第8話 体育祭の準備と秘密の特訓
二学期が始まってしばらくすると、学校全体がにわかに慌ただしくなってきた。体育祭の開催日が正式に発表され、クラス対抗の競技種目や出場メンバーの振り分け、応援合戦のテーマなどが決まっていくからだ。
ある日のホームルームで、担任の佐々木先生が言った。
「今年の体育祭は十月頭に予定しているわ。クラスで話し合って、誰がどの競技に出るか決めましょう。あと、応援合戦のテーマは『和』で、各クラスを紅白に分けて演舞を競います。みんな協力して盛り上げてね!」
教室からは「よっしゃー!」「めんどくせぇー!」など様々な声が上がる。僕は黙って黒板に書かれた競技種目一覧を眺める。リレーや100m走、障害物競走、大縄跳び、騎馬戦、綱引きなど、いかにも体育祭らしい競技が並んでいた。
「ねえねえ、どうする? 大友はどれ出たい?」
すぐに芦沢が声をかけてくる。運動神経抜群の彼は、当然リレーや騎馬戦などで主力を担う存在だろう。
「うーん……運動得意じゃないし……大縄とか、綱引きとか……?」
僕が弱気な提案をすると、芦沢は「大縄は人数多いし、誰でも出れるんだけど……それじゃあ面白くなくね?」と笑う。
岸本さんも「100m走あたりは枠がいっぱいあるから、どうかな? 大友くんなら頑張ればいけそうじゃない?」と勧めてくる。
(い、100m走……?)
思わず言葉に詰まる。短距離走なんて中学以来まともに走っていない。でも、運動オンチというほどではないから、やる気になればなんとかなるのかもしれない。
そうこうしているうちに、クラス委員を中心とした話し合いが始まり、「リレーはガチ勢で固めよう」「二人三脚は笑いを取りにいこう」といった提案が次々に飛び交う。僕はタイミングを掴めずに黙り込んでいたが、岸本さんが僕を振り返って「大友くんは……どうしたい?」と目で促してくれる。
「じゃあ……100m走と、大縄跳び、あと余ってるなら綱引きとか……」
おずおずとそれだけ言うと、クラスの何人かが「いいじゃんいいじゃん」と受け入れてくれる。こういうとき、“嫌だ、無理”と言わず、とりあえずやってみるか、という姿勢が僕の中で芽生えつつある。転校してすぐの頃の自分なら、即座に逃げ出しただろうに。
応援合戦の方でも、各クラスごとに踊りや歌のパフォーマンスを準備することになっていた。テーマは「和」ということで、法被や扇子を使った演出をするらしい。二年B組は赤組に所属し、クラスカラーとして赤のハチマキやハッピを着用して演舞する計画だ。
放課後、ダンス係の女子たちが中心となって、「振り付けを考えよう」と音楽室に集まって打ち合わせしている。僕はダンスなんてとんでもないという気持ちだったが、岸本さんに「せめて覗きに来てよ」と誘われ、断れずに参加することになった。
「この曲、途中で和太鼓の音が入ってるから、そこに合わせて一斉にジャンプして扇子を広げる……みたいなのはどう?」
「いいね、それ盛り上がるかも!」
女子たちはノリノリで意見を出し合い、男子たちも「恥ずかしいけど面白そう」とぼやきながら付き合っている。僕は端っこのほうで見守っていたが、そこへ岸本さんがやってきた。
「大友くんも試しに踊ってみようよ。簡単な部分だけでも」
「え、いや……俺、絶対ぎこちないし……」
「みんな最初はぎこちないよ。私も全然ダンス得意じゃないし。でも、動いてみたら案外慣れるかもよ?」
それでも尻込みしている僕の手を、岸本さんはあっさり掴んだ。彼女の手の温度を感じて、思わず胸がドキリとする。
「ちょっとだけ……やってみよう」
そのまま僕はダンスの列に半ば強制的に引っ張られ、簡単なステップを教わる羽目になった。
「右足を前、左足を合わせて、手は上に……そうそう、もうちょっと大きく。そこから一拍おいて、次の動作に繋げる……」
全員で曲を再生し、リズムに合わせて動こうとするが、僕はタイミングを外しっぱなしで恥ずかしくなる。だけど、周りのクラスメイトは誰も笑わず、「大丈夫大丈夫、最初はそんなもんだよ」と励ましてくれる。
(……何だろう、この一体感)
まだ振り付けの一部しか覚えていないが、みんなが同じタイミングで手を振り上げたり足を踏み出したりすると、妙に楽しい感覚が湧き上がってくる。思わず笑みがこぼれてしまうくらいだ。
応援合戦のダンスや衣装の準備が進む一方で、競技のほうも練習が始まった。リレーのメンバーや騎馬戦のメンバーなどは朝や放課後にグラウンドで練習することがある。といっても強制ではなく任意参加だが、クラスの士気を高めるために多くの生徒が集まっている。
僕は100m走のメンバーとしてエントリーしたが、実際のところ足には自信がない。しかし、どうせ出るならあまりにも惨敗するのは悔しい。そんな気持ちになっていたとき、偶然グラウンドで芦沢に捕まった。
「大友、100m走に出るんだって? よし、じゃあちょっと走ってみろよ」
夕方のグラウンドにはリレー選手を中心に数人が集まり、ダッシュの練習をしている。僕は少しだけ恥ずかしい気持ちを抱えながら、彼らの前で全力疾走を披露する。
結果、案の定そこまで速くはない。リレー選手たちには遠く及ばず、芦沢からも「うーん、もうちょっとフォームを意識しないとな」とアドバイスされてしまう。
「そうそう、腕を大きく振って、膝をしっかり上げるイメージ。あとはスタートダッシュだな……」
「スタートダッシュ?」
「最初の数歩でスピードに乗れれば、結構差が出るんだよ。大友は出だしがちょっともたついてるから、そこを改善すればタイム伸びると思う」
芦沢は実際に軽く走って見せて、足の運びや腕の振り方を実演してくれる。いつも明るいだけじゃなく、理論的に指導してくれる姿は意外と頼もしい。
「わ、わかった。ちょっと練習してみる……」
周囲には他のメンバーもいるが、恥をかく覚悟で何度かスタートを繰り返す。すると、少しずつだけどコツが見えてきて、タイムがわずかに縮まった気がする。
「お、いい感じじゃん。今のスタートは悪くない」
芦沢の言葉に、僕は胸が高鳴る。スポーツで褒められた経験なんてほとんどないのに、少し嬉しい。
(こういうのが“仲間同士で高め合う”って感覚なのか……)
走り終わって息を切らせながら、僕は新鮮な達成感を噛みしめる。クラスのため、というよりは自分自身が悔しくないために練習しているわけだが、それでも誰かが応援してくれることがこんなに心強いとは思わなかった。
ひと通りダッシュの練習を終え、僕は汗だくになってグラウンド脇で休んでいた。周りはリレー選手たちがバトンパスの確認をしている。見ているだけでも息が上がりそうだ。
ふと視線を感じて振り向くと、そこには岸本さんが立っていた。吹奏楽部の練習が終わったのだろうか、バッグを肩にかけてこちらを覗き込んでいる。
「あ、大友くん、お疲れさま。100m走の練習、してたんだね」
「うん……まだ全然ダメだけど、芦沢に教わってちょっとマシになったかな……」
照れくさそうに言う僕に、岸本さんは「ふふ、でも偉いね。ちゃんと努力してるんだ」と微笑む。
「いや、そんな大したことじゃ……でも、どうせ出るならあまり惨めに負けたくないし……」
そう付け加えると、岸本さんは「わかる!」と頷く。
「私も騎馬戦に出るんだけど、女の子同士でも迫力あるんだよ? 絶対負けたくないから、練習しなくちゃって思ってる。うちの吹奏楽部にも騎馬戦出る子多くて、みんなで相談してるんだ」
意外な事実に驚く。騎馬戦といえば男子の競技のイメージがあったが、最近は女子のチームもけっこう白熱するらしい。
「え、岸本さん、騎馬戦って……危なくない?」
「まあ、怪我しないよう気をつけるけど、楽しいよ。なんか闘志が燃える感じ」
彼女が頬を染めて笑う姿に、僕はドキリとする。やはり、彼女は華奢な外見からは想像しにくい芯の強さを持っている。そのギャップがまた魅力的だ。
「そっか……じゃあお互い頑張ろうね」
僕は照れを隠しきれずにそう言うと、岸本さんは「うん!」と楽しげに答える。
「ところで、もう帰るの? 私もちょうど帰るところなんだけど……バスでしょ?」
「そうだけど……」
「じゃあ途中まで一緒に行こっか。まだ明るいし、ちょうどいいや」
彼女から言われると、断る理由なんて見つからない。僕は思わず「う、うん」と返事をしていた。
校門を出るころには、空の端が茜色に染まりかけていた。夕日に照らされた校舎の壁がオレンジ色に輝いていて、どこか郷愁を誘う。
岸本さんは部活の汗なのか、軽く前髪をかき上げながら「今日は遅くなっちゃったね」と苦笑いする。僕はそんな彼女の横顔を盗み見るようにして、胸がざわつくのを感じる。
「……あ、そうだ。応援合戦のダンス、大友くん結構様になってたよ」
岸本さんが突然そんなことを言い出すので、僕は慌てて否定する。
「いやいや、全然ダメだったでしょ。ステップとかめちゃくちゃだし……」
「いいのいいの、最初はみんなそんなもんだよ。何度もやってるうちに揃ってくるから。大友くんが踊ってくれるなら、男子の人数も増えて嬉しいし!」
彼女の言葉は純粋な励ましだ。それがかえって刺さる。
(“踊ってくれるなら嬉しい”……そういう一言が、意外と嬉しいんだよな……)
でも、その嬉しさの裏には、一抹の切なさが混ざっている。彼女にとって僕は、クラスの仲間の一人にすぎない。もしかしたら、その距離感はこれから先もあまり変わらないかもしれない。
バス停に着くと、今日もタイミングよくバスが来る。乗り込む僕に、岸本さんは「じゃあ、また明日!」と手を振ってくれる。僕はそれに答えて「うん、また明日」と返す。
揺れる車内でシートに腰を下ろし、窓の外を見やる。まるで昨日と同じ景色だが、今日は彼女と話して一緒に歩いてきたという事実が、僕の胸をほんの少しだけ満たしている。
(体育祭、うまくいくといいな……)
そう願いながら、同時にどこか焦りのようなものを感じている自分がいる。友達以上恋人未満――そんな言葉がよぎる。もちろん、まだ何も始まっていないし、今の段階でそんな欲を持つのはおこがましいのかもしれない。
でも、彼女に少しでも近づきたいと思ってしまう自分が確かにいる。部活をどうするかも決められない僕が、そんな気持ちを抱いていいのだろうか。
窓の外の夕空が、少しずつ夜の帳へと変わっていく。そのグラデーションに目を奪われながら、僕は複雑な胸のうずきを抱えたまま、次のバス停で降りる準備をした。