第5話 小さなきっかけ
転校初日の翌日から、僕の新しい学校生活は本格的に動き始めた。時間割に合わせて各教科の授業が進み、クラスメイトとも少しずつ会話を交わす機会が増える。
もちろん、まだ僕から積極的に話しかけることはできないけれど、芦沢や岸本さん、それから他の何人かが気さくに声をかけてくれるので、輪に入る敷居は想像以上に低い。
でも、そうしてクラスに馴染みかける一方で、「自分がこんなにあっさり打ち解けていいのかな」と不安になる瞬間もある。僕のネガティブな性格が、「そのうち周りに迷惑をかけるんじゃないか」とか、「表面上だけの親切かもしれない」とか、いろいろ悪い方向へ考えさせるのだ。
そんなある日の放課後、僕は引っ越してきたばかりの身だから、部活動にすぐ入るつもりもなく、家に帰ろうとしていた。すると、廊下で芦沢が「おい、ちょっと待てよ!」と追いかけてくる。
「大友、なんか部活決めてる?」
「いや……まだ。しばらくは考え中」
「そっかー。もしよかったら、うちのサッカー部に遊びに来てみないか? 体験ってやつ」
芦沢はサッカー部だと聞いていたが、まさか勧誘してくるとは。僕は運動音痴ではないけど、特別サッカーが得意なわけでもない。
「え、でも、俺、サッカーとか得意じゃないし……」
「いいんだよ、見学だけでも。うちは誰でも歓迎だからさ。気が向いたらでいいからさ」
そう言って笑う芦沢は、本当に気持ちがいいほど爽やかだ。けれど、部活はやりたくても人間関係が怖いし、練習も大変だろう。僕は曖昧に「うん、また考える」とだけ答えた。
そのやり取りを横で聞いていた岸本さんが、「私も吹奏楽部の練習があるから、もし暇なら見に来てほしいな」と声をかけてくる。
「吹奏楽……?」
「うん、私はクラリネット担当なんだけど、この間コンクールが終わったばかりで、今はちょっとゆるい練習なの。でも、音楽室でやってるから、暇だったら覗きに来てね」
そう言って微笑む岸本さんを見ていると、なんだか断るのがもったいない気がしてくる。でも、やはり人の集まりに入るのは勇気がいる。
「そっか……気が向いたら……」
僕はそれしか言えずに、視線をそらす。岸本さんは「うん、待ってるね」と言い残して、音楽室のほうへ走っていった。廊下に吹き抜ける風が、彼女の髪をふわりとなびかせるのが見える。
(ああいう子とは、たぶん正反対なんだろうな、俺……)
すごく朗らかで、誰とでも自然に話せて、それでいて押し付けがましさがない。そんな雰囲気を持っている。僕なんかがその世界に踏み込んでいいのだろうか――そう考えると、どうしても引っ込み思案になってしまう。
結局、その日はまっすぐ家に帰った。夕食中、叔母さんが「学校は楽しい?」と尋ねてくる。僕は「まだ分からない」と曖昧に返すが、心の中では「もしかしたら、本当に楽しめるかもしれない」と思い始めている自分がいる。
しかし、まだ確信はない。前の学校でも、最初はそこそこ普通だったのに、気づけばいつの間にか孤立していた……という経験があったからだ。根拠もないのに「大丈夫」とは言えない。
そんなモヤモヤを抱えたまま布団に入り、うとうとし始めた深夜、スマホが小さく振動した。メッセージアプリの通知だ。誰だろうと思って開くと、表示されていたのは「岸本亜衣」という名前。
(岸本亜衣……ああ、岸本さん……?)
そういえば、今日の昼休みにクラスでLINEグループを交換しようと提案され、僕も仕方なくQRコードを見せたのだった。すると岸本さんや芦沢、それから何人かが一斉に友だち追加してくれて、そのまま“2-Bグル”というクラスのグループに招待されていた。
メッセージを開くと、シンプルに「今日もお疲れさま。明日もよろしくね!」と書いてある。
「……え、なんでわざわざ?」
クラスメイトといえど、個人的にこんなメッセージを送ってくれるなんて、ちょっと意外だ。僕は驚きつつも、せっかくなので返信する。
(こちらこそ、よろしく……)
文面を考えるだけで一苦労。失礼のないように、でもそっけなさすぎないように……なんて考え始めるとキリがない。
結局、無難に「こちらこそよろしく」と送信してみた。すると、すぐにスタンプが返ってきた。ニコニコ笑って手を振っている可愛いキャラクターのスタンプ。
(こういうやり取り、久しぶりだな……)
前の学校ではLINEのグループにもほとんど入らなかったし、個人間でメッセージをやり取りする相手なんていなかった。
スマホの画面を眺めながら、僕は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。岸本さんの優しさが、直接こちらに届いてくるような気がして、胸が少しだけどドキドキする。
翌朝、学校に行くと、岸本さんがにこやかに「おはよう!」と声をかけてくる。僕は少し照れて「おはよう……」と返す。何気ない朝の挨拶がこんなに嬉しく感じるなんて、今まで知らなかった。
授業が始まると、いつものように先生の話を板書し、ノートを取る。ときどき隣の芦沢が「お前、ノート取ってるか?」と確認してくるので、そのたびに「あ、うん」と頷く。彼はやはり気遣いが上手い。ときどき冗談も飛ばしてくるけど、ちょうどいい距離感を保ってくれる。
そして昼休み、またしても一緒に弁当を食べようと誘われる。最初は居心地が悪かったが、二日目ともなると少し慣れてきた自分がいる。
「大友くん、それ味見させて?」
隣の女子が唐揚げを一個くれた代わりに、僕の卵焼きを欲しがったりして、なんだか賑やかだ。こういう昼休みを経験したことなんて、ほとんどない。ちょっと戸惑いつつも、悪い気はしない。
放課後、芦沢が部活へ行くのを見送り、僕は下駄箱で靴を履き替えていた。そしたら、後ろからそっと岸本さんが現れて、「今日も帰るの?」と尋ねてくる。
「うん……まあ、特に用事もないし」
「そっか。そういえば、大友くんって部活はまだ決めてないんだよね? 吹奏楽でもサッカーでも……興味があれば見学に来てほしいけど……」
「あ……でも、俺、音楽とか詳しくないし、楽器なんて全然……」
あからさまに拒否しているわけではないけど、どうしても腰が重くなる。岸本さんはわかっているのか、「無理にとは言わないよ」と優しく微笑む。
「ただ、せっかく新しい学校に来たんだし、何か一つでもやってみたらどうかなって思っただけ。私も吹奏楽部は最初、友達に誘われてイヤイヤ始めたんだけど、やってみたら楽しくて、いつの間にか続けてたから」
「……そっか。やってみないと分からない、か」
「うん。まあ、これも人それぞれだけどね」
その言葉を残して、岸本さんは音楽室へ続く階段を上がっていった。僕はなんだか取り残された気分のまま、正門を出る。
(やってみたい気持ちも、ゼロじゃないんだよな……)
そう思いながら、バス停へ向かう道を歩く。サッカー部にしても吹奏楽にしても、興味がないわけじゃない。でも、人と上手くやれるか不安だし、迷惑かけないか、周りに溶け込めるか――そんなことばかり考えて、一歩を踏み出せずにいる。
夜、叔母さんがテレビを観ながら「若いんだから、いろんなことに挑戦すればいいのに」とぼやいていた。その言葉が妙に胸に刺さる。僕はふと立ち上がって、窓辺に移動し、外の夜空を見上げた。
街灯に照らされた路地、静まり返った住宅地。はるか上にある星が瞬いている。僕がここに来てまだ日が浅いけど、こうして少しずつクラスメイトとの接点が増えていくのを感じる。もしかしたら、今が“自分を変えるチャンス”なのかもしれない。
「やってみるか……」
誰にともなく呟く。サッカー部か吹奏楽部か、あるいはまったく別の道かは分からないけど、何か一つでも一歩を踏み出してみたい。
そう決意しながらも、心のどこかで「またすぐに挫折するんじゃないか」という声が聞こえる。だけど、その声を“今だけは”かき消そうと思った。岸本さんのあの笑顔と、「やってみないと分からない」という言葉が、僕の背中をそっと押してくれているから。
こうして、僕の高校生活は少しずつ動き出している。焦らず、丁寧に。まだ道のりは長いだろうし、いろんな不安や葛藤も出てくるだろう。それでも、今のクラスなら、周りにいるみんななら、僕を受け入れてくれるかもしれない――そんな淡い期待を、心の片隅に抱き始めているのだ。
そして、それはほんの小さなきっかけだとしても、僕には大きな一歩になるかもしれない。




