっと……ドローして、マナチャージして……ターンエンド、で」
彼女の手元に見えたカードから、僕はすぐに気づいた。
まさか、青魔術……!?
カード1枚からでも構築を読み取れるようになっていた僕には、そのデッキがどれだけ高難易度かがすぐにわかった。当時、「青魔術」は最強クラスのデッキのひとつで、戦略性も操作も複雑だ。初心者が手を出すには、かなりハードルが高い。
でも――彼女はそれを選んだ。きっと、強くなりたかったんだ。誰かに勧められたのか、それとも自分で選んだのかはわからない。でも、不器用ながらも一生懸命プレイしている姿を見て、僕はその理由を探るのをやめた。
彼女の手元は何度か止まり、そのたびに小さく首をかしげていた。プレイのルールや処理の順番に迷っているのがわかった。僕は少しだけ助け舟を出しながら、静かに試合を続けた。
青魔術の本来の強さを活かせないまま、試合は徐々に僕のペースに傾いていく。だけど、彼女のターンのたびに、なんとか一手をひねり出そうとする姿が印象に残った。
そして数ターン後――僕の攻撃が通り、試合は終わった。
「対戦ありがとうございました」
「ありがとうございました……」
勝ったのに、どこか後味の悪さが残っていた。まだ慣れていない様子の彼女に、僕はちょっと本気を出しすぎた気がする。少し気になって、そっと声をかけた。
「……あの、初めての大会なのに、すみません。僕、ちょっと容赦なかったですよね。よかったら、何かアドバイスしましょうか?」
「……え? いやそんな、迷惑じゃないですか?」
戸惑いながらも、どこか安心したように彼女が僕を見上げる。その目に映るわずかな期待が、僕の胸にやさしく触れた。
かわいい――そう思ったのは、たぶん気のせいじゃなかった。
「いえいえ、全然。僕も、誰かに何かを教えるの、ちょっと憧れてたので」
「……そうなんですね。じゃあ、お願いしてもいいですか? 私、自分のどこがダメだったのか、あんまり分かってなくて……」
その言葉は、悔しさよりも、前を向こうとする気持ちに満ちていた。きっと彼女は、ほんの少しのきっかけを探していたんだ。
「もちろんです。じゃあ、まず最初に……」
僕は彼女に、青魔術を使う上でのコツや立ち回りの基本を、できるだけ丁寧に教えた。彼女は真剣に耳を傾けて、時折「あ、なるほど」と小さくうなずいた。ふっと笑うその表情には、少しずつ緊張がほぐれていくのが見えた。マスク越しだったけど、それでも伝わってくるような、やさしい笑顔だった。
そんな穏やかな時間も、次の対戦カードの発表によって静かに終わりを告げる。『第2回戦を開始します』という店員の声に、僕たちは顔を見合わせて立ち上がった。
「じゃあ、またあとで……」
「はい、がんばってください!」
そうして僕たちはそれぞれのテーブルへ向かい、第2回戦、第3回戦、そして第4回戦と試合を重ねた。どの試合も白熱していたけれど、集中し続けた甲斐あって、最終的に僕は優勝することができた。デッキレシピを店員に提出し、少し気が抜けたように椅子に座っていると、さっきの彼女がそっと近づいてきた。
「優勝、おめでとうございます!」
「あ、ありがとうございます」
「ほんとにすごいです……私なんか、まだ全然……」
「そんなことないですよ。少し見てましたけど、最初よりずっと落ち着いてプレイできてたと思います。」
「……そうですか?」
「はい。何事も練習あるのみですしね」
「……うん、もっと頑張らなきゃ……」
少しうつむいた彼女が、ふと思い出したように顔を上げる。
「……あの、もし時間があればなんですけど……」
「はい?」
「さっき教えてもらったこと、実戦で練習させてもらえませんか?」
また、この上目遣い。僕は何度この彼女の“武器”に心を揺さぶられるのだろうか。
……いやいや、ダメダメ。そんなつもりじゃないはずだ。
「えぇ、いいですよ」
今日は友達もいないし、家に帰っても暇だった。彼女ともう少しデュエルができるのなら、むしろありがたかった。僕らは席に座り、デュエルを始める。
しばらくして、店内にチャイムが鳴った。時計を見ると、もう5時。そろそろ帰ろうか、と思っていたその時――
「もう5時!? すみません、私もう帰らなくちゃ!」
急に焦ったように彼女が立ち上がる。僕も5時には店を出ると親と約束していたから、ちょうどよかった。
「あ、実は僕もちょうど帰ろうと思ってたところなんです…」
「そうなんですね……あの、どっちの方に帰るんですか?」
「A中学校の裏あたりです。まっすぐ行ったところですよ」
「えっ、じゃあ途中まで一緒かもしれないですね……。よかったら、一緒に帰ってもいいですか?」
「えぇ、もちろん」
そうして僕たちは、帰路についた。自転車を並べて走っていると、どこかぎこちなくて、会話も途切れがちだった。だが、夕焼けが差し込む道を、ただ黙って進む時間が少しだけ心地よかった。
そんな中、彼女がぽつりと口を開いた。
「……今日は、本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。僕も、楽しかったです」
また少し沈黙。風の音だけが、ふたりの間をやさしく通り過ぎていく。
やがて、彼女が少しだけうつむいて言った。
「……あの、実は私……あんまり学校に行けてなくて。友達も、まだいないんです」
その言葉に、胸の奥がすこしだけ締めつけられた。
「そうだったんですね……でも、今日お話しできて、デュエルできて、嬉しかったです」
「……ありがとうございます」
彼女がちらっとこちらを見て、少しだけ、安心したように笑った。言葉が途切れ、静かな時間が少しだけ続いた。そして、
「……その……私、日曜日しか外に出られないんですけど……」
「はい。」
「もしよかったら、また……日曜日に、一緒にデュエルしてくれませんか?」
目をそらしながら、でも勇気を出して伝えてくれたその言葉が、まっすぐ胸に届いた。僕の心臓が、不意に高鳴る。
「……もちろん。楽しみにしてます」
交差点の手前で、彼女が自転車を止めた。
「私、こっちなので……」
「わかりました。気をつけて」
一瞬の沈黙――
でも、彼女がふっと微笑んで言った。
「じゃあ、またね」
僕も同じように笑い返す。
「うん、またね」
彼女の頬が少し赤く見えたのは、きっと夕焼けのせいだろう。
それから僕らは、日曜日になるといつものカードショップで遊ぶようになった。メールも交換して、少しずつ距離が縮まっていくのを感じていた。彼女が通うのは僕とは違う学校で、カードゲームを始めて間もないことも知った。少しずつ彼女の表情が明るくなっていくのを見て、僕は気づいた。彼女は、僕の友達で、クラスで一番うるさい古井と同じくらい元気になっていったのだ。
ある日、帰り道のわずかな沈黙の中で、彼女がぽつりと口を開いた。
「そういえば……MATUくんって、私の初めての友達なんだよね」
その言葉に僕は少し胸が熱くなった。
「そう言ってもらえて、本当に嬉しいよ。僕も、君と友達になれてよかった」
彼女は少し照れくさそうに笑った。
「うん……それだけで、なんだか嬉しくて」
僕の胸に、ふわりと温かいものが広がった。
『初めての友達か……』
心の中で呟いた言葉は、喜びとともに、少しの不安も帯びていた。
勉強も運動も特別できるわけじゃない、ただの平凡な僕でいいのだろうか。デュエルの相手にはなれても、本当の意味で彼女の“友達”になれているのか――
答えの見えない問いに、僕はただ自転車のハンドルをぎゅっと握りしめた。
風がそっと頬を撫で、夕焼けがふたりの影を長く伸ばす。
答えはまだわからないけれど、それでも僕は、彼女とこれからもずっと友達でいようと心に誓った。