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6 屋上の少年

 私は食堂へは行かなかった。

 代わりに屋上に出たのは外の風に当たりたかったからで、さっきまでいた七階から下へ降りるより二階上の屋上の方が近かったからだった。

 病院の屋上は、洗濯物が干せるように物干し台があったり、人工芝を敷いた上にベンチが据えてあったりして入院患者が利用できるようになっていたが、天気がいいとはいえ十二月の風は冷たく、人の姿はなかった。

 転落防止用の高いフェンスに囲まれた端に給水タンクがあり、誰にも会いたくない気分だった私は、死角になっているタンクの南側に腰を下ろした。

 見上げると冬の晴れた空を一片の雲がゆっくり流れていた。

 呆れるくらい変わりない、昨日の続きの今日の空がある。みんな昨日の続きの今日を生きている。私も昨日の続きの今日を生きるはずだったのに、私の知らないところで私の世界は変えられてしまった。

 大声でわめきたい気分だった。目に映る全ての物を壊して回りたい気分だった。

 けれど実際の私は、膝を抱えてうずくまるだけだった。

「どうしたんですか? そんな所で」

 不意に声をかけられ顔を上げると、何かのスポーツチームのロゴがついたキャップを目深に被ってガウンを着た、私と同じ歳くらいの痩せた少年が立っていた。

「あの、気分でも悪いの? 誰か呼んで来ようか?」

 そう聞く彼の方が顔色が悪かった。

「大丈夫。伯母さんが私の母の病気の事でお医者さんと話をしてるから、時間つぶし」

 そう、と軽く頷いた彼に、今度は私が聞いた。

「あなたは何しに来たの?」

 僕は、と彼はふと言葉を詰まらせた後、

「退屈だったから、景色を眺めに来た」

 ガウンの下はグレーのスエットの上下を着ていて、足も裸足に裏毛付きのスリッパを履いているところを見ると、ここの入院患者のようだった。

「人を待つには、ここ、寒いと思うけど」

 余計なお世話だと言おうとしたが、本当に彼は寒そうだった。

「じゃあ、あなたもここに来て座ったら?」

 私は右に避けて一人分のスペースを空けた。

「ここなら給湯タンクが風よけになって温かいから」

 彼は少し逡巡して、私の隣に来て座った。

「あ、ホントだ。ここ、日当たり良いし風が来なくて暖かいね」

 帽子のせいで顔はよく見えなかったが、彼が笑ったのは分かった。

 それから私たちはどちらからともなく他愛のない話をした。好きな漫画やテレビのバラエティー番組など、同じクラスの子とするようなありきたりな話をした後、

「お母さん、どこが悪いの?」

 さっきの話の続きのように、彼は気負いなく聞いてきた。

「……本当は病気じゃなくて、自殺しようとしたの」

 あまりに彼が自然に聞くので、私もうっかり自然に答えてしまった。気がつけば、名前も知らない彼に私は母の自殺未遂を含めた自分の家の事情を全て話していた。

「ヘビィーな話だねえ」

 私の話を聞いて、彼はため息をついた。

「割とよくある話よ」

 簡単に同情されたくなくて、私は強がりを言った。

「でも、Aさんにとったら初めての話でしょ?」

「Aさん? Aさんって誰?」

「君の事。名前知らないから、Aさん(仮名)」

「じゃあ、あなたはB君 (仮名)ね」

 私の悪乗りに、それでいいと彼は笑った。

「お互い名前も知らない赤の他人だから、無責任に好き勝手言える。聞いても関係ないから全部忘れる。だから、何でも言っていいよ」

 彼の言う通り、偶然居合わせただけの間柄だからこそ後の事は考えずに済み、言いたい事が言えそうな気がした。貯水タンクに深くもたれた彼の横で、私はこの上なく正直になれた。

「お母さんが……弱すぎて腹が立つ」

「うん」

「お父さんを横取りされたのに、グズグズ悩んでただけなんて、頭にくる」

「うん、うん」

「私だったら相手の女を殴りに行く。人のものを取るのは泥棒だって罵って、相手が土下座して謝るまで殴る」

「殺さない程度にしようね」

 気のない適当な返事を返しながらも、彼はふざけてはいなかった。彼は真剣に聞いていないふりで、真面目に聞いてくれていた。

「お父さんだって殴りたい。私に『嘘をつくのは人として最低の行為だ』って言ったくせに、ずっとお母さんを騙してたんだから」

「どうせなら一生騙し続けてくれれば良かったのにねえ」

「お父さんもお母さんも自分勝手で大嫌い。許せない」

 だけど、と続けた言葉と共に涙がこぼれた。

「一番許せないのは……お母さんが死のうとしたこと」

 母は死ねば苦悩から解放されると思ったのだろう。確かに死んでしまえば終わりだ。でも、母は終わっても、生きている私は終わらない。母に自殺された悲しみは、生きている限り終わらないのだ。

「どうして簡単に死のうとするの?」

 私がいるのに。私では生きる理由に足りなかったのか。

「今日生きてれば、明日何かが変わるかもしれないじゃない」

 一晩経てば全て元通り、なんて都合のいい魔法やおとぎ話を夢見るほど無邪気な子供ではないけれど。

「明日何も変わらなくても、明後日何かを変えられるかもしれないじゃない」

 どんなに辛くても母に生きて欲しかった。今は笑えなくてもいつかまた笑顔が戻る日が来ると信じたかった。

「何もしないで自分で自分の命に見切りをつけるなんて、大馬鹿者よ!」

 八つ当たりのように叫んで涙に暮れる私の隣で、彼はただ黙って座っていた。安易な慰めの言葉など口にせず、黙って。

 そして意外な事に、彼も泣いていた。

「……そうだね。Aさんの言う通り、大馬鹿だ」

 彼は笑ったように呟くと顔を乱暴に拭い、ガウンのポケットを探って使いかけのポケットティッシュを私に押し付けた。

「そろそろ中に戻らない?」

 感情的になった私の相手をするのが嫌になったのかと思ったが、彼は自分の膝を気忙しく擦りながら、身体を縮めた。

「長く居るとやっぱりここ寒いよ」

 戻ろ、戻ろ、と歌うように言って立ち上がると先に歩き出し、振り返って私が立ちあがって歩き出すまで両手で手招きした。

 院内に戻り、エレベーターに乗り込んで一階のボタンを押した後、彼に何階で降りるか聞くと、私を見送ってから自分の階に帰ると言った。

 エレベーターが一階へ下る間、私たちは無言だった。言葉は交わさなかったが、居心地の悪さはなく、何となく安らいだ気分さえした。

「また、会える?」

 一階に着き、降りる時に彼に聞いてみた。

「縁があったら」

 帽子の下の彼の口元が、薄い笑みの形を作った。

 エレベーターのドアが閉まる寸前、彼は胸の前で緩く手を振った。

 私は少し残ったポケットティッシュを握りしめ、彼の名を聞かなかった事を後悔した。

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