降り積もっていく場所をさがして
「どうしてなのよ」とタマキは呟いてみるけれど返答がないことは分かっている。一人暮らしの部屋の机にコンビニで買ってきたサラダとおにぎりと唐揚げを食べ終わって、それからクッションを抱きながら横になった。足元に置いたヒーターの稼働音だけが微かに聞こえる。
どうしたって、多分、無理なのだ、とタマキは心の内側から湧き上がってくる声を聞いてしまう。かき消そうと腕を払ってみるけれど、その声は何度も頭のなかで反芻される。タマキが一番分かっている。宇宙のことなんて知らないけれど、生まれた場所の星が、あいつとは繋がることのできない。恋人として繋がることはできない。そんな言葉を自分で唱えてしまうから、タマキは、もう、これは終わった恋なのだと思う。タマキはクッションを抱えて身体を小さく丸めた。
***
二月の冬は寒い。
座敷の飲み屋を予約したのは草野だ。大学サークルで何かと幹事をつとめる草野はみんなからイジられるキャラでありながらも信頼されるやつだった。サークルに入って年度が上がって全体を仕切る三年の、もうそれも終えようとしているこの二月に飲み会を開いて仕切る草野は、賑やかできらきらしていた。
映画サークルで大学の一室を借りてプロジェクターに投影する、年度最後の上映会の打ち上げだ。四年生が脚本側にまわり、監督や主演を三年生がつとめる。そうやって年度が積み上がって映画が完成していく。大学側からも公認されているサークルで、このサークル出身の人たちは結構な割合で映画や映像業界へと進むことが多い。新しく入ってきた新入生たちも、映画を多く鑑賞したり外部で行われている映画づくりのワークショップに参加している。草野は脚本を書くことを志望していた。
「主役のアカリのセリフとか間とか、草野の作った映画よかったぞ」
四年の先輩の高田さんは言う。
「ありがとうございます。クライマックスで気持ちが昂っている場面で、アカリの振る舞いを冷静に、言葉を選んで話してもらおうと思ってたんで」
「俺も参考になった。アカリもその草野の脚本の意図をしっかり汲み取って演技してた」
「アカリとは何度も打ち合わせして、最後の最後まで調整してました。だから上手く撮ることができてよかったです」
草野は安堵した表情で持っていたビールのジョッキを飲んだ。高田さんもお疲れ、と言って草野ともう一度乾杯した。
草野はこの上映会で監督と脚本をつとめた。脚本を書くことは高校の頃から積み重ねていて経験もそれなりにあったが、映画の監督をつとめるのは初めてだった。草野は脚本だけで進んでいくことを考えていたが、この上映会に向けて監督もやってみないか、と声をかけたのは高田さんだった。カメラマンや照明、音響は四年の先輩たちが担って、監督と脚本を草野がつとめる作品になった。草野にとっては荷の重い経験であったと周りの同期たちは思っていたが、草野は最後まで映画を完成させることができた。上映が終わった時、全員で拍手で草野を称えた。
「ま、今こうやって晴れやかな気持ちで打ち上げの席にいられるのも嬉しい限りですっ」
草野はジョッキを持ち上げながら笑って言った。高田さんも「行ってこーい!」と草野を席の中心まで送り出した。
「あいつ、本当いい映画監督になれるよ」と高田さんは目を細めながら草野を見る。「ずっと頑張ってましたもんね」とタマキは賛同する。「タマキの作品もいい作品だったよ」と高田さんはタマキの顔を見て笑って言った。
私のはそんな、とタマキは皿にのった枝豆に手を伸ばして食べる。
水のほとりに住む少年と少女の話の脚本をタマキは書いた。タマキは同期の監督に演出の相談を重ねて、カメラで撮影した際の映像の質感を念入りに作り上げた。タマキは自分の脚本に合うイメージを言葉で伝え、それを形にして提示してくれたのは同期たちのおかげだ。タマキは作品の世界を伝えるために言葉を尽くした。
「それも、充分に立派な仕事だよ」
タマキは背筋をぴんと伸ばして高田さんの顔を見て、それから俯いてグラスを手に取り「……ありがとうございます」と高田さんのグラスにカチンと音を立てて当てる。
席を離れてタマキは草野のいるテーブルに移動した。草野はタマキを見つけるなり隣りに座って声をかける。
「タマキ、飲んでますかー?」
「飲んでるっつーの」
「上映会、お疲れ様でーすっ」
草野のジョッキと乾杯する。グラスが当たった時、ほとんど音が鳴らなかった。タマキは俯いて表情を隠す。草野に見えないようにするのが精一杯だった。
「タマキ、そういえば進路どうすんの」と草野はタマキの隣の席に腰をおろして前菜で出てきた大皿のサラダの残りからレタスときゅうりを選んで取っていく。「私は映画は大学までにするよ」とタマキはグラスのカクテルを一口飲んで言う。「俺が言うことじゃないけど、もったいないよ」と草野は言う。何度も聞いてきたことだけどな、と草野はひとりごとのように言葉を付け加える。タマキは思う。私だって映画、進みたいけれど、あんたはいないじゃない、ミキちゃんと一緒じゃない、と胸が張り裂けそうな気持ちをぐっとこらえてタマキはもう一口カクテルを飲む。
「草野は、もうだいたい決まってるからいいじゃん」
「まぁ、ありがたいことだけど、そうだな」
草野は映画サークルでの脚本で学生部門の賞も受賞していて、今回の上映会で監督もつとめて、映画会社からのオファーを受けている。三年が終わると四年のほとんど一年の期間を映画会社で本格的に映画を撮る、インターンシップに時間を充てることになっている。だから映画サークルで活動するのもこれが最後だと言ってもいい。タマキが草野と一緒にいられる時間は、この打ち上げくらいなのだ。
「ミキちゃんも一緒だから大丈夫なんじゃないのー」
タマキはおどけてグラスを顔の横で揺らしながら草野に言ってやった。草野は箸を持った手を止めてタマキを見た。草野の表情は堅く、目は揺らがなかった。さっきまでの空気を一瞬で止めてしまったかのように、草野からは軽蔑の色が滲み出ていた。
「そういう冷やかし、タマキはしないと思ってた」
草野はタマキを見ずに言った。それでも構うもんか、とタマキの口からは言葉が繰り出される。
「ねぇ、四年になったらミキちゃんと二人で住むの? いいわよねー、仲良くてこの先もずっと一緒にいながら、それで草野は映画も続けられるんだし。好きな人がそばにいてくれながら自分の才能も発揮できる場所にいられるなんて、私なんかには到底辿りつけっこないわ。うらやましいー」
「うるさいっ」
草野は箸を机に投げるようにして置いた。草野の怒声は座敷全体に響いた。タマキは驚いて草野を見ていたけれど、どこかでこうなるのを望んでいたのではないか、とタマキは思った。これで離れられなかった草野への感情にケリがつけられる、最初で最後に自分の手で壊そうと思って言ったのだと、タマキはそうやって自分の気持ちを守った。
タマキは落ち着いた目で草野を見つめた。草野はさっきよりも冷たい視線でタマキを見て、顔を歪ませながら席を立った。そして草野は座敷から離れていった。
「どうしたの」と同期が声をかけてくれたけど、「私がわるいんだ、ごめん」とタマキは答えた。それは草野に言うはずの言葉だったと思った。同期の何人かが草野を追って座敷を出ていく。座敷ではがやがやと戸惑いの空気が流れていたけれど、四年の先輩が「さー、飲もう」と場を取り持ってくれて、少しずつ賑やかな雰囲気が戻っていった。タマキは、私、最悪だ、と思って俯いた。
打ち上げが終わって二次会に参加する組と帰宅する組に分かれた。タマキは帰宅する組のグループにいて同期と話していた。ひどい言葉を言って自分で勝手に終わらせようとしたのに、草野の姿を目で追ってしまう自分にタマキは呆れてしまう。タマキの目には草野がミキと話している様子が映った。同期との話に上の空で相槌を打ちながら二人の姿をタマキは見ていた。
「じゃあ、今日はありがとー」
草野を含めた同期や四年の先輩たちがサークル全体に声をかけた。二次会へ行く草野たちはその場を離れて帰宅組たちも駅へと移動をはじめる。草野がいた場所からミキがこちらへ向かって走ってくる。マフラーをぐるぐる巻きにして夜のなかを走ってきた。タマキはミキをぼんやりと見ながら、視線をそらして駅のほうへ歩いた。
すいません、とミキは言って帰宅組のグループに追いつく。二年のミキの同期たちとの会話にすっと加わり、打ち上げや上映会での映画について話している。タマキは隣りを歩いている同期とこれからの進路や四年の先輩たちの卒業パーティについて話をしながら歩いた。
駅の看板が見えてきたので、帰宅組のメンバーもそれぞれの方面に向かって散らばって行った。駅近くに住んでる同期にタマキも手を振って「またね」と言って別れた。タマキが駅の改札を抜けようとした時に声をかけられた。振り向くとミキがそこに立っていた。ミキは手袋をした両手を胸のあたりに置いて俯いていたが顔を上げて言った。
「少しだけ時間、いいですか」
タマキは少し考えて「いいよ」と答えた。駅の改札前には帰宅組のメンバーたちはもういなかった。代わりにスーツ姿の男性やきらびやかにしている女性が何人かが喋りながら改札を抜けて駅のホームへと入って行った。
ミキは振り返って周りを見渡し、あ、と小さな声をあげてそれからタマキを見る。
「あの店でお話できませんか」とミキは指を差して示した。スイーツの食べられるチェーン店があった。タマキは頷いた。
マグカップに入ったコーヒーが運ばれてくる。ミルクたっぷりのコーヒーをタマキもミキも選んだ。冷たい夜の風に当たっていたからあたたかい飲み物が身体に沁みわたるとタマキは思った。心が和らいだとタマキが思っていると、向かいの席に座るミキがポケットから取り出したものをテーブルの上に置いた。
タバコの箱だった。ここ禁煙、と思わずタマキは言いそうになったが、パッケージのロゴの上に重ねるようにしてマジックで言葉が書いてあるのをタマキは見つけた。“映画撮って。会おうな”その文字は脚本の推敲をする時に書き込む草野の崩した文字の筆致と同じだった。タマキは草野を見つめるようにその文字を何度も読んだ。
「あなたは終わらせようとしているかもしれない」
ミキが言った。タマキはミキを見る。ミキは慌てて俯くけれど少し身を固くしてから顔を上げて言った。
「だけど、あの人は終わることを思っていません」
ミキは言葉を言い終えてから唇を噛んだ。タマキは、ふっと身体の力を抜いて「これ、草野だよね」とタバコの箱を手に取ってもう一度文字を読んだ。ミキも息を小さく吐いて頭を少し傾けながら「はい」と答えた。
「私は映画をつくる才能はありません。でもあなたにはある。私はあなたのつくるストーリーに惹き込まれて、映画をつくることを続けてほしいと思っています」
ミキは言葉を止めて自分の内側を探り当てるように「草野さんも、映画をつくっていてほしい、と言っていました」とタマキに伝える。
タマキは両手でタバコの箱を持って俯いていた。自分の草野への感情の置き場所はいったいどこなのだろう、とタマキは思った。恋人にはなれやしない、でも、映画をつくり続けることまで捨ててもいいのだろうかとタマキは自分の心に問いかける。草野への感情も映画をつくりたい気持ちも、どちらも同じくらいタマキにとって大事だった。草野への感情は叶わないことが、すでに決まっている、折り合いをつければいいものの、タマキはまだ変われずに縋ってしまう。タバコの箱をこのテーブルに置いたら変わろう、とタマキは思った。
「ミキちゃん」
「は、はい」
「草野のこと、よろしくね」
ミキは戸惑いを見せながらタマキを見つめた。タマキはミキのその視線に応えるように笑った。タマキはタバコの箱を手で包み込むようにしてテーブルに置いた。
***
部屋の机に置きっぱなしにしていたサラダのプラスチックのパックや唐揚げの入った紙袋、割り箸などをタマキは全部流しに持って行った。「洗うのは後にしよ」と呟いてタマキは部屋に戻ってクッションの上に座った。
あの時、折り合いをつけたはずなのに、タマキにはこんな風に何度か草野への気持ちが込み上げてくることがあった。格好よく吹っ切れたらいいけれど、とタマキは小さく笑って心のなかで言った。
タマキが窓の外を見ると大きな白いかたまりが降ってきていた。タマキは立ち上がって窓のそばへ行き、窓を開ける。雪が暗い夜のなかを漂っている。街灯の明かりや電気の点いた部屋の光に照らされて、雪は空から降って地面へとおりていった。どこまでも等しく雪が降っている様子をタマキは眺める。私の気持ちもゆっくりと降っていきますように、とタマキは願った。
窓をほんの少しだけ開けて、タマキはお湯を沸かしてあたたかい飲み物を飲むためにキッチンへ向かう。冷たい外気がすっと部屋のなかに入って密やかに冷ましてくれていた。