第6話 はじめての見学と、小さな勇気
九月に入っても、まだ残暑が続いている。夏の陽射しにまったく衰えはなく、校庭には蝉の声が名残を惜しむように響いていた。僕・大友遼は、新しい高校に転校してから二週間ほどが経とうとしていたが、まだ部活には所属していない。
とはいえ、放課後がくるたびに、サッカー部の芦沢が「なあ、暇ならグラウンド来いって」と声をかけてくるし、吹奏楽部の岸本さんも「音楽室、見学だけでもいいからね」と誘ってくれる。僕はその両方に対して曖昧な態度をとっていたが、そろそろ結論を出すべきかもしれない。
このままずるずる“帰宅部”を続けても、家に帰ってから特にやることがあるわけでもない。叔母さんは「焦らなくてもいいのよ」と言ってくれるが、自分自身が一歩踏み出さない限り、何も変わらない気がしていた。
ある日の昼休み、芦沢は弁当を頬張りながらニヤリと笑って僕のほうを見た。
「おい大友、今日こそは見学に来いよ。うちのサッカー部、レギュラーも2年が結構多いからさ、初心者だろうとウェルカムだぜ」
「…………」
スプーンを口に運びかけて止めてしまう僕。その横で、岸本さんが箸を置きながら、これまた柔らかい表情を浮かべる。
「じゃあ私も、今日こそ吹奏楽部に来てほしいなあ。コンクールが終わった直後だから、ちょっとのんびり練習だけど、むしろそのほうが見学しやすいと思うし……」
両隣から視線を注がれてしまい、逃げ場を失う僕。
(どうする……?)
悩んでいる僕を見かねたのか、向かいに座っていた別のクラスメイトが吹き出すように笑った。
「大友はモテモテだな。こりゃ贅沢な悩みだ」
「いや、そういうんじゃ……」
慌てて否定したものの、彼らにとっては冗談めいた軽口らしい。僕は耳まで熱くなるのを感じながら、なんとか言葉をしぼり出す。
「じゃあ……両方とも見学しちゃダメ……かな」
それを聞いた芦沢は「おお、いいね!」と声をあげる。岸本さんも目を輝かせて、「うちの部にも、じゃあちらっと来てくれるんだ?」と微笑んだ。
「うん、あの……今日は時間もあるし……サッカー部はグラウンドで、吹奏楽部は音楽室だよね。まずどっち行こうか……」
僕が口を濁すと、芦沢が「一番最初にグラウンド来たら? 部活始まってすぐの基礎練見て、それから音楽室に行くとか」と提案する。岸本さんも「それ、いいかも」とうなずいた。
というわけで、放課後は少しだけ忙しいスケジュールになりそうだ。普段なら“帰って一人でのんびり”を選びがちな僕だけど、実際に見学だけならいいだろう。どうせいつまでも逃げ続けるわけにもいかないし――そんな思いが、僕の背中を押していた。
放課後のチャイムが鳴り、芦沢に引っ張られるようにグラウンドへ向かう。まだ着替えていないので、僕は校舎からそのままの制服姿でスタンド(といっても芝生の一角)に座る形になる。周囲は練習用のTシャツやジャージを着た部員たちがたくさんいて、活気に満ち溢れていた。
「さあ、大友はここで見といてくれ! 最初はランニングとかドリブルの基礎練やるからさ。まあ、暇だったら輪に入って軽く走ってもいいぞ」
「い、いや、今日は見学だけで……」
僕は必死に遠慮するが、周りから「走れ走れ!」と囃し立てられ、結局、体育館シューズを借りてジョギングに混ざるハメになった。
「やば……息が上がる……」
日頃運動不足の身には、基礎練習のペースランニングですらキツい。芦沢や他のサッカー部員は息を乱す様子もなく、軽快にトラックを回っている。僕だけペースが落ちて、後ろのほうでゼーハー言いながら必死に走る。
それでも、彼らは「マイペースでいいよ」と声をかけてくれたり、僕のペースに合わせて一緒に走ってくれる先輩がいたりして、決して嫌な雰囲気ではない。むしろ“初心者歓迎”という言葉が嘘じゃないのが伝わってきて、ちょっと胸があたたかくなる。
一通りのアップが終わると、今度はパス練習やミニゲームを始めるらしい。もちろん僕が参加しても足を引っ張るだけなので、遠目から眺めることにした。
ミニゲームでは、芦沢がさすがの身体能力を見せて、スピードに乗ったドリブルでゴール前へ突進していく。周囲も連携して華麗なパス回しを行い、最後はカーブをかけたシュートでネットを揺らす。
「うわ、すげー……」
つい声が漏れる。芦沢のプレーだけじゃなく、部員同士の掛け合いや、こぼれ球を狙う動き、声の連携――どれもが一体感を生んでいて、観ているだけで楽しい。
(こういう世界もあるんだな……)
僕は少しだけうらやましくなる。もし自分がもっと社交的で、体力もあって、サッカーそのものを好きだったら、この輪の中に入れるのだろうか。華やかなプレーはもちろん、チームメイトと励まし合いながら練習する姿に、憧れのようなものを感じる。
「おーい、そろそろいい時間じゃないか? 吹奏楽部に行くんだろ?」
遠くから芦沢がこちらに向かって声をかける。腕時計を見ると、すでに日が傾き始めていて、だいぶ長い間、サッカー部の練習を見ていたようだ。
「うん、ありがと。見せてもらって、なんかすごく刺激になった……」
僕は正直な気持ちを伝える。すると、芦沢は満面の笑みを浮かべて「だろ? サッカーは楽しいんだぜ」と親指を立てた。
「またいつでも来いよ! まあ、吹奏楽部のほうが性に合うってなら、そっちもアリだしな。頑張れよ!」
彼の声援を背中に受けながら、僕は早足でグラウンドを後にした。
グラウンドから校舎に戻ると、すでに日はオレンジ色に染まりかけている。窓の外を見ると、夕陽が下り始めているのが分かった。吹奏楽部の練習は6時ごろまでだと聞いている。急がなければ終わってしまう。
音楽室は特別棟の二階にあった。階段を駆け上がると、薄暗い廊下の先から、かすかに楽器の音が聞こえてくる。
(あ……なんか、すごく綺麗な音……)
クラリネットやフルートの繊細な旋律、トランペットの鮮やかな響き、そしてホルンやチューバの低音――いろんな音色が混ざり合い、そこに打楽器がリズムを添えている。近づくほどに音が重なり、まるで一つの大きな曲のように聴こえた。
そっと音楽室のドアを開けると、想像以上の人数が中にいて驚く。30人以上いるだろうか。各パートに分かれ、円形に座って合奏していた。指揮をしているのは三年生らしき先輩。その横で岸本さんの姿を探すと、クラリネットパートにいた。
「……おお、きたきた」
誰かが僕に気づいたのか、小声で「あ、新入部員?」と囁く声が聞こえる。いや、新入部員ではなく見学希望なんだけど……と思いながら挨拶のタイミングを迷っていると、合奏がちょうど区切りのいいところでストップ。指揮者が僕に目を向けて、にっこり笑った。
「いらっしゃい。もしかして、岸本の友達? どうぞどうぞ、中でゆっくり聞いていって」
「あ、はい……お邪魔します……」
ペコリと頭を下げて部屋の隅に移動すると、岸本さんが楽譜を置いて立ち上がり、僕のそばへ駆け寄ってきた。
「ありがとう! 本当に来てくれたんだね。サッカー部の見学が長引いたから、もう来ないかと思った」
「ごめん……つい面白くて、長居しちゃって……」
僕が恐縮していると、岸本さんは「それだけ楽しめたならいいんだよ。で、こっちもまだ合奏中だから、しばらく聴いててくれたら嬉しいな」と頬をほころばせる。
指揮者の先輩が「じゃあもう一回、一小節前から合わせます」と号令をかけると、再び合奏が始まった。僕は音楽室の後ろの椅子に座って、その音色をじっと聴き入る。
(すごい……)
正直、吹奏楽コンクールだとか、曲の良し悪しなんて分からない。でも、一つの曲が作り上げられていく瞬間に立ち会うのは新鮮だった。各楽器の音が重なって、曲が徐々に形を成していく。楽譜をめくる音までが、なんだか心地いい。
五分ほどの演奏が終わると、部員たちは笑顔で「お疲れ」「もう一回やろう」などと声をかけ合う。
「はい、休憩ー。今のちょっと確認したいところがあるから、セクションごとに話し合おうか」
指揮者の先輩がそう言い、一斉に部員たちはパートごとに固まる。クラリネットパートも四、五人が集まって「あそこの音程がぶれるね」「もう少しユニゾンを合わせよう」と話し始める。僕は完全に蚊帳の外だけど、岸本さんがちらっとこちらを見て手を振ってくれた。
そのあと、岸本さんがクラリネットを片手に、僕のところへ来る。
「どう? いまの曲、夏のコンクールでやった曲の復習なんだよね。秋の文化祭でも披露する予定で」
「うん、すごく迫力があった……。みんな真剣に演奏してるのが伝わってきた」
正直な感想を述べると、岸本さんは嬉しそうに笑う。
「そっか、それはよかった。私も今日は集中できてるかも。何か意外とやる気出るんだよね、友達が聴いてくれてると」
「……そうなんだ」
そう言ってもらえると、僕まで何だかくすぐったい気分になる。まだ見学し始めたばかりだけど、この部活には自然と“楽しそう”という雰囲気がある。
「もし大友くんもやってみたくなったら、楽器は余ってるものもあるし、いつでも言ってね。初心者から始める子もいるから、怖がらないで」
「……うーん、どうかな……」
正直、音楽は好きだけど、自分に楽器が扱えるイメージが全然湧かない。でも、岸本さんの微笑みを見ていると、断言して否定する気にもならなかった。
その後、合奏はさらに30分ほど続き、僕は最後までその場に残って聴き入った。打楽器がリズムを刻み、トランペットが高らかなメロディを奏で、クラリネットやサックスの柔らかいハーモニーが全体を包む。音が天井に反響し、体の芯まで振動が伝わってくるようだ。
(すごいな、何かが一つになってる感じが……)
そうして演奏が終わったとき、部員たちから大きな拍手が起こった。僕もつられて手を叩く。演奏している本人たちはもちろん、聴いているだけの僕も達成感めいたものを感じた。
練習後、部員たちが楽器を片付けている間、岸本さんや何人かが「見学ありがとうね」と声をかけてくる。僕は「いえ、こちらこそ……」と頭を下げつつ、なんとか笑みを返す。
片付けが一段落すると、外はもうすっかり夕闇に染まっていた。校舎の窓から見える空には、紫色と赤茶色が混ざり合ったようなグラデーションが広がっている。
「あれ、大友くん、まだいたんだ?」
岸本さんが鍵のかかった楽器庫から出てきて、僕の姿を見つける。
「うん、あの……どこで待ってればいいかわからなくて……」
実は、岸本さんと一緒に帰ろうかな、なんて少しだけ思っていた。彼女が駅方面へ向かうのと、僕がバス停へ向かうのは途中まで同じ道なのだ。
「そっか。なら一緒に帰ろうよ。もう外も暗いし、駅まで送るわけにもいかないけど、途中まではね」
岸本さんがそう言って笑みを浮かべる。暗い廊下を二人で歩きながら、僕は今日の感想を伝えた。
「吹奏楽の合奏、すごく良かった。あれだけの人数が一斉に同じ曲を作り上げるって、なんか感動したよ」
「ふふ、ありがとう。私たち、まだまだミスも多いけど、そう言ってもらえると嬉しいな」
階段を下り、下足箱の前で靴を履き替える。すっかり人気がなくなった校舎には、夜間照明がぼんやりと灯っているだけ。遠くのグラウンドからはまだ運動部の声が聞こえるが、吹奏楽部は完全に撤収完了したらしい。
校門を出ると、涼しげな夜風が頬をなでていく。残暑の日中とは打って変わって、秋の気配を感じるような空気。
「この時間、バスの本数少ないんでしょ? 大丈夫?」
「うん、たぶん大丈夫。一本逃すと30分くらい待つけど……」
「そっか、じゃあ急ごうか」
岸本さんの言葉に合わせて、僕は少し早足になった。やがて、学校から10分ほど歩くと、バス停に到着する。
「ここか。大友くん、いつもここから乗ってるんだね」
「うん。朝もここで降りるし、帰りも同じ。便利だけど、帰りが遅くなるとバスも本当に少なくなる……」
そう説明していると、ちょうどバスが向こうから走ってきた。
「あ、来た……」
「よかった、待ち時間ほとんどないね」
岸本さんはホッとしたように笑う。ドアが開き、僕はバスへ乗り込む。ほんの数秒の別れだけど、何か言いたいような気がして、咄嗟に振り向いた。
「今日は……誘ってくれてありがとう。すごくいい経験だったよ」
「こちらこそ。来てくれてありがとう。じゃあ、また明日ね!」
彼女はにこやかに手を振る。その笑顔が、バスのドアが閉まる寸前まで見えていた。バスが動き出すと、窓越しに岸本さんの姿が少しずつ小さくなっていく。
(何だろう……胸があったかい)
座席に腰を下ろし、窓の外の流れる街並みを眺めながら、僕は不思議と満たされた気持ちになっていた。サッカー部と吹奏楽部、まったく雰囲気は違うけど、それぞれの良さがあって、どちらも“人と一緒に何かをする”楽しさが詰まっている。
もし僕がどちらかの部活を選んだら、もっと仲間との時間が増えて、いろんな悩みも共有できるかもしれない。もちろん不安はあるけれど、一人で過ごすばかりの日々とは違った世界が広がっている気がした。
家に着いた頃には、外はすっかり暗闇に包まれていた。叔母さんが玄関先で「遅かったわね」と声をかけてくる。
「うん、部活を見学してた……」
「へえ、そうなの。サッカー部? それとも、音楽のほう?」
「両方……」
僕が答えると、叔母さんは目を丸くして「それはまた精力的だね!」と軽く笑う。
夕食を済ませ、自室に戻ったあとも、頭の中にはサッカーと吹奏楽、そしてクラスメイトたちの楽しげな表情が浮かんでくる。思わずスマホを取り出して、クラスのLINEグループを眺めた。
そこにはさっそく芦沢が書き込んでいた。
「今日は大友が見学来たぜ! へっへー、初心者だけどセンスあるかも?」
「いや、ないない」と僕は画面に向かって苦笑いする。すると、岸本さんからも「今日は来てくれてありがとー! また来てくれると嬉しいな」みたいなメッセージが。
(みんな、ほんとにフレンドリーだよな……)
少し前までの僕なら、「自分なんて」という思いに押し潰されて、距離をとっていたかもしれない。でも今は、“もしかしたら受け入れてもらえるかも”という淡い期待が勝っている。
いつものように畳の上に寝転がって、天井を見つめる。
(サッカーは確かにハードだけど、みんなとやるのは楽しそうだった。吹奏楽も、楽器は未知だけど、一体感があって凄く魅力的だ……)
どちらを選ぶかはもちろん自由だ。でも、僕は欲張りにも、どちらも捨てがたいと思ってしまう。さすがに掛け持ちは難しいだろう。かといって、どちらか一方を選べば、もう片方を諦めることになる。
だが、こうして悩めるだけでも、僕にとっては大きな進歩なのかもしれない。“やりたいこと”がないわけじゃない。“やりたくない”わけでもない。むしろ、やってみたい気持ちがこんなにも湧くなんて、今までの自分にはなかったことだ。
(もう少し、考えてみよう。どっちが自分に合うか、どんな人たちがいるか……)
そう思いつつ、まぶたが重くなってきた。窓の外からは秋の虫の声が聞こえる。まだ暑さが残る夜だが、季節は確実に進んでいる。僕自身も、少しずつだが前へ進みたい。
「どっちか……あるいは、ほかの道か……」
つぶやきながら目を閉じる。今日という日は、部活見学という“小さな勇気”を振り絞った僕にとって、大きな転機になるかもしれない――そんな予感を抱きながら、すとんと眠りの中に落ちていった。
決めきれない不安はあるものの、サッカー部と吹奏楽部を覗いてみたことで、“人と一緒に何かをする楽しさ”を肌で感じ取れたのだ。少なくとも、もう以前のように“自分には無理”と諦めるばかりではなくなっていた。