【コミカライズ進行中】もらい事故で婚約破棄されました
もう何度目かの婚約破棄ものですが、楽しんでいただけたら嬉しいです。
「エレナ、お前のようなつまらない女は俺にはふさわしくない。よって、婚約を破棄させてもらう!」
数名の令嬢を侍らせ、自分に酔ったように婚約破棄を一方的に突き付けたのはフィリップ侯爵令息。
心持ち顔が赤らんでいるところを見ると、酒に酔っているのは確かなようだ。
一方、彼の婚約者のエレナは突然の仕打ちに声も出ないのか、ただ瞬きを繰り返していた。
今夜はここ、公爵家で夜会が開かれている。
宴もたけなわ、高級酒と会話でホール内が盛り上がる中、前触れもなくソレは始まった。
招待客が一斉に息を吞み、明日にでもこのスキャンダルが社交界を駆け巡るであろうと思われるこの瞬間――
シャルロットは不在だった。
「はぁ~、そろそろホールに戻らなくてはね。お化粧直しという名目の時間稼ぎもそろそろ限界だし」
眼鏡を外して鏡に映る自分の顔を眺めながら、さきほど気付いてしまったニキビをプニプニ触っているこの女性こそが、伯爵令嬢のシャルロットである。
もちろん、会場で起きた婚約破棄騒動などまるで気付いていない。
呑気なものである。
シャルロット・マーブルは前世の記憶を持っている。
十歳の時に日本で過ごした記憶を取り戻してから早八年、おかしな発言や仕草によって変な評判が立つことを恐れ、極力目立たぬようにひっそりと生きてきた。
眼鏡に三つ編みという地味なスタイルが定着してしまったが、それもこれも家名を傷付け、心優しい現在の両親と兄を悲しませたくないという一心からだった。
しかし、ふとした瞬間に顔を出す、前世の粗雑な思考や粗忽な振る舞いの数々……。
ボロが出ないよう、社交の集まりの際はこうやってお化粧直しや外の空気を吸いに行くふりをして、会場から抜け出すことが恒例となっていた。
今となっては日本の記憶は曖昧な部分も多いのだが、シャルロットは基本的に自分の価値観がこの世界……いや、貴族社会と合っていないという自覚があった。
あ~、まだ屋敷に帰るには早いわよね。
こんな時間に帰宅したら、お父様もお母様も心配するだろうけれど、ユリウス様は今夜もあの調子だし……。
ユリウスはシャルロットの婚約者である。
伯爵令息で顔は悪くないのだが、お調子者で短慮なところがある為、シャルロットは全く好きではなかった。
しかし、令嬢に転生してしまったのが運の尽き、政略結婚も致し方ないと受け入れていた。
郷に入れば郷に従えというやつである。
そのユリウスが薄っぺらな言葉と笑顔を振り撒き、令嬢たちに囲まれてヘラヘラとご満悦な様子だったことを思い出し、シャルロットがますます憂鬱になった時だった。
「シャルロット様はこちらかしら? あ、シャルロット様、大変ですわ! たった今、エレナ様がフィリップ様に婚約破棄を言い渡されてしまいましたの!」
「え? エレナ様が? 大変、すぐに参ります!」
慌てて眼鏡をかけ直すと、シャルロットは呼びに来てくれたアニエスと共に会場へと急いだ。
もうっ、私ったらぼんやりと時間を潰している場合じゃなかったわ。
エレナ様は大丈夫かしら?
エレナとアニエスは、シャルロットが心を許せる数少ない友人だった。
三人は同い年でそろって伯爵令嬢ということもあり、昔から仲が良い。
偶然にもシャルロットの婚約者であるユリウスが、エレナの婚約者のフィリップ、そしてアニエスの婚約者ヘンリーと親しかった為、令嬢三人の結束はより強まっていったのだった。
シャルロットたちが廊下を早足に進んでいると、開け放たれた扉からエレナが気丈にもフィリップに言い返している声が聞こえてきた。
「この婚約は家同士の契約です。この場でわたくしの一存でなかったことになどできませんわ」
「出たよ、そういう杓子定規なところがつまらないって言っているんだ」
「面白いとかつまらないとか、そういうことではありません」
うわ、フィリップ様がまた無茶苦茶なことを言っているわ。
きっといつものように酔っぱらって気が大きくなっているのでしょうけれど、今回ばかりは冗談では済まされないのではないかしら。
「ったく、せっかくの夜なのに興覚めだな。そもそもお前は友人の選択から失敗しているんだよ。少しは俺を見習って審美眼ってものを養うべきだったな」
ぷっ、あなたがそれを言う?
あの軽薄なユリウス様を親友だと豪語している時点で、あなたに審美眼なんてないと思うのだけど……っと、ようやく到着ね。
早くエレナ様の元へ行かないと。
「エレナさ……」
シャルロットがホールに足を踏み入れた瞬間――フィリップが小馬鹿にしたように続けた。
「特にお前の友人、シャルロットなんて地味の極みのような女じゃないか。あんなのと付き合うからお前までつまらない、垢抜けない女になるんだ」
ん?
なんだか私の名前が聞こえたような。
静まり返る中、人々の視線が一斉に、最悪のタイミングで現れたシャルロットへと向けられる。
フィリップはシャルロットが聞いていたとわかると、一瞬マズいと思ったのか、チッと小さく舌打ちをした。
え、何!?
もしかしなくても、さっきの暴言って私のことだったりする?
……盛大なもらい事故キターー!!
突然の中傷を受けたシャルロットは、あまりの出来事に足を止め、言葉をなくしていた。
そんな彼女に代わり、いつもは冷静なエレナが怒りだす。
「何て言うことを! わたくしを貶めるだけでなく、シャルロット様に対してそんな暴言を吐くなんて……。今すぐ彼女に謝ってください!」
「そうよ! シャルロット様に失礼ですわ!」
シャルロットの隣に立つアニエスも、エレナと共にフィリップに抗議をしてくれる。
会場の雰囲気も、運悪く巻き込まれたシャルロットに対して同情的なムードだが、なんだかそれはそれで間の悪い自分が情けなく、申し訳ない気分になってしまう。
まあ、仮に居合わせなかったとしても十分ひどい出来事なのだが。
嘘でしょう?
なんなのよ、この地獄のような状況は。
ちょっとフィリップ、私があなたに何をしたっていうのよ!
しかし、悪いことは続くもので、開き直ったフィリップがさらに追い打ちをかけてきた。
なんと、親友のユリウスにもシャルロットとの婚約破棄を勧め始めたのである。
「なあ、どうせならユリウスもあの芋女と婚約を破棄しちゃえば? 可愛い令嬢なんて腐るほどいるんだし」
はあぁ?
親が決めた婚約相手を、『あ、やっぱり夕飯はカレーじゃなくてラーメンにしようかな』みたいなノリで軽々しく変更するんじゃないわよ。
他の女の子にも失礼だし、どういう神経をしているわけ?
開いた口がふさがらないシャルロットだったが、ユリウスの返答は想像の更に上を行っていた。
「なるほど、さすがフィリップだね。じゃあシャルロット、悪いけれど僕たちも破棄ってことでいいかな? 君のことは嫌いではないけれど、僕はもっと可愛くてガードが緩い娘が好きなんだよね」
「わかる! 身持ちが堅い女って可愛げがないよな」
……なんですと?
一瞬止まったシャルロットの思考が、急速に動き出す。
もらい事故で婚約破棄キターーーー!!
え、本当に?
こんな馬鹿げた話ってある?
フィリップがユリウスに同意し、二人は肩を組んではしゃいでいるが、トンデモ発言に周囲が引いていることには気付いていないらしい。
こ、こいつらってゲスの極みじゃないの。
どうして私もエレナ様も、こんな奴らの婚約者を長年やってきたのかしら。
シャルロットが怒りでわなわなと震え出し――たように周囲には見えていたが、実際腹を立てたのは僅かな間のことで、彼女は徐々にこみ上げてくる笑いと戦っていた。
「なによこの展開……あまりにもひどすぎて……ぷっ、清々しいほどのクズさ加減に笑えてきたじゃないの……ぷぷっ……え、私ってばこんなにずっと我慢してきたのに……もらい事故なんかで……ぷはっ……婚約破棄って……ウケるー」
何やら震えながら一人でブツブツと呟いていたシャルロットは、とうとう抑えきれないとばかりに声を上げて楽しそうに笑い始めた。
「ふふっ、ふふふふふ。あははははは!」
この状況下で笑い出したシャルロットに、ユリウスだけでなく夜会の参加者たちがビックリしたような目で見ているが、そんなことはどうでも良かった。
「シャルロット様?」
「どうなさいました?」
エレナとアニエスだけが不安そうに寄り添ってくれる中、シャルロットは記憶を思い出してからずっと溜め込んできた貴族社会に対する鬱憤が、一気に噴き出すのを感じていた。
あー、馬鹿馬鹿しい。
これだから社交界って合わないのよね。
頭の悪い男に振り回されて、こちらに非がなくたって私もエレナ様も今後は傷物令嬢扱い。
家族には申し訳ないけれど、もう大人しい令嬢なんてやってられないわ。
シャルロットはゆっくりと眼鏡を外すと、三つ編みにしていたリボンを解く。
目立たぬよう、ずっと瓶底眼鏡とダサい三つ編み姿で過ごしてきたが、本来の彼女はなかなかの美少女なのである。
まつげパッチリのエメラルドの瞳と、波打つ珊瑚色の髪を見た人々から感嘆の声が漏れた。
特にユリウスは驚いたようで、口が開いてしまっている。
「さてと、エレナ様」
シャルロットはまずエレナに話しかけた。
「あの下劣な男と婚約を続けるおつもりはありますか?」
「下劣だと?」とフィリップが突っかかってくるが、まるっと無視をする。
すぐに反応するあたり、下劣だという自覚がありそうなのが笑えるところだ。
エレナは僅かに思案するように首を傾げた。
「そうですね。正直愛情なんてありませんけれど、家に迷惑はかけられませんわ。わたくしがいつまでも屋敷にいたら、お兄様が結婚された時に困るでしょうし……」
「では、フィリップ様と結婚したいかしたくないかの二択だったら?」
「もちろん結婚したくないです!」
「ふふっ、了解ですわ」
エレナの食い気味の回答に、良く出来ましたとばかりにシャルロットがにっこりと微笑んだ。
さて、こちらのターンといきますか。
夜会の招待客の中にはシャルロットの美しい笑みに見惚れている者も多かったが、エレナとアニエスはお泊り会で彼女の素顔を見慣れている為、今更驚くことはなかった。
ちなみに、エレナもアニエスも流行りのメイクやドレスに興味を持っていないだけで、美しい顔立ちをしている。
内面を磨くことの重要性を理解している二人は、飾り立てなくてもにじみ出る知的さと品の良さがあるのだ――フィリップにはわからないだろうが。
本当に審美眼が聞いて呆れる。
シャルロットは笑みを引っ込めると、反撃の開始とばかりにユリウスに凛とした声で返事をした。
「ユリウス様。婚約破棄の件、喜んで承りますわ。お二人ともどうぞガードの緩い方とお幸せに。頭の緩いあなた方にはお似合いですもの」
「は? 今何て言った?」
「シャルロット? え、君は本当にあのシャルロットなのか?」
馬鹿にされたと真っ赤になって腹を立てるフィリップと、シャルロットの素顔を初めて目にし、まだ信じられないとばかりに頬を染めているユリウス。
まるで違う反応ながら、顔を赤らめている点だけは共通している二人に、シャルロットは冷静に続けた。
「あ、そうそう、これだけは言っておきますね。ユリウス様、我が家からの融資は打ち切らせていただきますので伯爵様にそうお伝えくださいな。フィリップ様も、今後マーブル家との取引はなしということで」
「援助?」
「取引?」
二人はお酒が抜けてきたのか、ようやく自分たちの発言のまずさと事態の深刻さに気付き始めたらしい。
両家とも商売で成功を収めているマーブル家とは懇意にしており、様々な恩恵を受けているのだ。
特に財政が傾いているユリウスの家にとって、マーブル家からの融資の打ち切りはもはや死活問題であると思われる。
「ええ。お父様の恩情で、婚約者だったユリウス様の家には色々と便宜を図ってきました。多額の融資もさせていただいておりましたけれど、もう理由もありませんもの。当然でしょう?」
「ま、待って! それは困るよ。でも冗談だよね? 大人しくて僕のことが大好きな君がそんなことできるはずがないし。あ、そうやって困らせて、僕の気を引こうとしているんだね?」
「おい、商いは当主同士の問題だろ? 権限もないくせにシャルロットが勝手に取引に口出しをするな!」
ああおかしい、二人とも本当に頭が緩いのね。
どうしたら私がユリウス様を好きだなんて勘違いができるのかしら?
あなたの気を引くメリットが私にあるのなら教えて欲しいくらいだわ。
フィリップ様に至っては、自分が当主不在の場で婚約破棄を勝手に言い出したくせに……これぞ前世でいうダブスタってやつよね。
頓珍漢な二人の反応が、シャルロットには楽しくて仕方が無かった。
「困ると言われても、そんなこと私の知ったことではありませんもの。私にユリウス様への恋情なんてものは元々ありませんし、婚約だって当主同士の大事な問題だというのに、この場で婚約破棄を持ち出したのはどこのどなたでしたっけ?」
ユリウスがショックを受け、フィリップが悔しそうに唇を噛んでいるが、これで許す気など毛頭なかった。
彼らはシャルロットだけでなく、大事な友人を傷付けたのだから。
「私が今夜あなた方にどのような扱いを受けたかを知ったら、うちの家族は怒るでしょうねぇ。私、こうみえて愛されておりますので」
シャルロットの自信に満ちた神々しい笑みにユリウスとフィリップは青褪め、周囲からはうっとりとした溜め息が零れる。
八年の間我慢してきたものが発散されたシャルロットは――
ああ、これで煩わしい婚約者ともおさらばね。
社交界での立場がなくなろうと、そんなの私にとっては些細なことでしかないもの。
もっと早くこうすればよかったわ。
最高の気分だった。
いや、最高の気分だったはずなのに。
「待ってくれ、シャルロット! 僕が悪かったよ。酔っていてつい思ってもいないことを口走ってしまっただけなんだ。こんなに可愛い君と婚約破棄なんてするはずがないだろう? さあ、いつまでも臍を曲げていないで一日も早く僕と結婚しよう!」
「俺も悪ふざけが過ぎたようだ。シャルロットも人が悪いじゃないか、素顔を隠していたなんて。君こそ俺の婚約者にふさわしい友人だと認めよう。それにエレナに対する婚約破棄だって、ほんの余興のつもりだったんだ。本気で破棄しようなんて思っていないさ」
なんと、ユリウスとフィリップがあっさりと前言撤回をしてきた。
手のひら返しも甚だしい上、今になってシャルロットの容姿を持ち上げ始めたのも気持ちが悪い。
うわぁ……この期に及んで撤回と言い訳なんて、通用するはずがないじゃない。
なぜかいまだに上から目線だし、エレナ様はどう思っているのかしら。
まさか絆されて許してしまったり……。
エレナを見れば、スンッとした表情で目が死んでいる。
フィリップとよりを戻す気なんてさらさらないようだ。
シャルロットは『ですよねー』と心の中で安心すると、またユリウスたちの方を向いた。
「そういうの、もう結構なので」
ユリウスたちをバッサリと切り捨てたシャルロットは、明るくエレナに話しかけた。
「ねえエレナ様、私に提案があるのですけれど」
シャルロットはワクワクしながらエレナの手を取った。
「エレナ様、もし良かったら私とシェアハウスを始めませんか?」
もう馬鹿な男どもに用などない。
これを機に、シャルロットは前世で夢だったシェアハウスをし、気の置けない友人と好きに生きることに決めたのである。
たとえ社交界から爪弾きにされようと、息苦しい中で生きるよりずっと幸せに違いない。
「シェアハウス?」
「ええ。私、お父様にいただいた屋敷を持っておりまして。小さいのですけれど、そこでエレナ様と一緒に暮らせたら楽しいだろうなと思って」
シャルロットの父はなかなかのやり手で、伯爵の仕事は長男にまかせ、商売に精を出している。
資産も潤沢で、シャルロットにもポンッと一軒家をプレゼントしてくれたのだ。
地味な隠居生活になるかもしれないが、この婚約破棄騒動を知れば二人分の生活費くらい喜んで出してくれるだろう。
「それは素敵ですわ! どうせ今夜の醜聞で傷物扱いされるわたくしには、新しい婚約者など見つからないでしょうし。いえ、むしろ結婚するよりずっと楽しそう!」
「ずるいですわ、私も仲間に入れてくださいませ!」
すぐにアニエスも話に加わってきた。
もちろんシャルロットに断る理由など無く、「じゃあ三人で」と楽しく話していたところで、ヘンリーから「待った」の声がかかった。
存在感があまりにも薄く、誰もが彼の存在を忘れていたが、ヘンリーはアニエスの婚約者なのである。
「アニエス、僕たちの婚約は続いているはずだけど?」
「ヘンリー様、私はあなたとの婚約を解消するつもりですわ」
「なんだって?」
「だってヘンリー様、ご自分の友人があのように派手にやらかしているのに止めもせず、馬鹿にされた私たちを守ろうともしてくれなかったではないですか。そんな方との未来なんて想像できませんもの」
もう話すことなどないと言わんばかりに、アニエスはシャルロットたちに向き直るとキャッキャと再び盛り上がり始める。
ヘンリーはユリウスとフィリップ同様に顔色を失くし、彼らの周囲を華やかに彩っていたはずの令嬢たちもとっくにいなくなっていた。
元々、顔と羽振りが良く見える彼らに近付き、あわよくば愛人の座を狙っていただけの爵位の低い令嬢たちである。
雲行きが怪しくなったことで、早々に彼らを見限ったに違いない。
ようやく落ち着きを取り戻し始めた夜会会場で、婚約者を同時に失ったはずのシャルロット、エレナ、アニエスの表情は明るかった。
かつて婚約を破棄された令嬢らは居心地の悪さに耐え切れず、逃げるように夜会から立ち去るというのがセオリーだった。
しかし、今回そそくさと帰らざるをえなくなったのは令息三人のほうで、シャルロットたちは予想外に周囲に受け入れられていたのである。
おかしいわね、どうして皆こんなにフレンドリーなのかしら。
それにシェアハウスがこんなに支持されるなんて、思ってもみなかったわ。
もっと『婚約破棄された令嬢の墓場』みたいな扱いを受けると思っていたのに。
シャルロットとしては、貴族社会との決別を覚悟した上での大立ち回りのはずだった。
しかし蓋を開けてみれば、三人の堂々とした態度や、たとえ婚約を破棄されたとしても修道院へ入る以外の選択肢があることを提示してくれたシャルロットに、女性たちは大変な感銘を受けたのである。
夜会の翌日に社交界に広まったのは、迂闊に婚約破棄を宣言した令息側へ対する非難と、シェアハウスという新たな生活様式への羨望だった。
◆◆◆
三名の令嬢で始まったシェアハウス生活は快適そのものだった。
各自が適度な距離感を保ち、趣味や勉強に没頭しながらも、食事やお茶の時間には自然と集まって成果を報告し合っている。
そんなライフスタイルが斬新に見えるのか、今のところまだ他の入居者はいないものの、新しい物に目がない夫人や令嬢が、お茶菓子持参でたびたび遊びにくるようになった。
不思議なもので、結果的にシャルロットは夜会以前よりもずっと社交的な毎日を送ることになってしまった。
さらに――
「シャルロット様、私の結婚線はどうなっていますか?」
「私も見ていただきたくて!」
ある日、手相の話をしたことがきっかけで、来客数の増加に拍車がかかってしまった。
前世の日本で若い時分に一度は耳にする結婚線。
手相に興味や知識がなくとも何歳くらいで結婚するか、チャンスは何度あるのかなど、友人と盛り上がったりしたものだ。
シャルロットもかつての人生で話題になった結婚線の存在をふと思い出し、軽い気持ちで口にしてみただけだったのだが、すごい勢いで話に食いつかれてしまった。
それは『え、そんなに?』と驚くほどの食いつきぶりで、シャルロットは今では手相占い師のように扱われている。
いやいや、無理だって。
申し訳ないけれど、手相といっても結婚線と生命線、感情線、それに昔テレビで見たますかけ線くらいしか知らないのに……。
知っているのもほぼ名前だけで、線があるかないか、あっても長さや太さで判断するだけというド素人レベルである。
しかも、シャルロットが自分の右手を見てみたところ、見事に結婚線がなかった。
今現在、シャルロットに結婚願望はないのだし、独身を謳歌するつもりでシェアハウスを始めたのだから、なくても何も問題はない。
それなのに、実際結婚線がないとわかると地味にショックを受けるのだから、シャルロットは自分の身勝手さに苦笑するしかなかった。
のんびり隠居生活のはずが、『なんちゃって手相占い師』として人気者になってしまったシャルロット。
そんな彼女に実は恋の足音が聞こえ始めているのだが――シャルロットはまだ気付いていなかった。
◆◆◆
今日もシャルロットのもとには手相を見てもらいに多くの貴族が訪ねてくる。
夜会での婚約破棄後、社交界から冷遇されて村八分にされる予定だったのに、人生とはわからないものである。
「今日は生命線を見ていただきたくて。長生きして孫の顔は見られるかしら?」
「今度、娘の婚約者の手相を見て欲しいのよ。将来性とか」
ひいぃ、そんなのわかるはずないじゃない。
私はプロの占い師じゃないんだから。
しかし、悲しいかな。
前世がしがない平民のシャルロットは、それっぽく「うーん、太くて立派な線が見えますね」などと適当なことを言って、つい喜ばせてしまうのだ。
今日も手のひらの厚さで性格占いをしたことを思い出し、小さくて手のひらの薄い令嬢の手を見ながら「繊細で上品な方なのですね」とか言ってみたところ、満足そうに頬を染めていた。
令嬢なんて大抵は細くて綺麗な薄い手をしている。
『しばらくはこれでいけそうね』などと、令嬢を見送りながら考えていたら。
「やあ、シャルロット。今日も盛況だったようだね」
「バージル様! いらっしゃいませ。エレナ様は今日街へ行くと言って留守にしておりますけれど」
エレナの兄、バージルから声をかけられた。
バージルは宰相の補佐をしている文官だが、このシェアハウスに何度もやってきている為、もはや顔パス状態である。
元々エレナとは仲のいい兄妹だと思っていたが、忙しいはずの彼がこんなに頻繁に様子を見に来るほど妹を溺愛していたとは。
「ああ、知っているさ。僕はシャルロットに会いに来たのだから問題ないよ」
「私に?」
思わずシャルロットは首を傾げてしまったが、すぐに思い至った。
「ああ、バージル様も手相が気になるのですね。今日はもう予定もありませんし、さあ、どうぞこちらへ」
「いや、そうじゃないんだけど……。まあ、それでもいいか」
よくわからない返事をするバージルを、シャルロットは日当たりの良いテラスのソファーへと案内する。
とりあえず彼の手土産のクリームたっぷりのケーキをシャルロットが笑顔で頬張っていると、バージルが嬉しそうに眺めているのに気付いた。
「あ、エレナ様の分はちゃんと残してありますよ? いつも私までご馳走になってしまってすみません」
「僕は君に持ってきているんだよ。エレナはクリームがそれほど得意ではないからね」
「え、そうなのですか? それはお気遣いありがとうございます?」
どうしてバージルが自分にお菓子を持ってくるのかがよくわからず、シャルロットは思わず微妙な返事になってしまう。
バージル様、私が地味にしていた頃から優しい方だったけれど、最近輪をかけて甘いような。
女三人のシェアハウスだから気にかけてくれているのでしょうけれど。
「じゃあ、せっかくだからシャルロットに僕の結婚線とやらを見てもらおうかな」
「え、結婚線!?」
「ん? 何かおかしなことを言ったかな?」
「いえ、てっきり生命線やますかけ線のほうかと……」
正直、バージルに結婚願望があるとは思っていなかった。
彼にはなぜか婚約者もいないし、理由についてエレナに尋ねてみたときも「うーん、お兄様は今は動けないというか、その時を待っているというか……」と、何やら意味不明なことを言っていたからである。
てっきりバージルは今は仕事に打ち込みたいのだろうと納得していた。
バージルに右手を差し出してもらい、シャルロットがその手を取った時だった。
「男にも手相を見て欲しいと頼まれることは?」
バージルが質問を投げかけてきた。
「うーん、言われることはありますけど、私が教えた女性がその男性の手相を見るという感じですね。私は専らこの屋敷にいるので、実際に見たことはないです」
「なるほど、間接的に見るってことか。……良かった」
「良かった? なんでも巷では手相が意中の男性に話しかけたり、触れ合うきっかけになると評判のようですね」
前世でもそうだったが、手相を触れ合う口実に使うというのは異世界でも共通だったようだ。
こちらでは女性からのアプローチの手法として手相が使われ始めているらしい。
って、変なことを言ったせいで、バージル様の手に触れていることが恥ずかしくなってきてしまったじゃないの。
ただ手相を見るだけだというのにおかしいわよね。
でもバージル様の手、大きくて男らしくて、真面目な文官らしくペンだこができているのが好ましいわ。
シャルロットが俯いて一人ドキドキしていると、バージルが面白そうに問いかけてくる。
「それで、僕の結婚線はどうなっているのかな?」
慌ててバージルの右手に目をやると。
感情線と小指の付け根の間の部分に、くっきりとした線が一本あることに気が付いた。
しかも今バージルは二十二歳のはずだが、これは多分二十三、四歳頃の時期を指していると思われる。
「結婚線が見えます。くっきりと。ここ数年の間に大きなチャンスがあるかもしれません」
「本当? それは嬉しいな」
バージルの声が弾んでいる。
シャルロットは自分の胸がチクッと痛んだ気がした。
どうしたのかしら?
バージル様の結婚は、伯爵家にとってもおめでたいことのはずなのに。
手相も見終わり、シャルロットは握っていたバージルの手を離そうとした。
不思議と手放し難く感じながらも手を緩めると、なぜか逆にバージルに手を握り込まれてしまう。
「シャルロット、僕は君が好きだ」
「……え?」
「君にその気がないのは知っていたし、何よりユリウスという婚約者がいたから今まで踏み込めずにいたけど、ずっと君を想っていたんだ」
「…………えええっ!?」
まさに青天の霹靂だったが、シャルロットは迷惑に思うどころか高揚感に包まれている自分に驚いていた。
嘘、こんなことってある?
だって、私はずっと地味で、芋女って言われていたのよ?
でもこの大きな手に触れられるのが私だけだと思うと……なぜか嬉しくて堪らない気持ちになるわ。
「今すぐ結婚して欲しいとは言わない。今のシャルロットはとても楽しそうだしね。それはエレナもなんだけど。でも僕との結婚を前向きに考えてみて欲しいんだ」
「でも……私は社交界が苦手ですし、一度婚約破棄もされていますよ?」
「気にしないよ。いつから見ていたと思っているの? それに、もうシャルロットなりの社交を成功させているじゃないか」
バージルはシャルロットの葛藤をずっと見守っていてくれたのだろう。
賢く、広い心で包んでくれるバージルとなら、結婚も悪くないかもしれないとシャルロットは思い始めていた。
「じゃあ、とりあえずお友達から……」
『今更、お友達からって!』とセルフ突っ込みをするシャルロットに、バージルが笑いながら頷いていた。
◆◆◆
それから一月後。
「お兄様ってばまたいらしたの? 宰相補佐ってよほどお暇なのねぇ~」とエレナが揶揄うくらいに、バージルはしょっちゅうシャルロットに会いに来ては、「そろそろお友達は卒業かな?」と尋ねてくる。
つい照れくさくなって「まだです!」などと返事をするシャルロットだったが、最近変化があった。
「え、結婚線ができてる!?」
何もなかったはずのシャルロットの手のひらに、新たな結婚線が増えていたのだ。
え、これって二十歳くらいかしら?
……って、もうすぐじゃないの!
今日も共用のリビングで右の手のひらをガン見するシャルロットに、エレナとアニエスが笑う。
「意地を張らずにお兄様と結婚しちゃえばいいのに。なかなかの優良物件だと思うわよ?」
「そうよ、ユリウス様たちも新しい人生を歩んでいるみたいだし。シャルロット様だってバージル様が好きなのでしょう?」
ユリウス、フィリップ、ヘンリーの三人は、なんとシャルロットの父の元で働いているらしい。
それぞれの父親に叱責された彼らは、精神の鍛え直しの為に父の商会に放り込まれたのだった。
「そうね、好きなのだと思うわ」
「それは本当かい!? 僕も愛してるよ、シャルロット!!」
振り向けばなぜかそこにはバージルがいて、ガバッと抱きしめられてしまった。
どうやらエレナたちに嵌められたらしい。
「ちょっ! え、なんで? 二人の前で何を……待って!」
真っ赤になって慌てるシャルロットと、よほど嬉しかったのか、少しも抱きしめる腕を緩めないバージル。
エレナとアニエスが楽しそうに笑う声がシェアハウスにこだましていた。
もらい事故で婚約破棄されたシャルロットは、今確かに幸せを感じているのだった。
お読みいただきありがとうございました!