第40話 受験の嵐、そして決断
夏の盛りが過ぎ、九月から十月にかけて、校舎の周りには赤トンボが飛び交い、木々は色づきを始める。高校三年生の僕らにとっては、受験シーズンの本格到来だ。早い人は指定校推薦やAO入試を受け始め、一般入試組も模試や願書の準備で忙殺される。
吹奏楽部も事実上、三年生の“引退”という形が加速し、数人を除いては勉強に専念する流れができている。新部長も「無理に引き止めはしない。勉強に集中すべき人はそうして」と言ってくれて、後輩が中心の活動に移行している。
僕はというと、文系大学を目指す方向で塾や予備校の模試を受けつつ、まだ具体的に学部を決めかねている。ただ、「吹奏楽を続けたい」という思いは強く、サークルが盛んな大学をいくつかピックアップして出願予定だ。11月の願書締切に向けて動き出している状態だ。
一方、岸本さんは音大を第一志望に仮定しつつ、一般大学も受けるダブル受験を決意した。父親は転職後の給与がやや下がったが、「奨学金やバイトでなんとかするなら、夢を応援してやりたい」と言っているとのこと。彼女は専門の先生にソルフェージュや楽典のレッスンを受け始め、放課後すぐに先生の家へ通う日が多くなった。
(そうなると、部活はもちろん俺との時間も減るし、互いにメッセージや電話で励まし合うしかない)
学校でも彼女の姿を見る機会が激減し、昼休みは彼女が参考書を抱えて図書室に籠ったり、放課後すぐ帰ったりという日が増える。僕も塾や模試があり、二人が一緒に過ごせる時間は激減していく。
ある日の放課後、僕は珍しく早めに補習が終わり、教室で岸本さんを待っていたが、彼女は姿を見せなかった。友人に尋ねると「今日はソルフェージュのレッスンがあるから先に帰ったよ」とのこと。
連絡を見てみると、彼女から「ごめん、今日も先に帰っちゃった。先生とのレッスン間に合わなくて」とメッセージが入っていた。
(仕方ない……でも会いたかったな)
翌日も、土曜補習で彼女は別の予備校に行くため、俺とは予定が合わない。日曜は模試があり、彼女も音楽関連の実技練習。結局、二週間近くまともに顔を合わせていない。お互いLINEや電話で励まし合うが、不安が募る。
僕は部活に顔を出そうか迷うが、もう三年生として引退扱いだ。後輩たちが元気に合奏している隣で自習するのも微妙だし、クラリネットを持たずに帰宅する日々が増えた。吹奏楽で繋がっていたはずの時間が、いつの間にか削られ、残るのは受験勉強という現実だけ。
(こういうのが“すれ違い”ってやつか……)
夜、机に向かって英単語を覚えていると、ふと切なさが込み上げる。岸本さんも同じだろうか――と思うと、LINEを入れたくなるが、遅い時間だと迷惑かもしれない。結局「勉強頑張ろう」とスタンプを送り、彼女からも同じようにスタンプが返ってくる。会話はそれで終わる。
九月末から十月にかけて、模試が連続して行われる。僕は英語と国語はそこそこ点が取れるが、世界史や数学が足を引っ張り、偏差値は思ったより伸びない。志望校の合格判定はD判定がほとんどで、「このままだと厳しい」と塾の先生に言われてしまう。
「やばい……ここから本腰入れないと本当に落ちる」
焦りでいっぱいになるが、日中は学校、夕方は塾、深夜は自宅で自習。彼女と会う時間なんて、ほんの数分すれ違うかLINEで一言交わす程度だ。
岸本さんも音大受験に必須の楽典テストや聴音、視唱などが難しく、「思った以上に苦戦してる」と愚痴を漏らす。さらに一般大学も併願するため、普通教科の勉強も手を抜けない。
「もう頭がパンクしそう……」とLINEで弱音を吐く彼女に、「俺も同じく。お互い頑張ろう」と返すが、それ以上どう励ませばいいか分からない。会えない時間が長いせいで、微妙に心がすれ違っていないか不安になる。
そんなある日曜、たまたまスケジュールが合い、二人で市立図書館に行って自習しようという話になった。午前中から夕方まで勉強し、合間に少しだけ会話をするという程度の過ごし方でも、いまの僕らにとっては貴重な“デート”だ。
図書館の自習室は静かで、個人ブースがあるが、僕らは隣り合わせの机に腰掛けて、教科書や参考書を開く。周囲を気にして、恋人らしい仕草は控えめ。
「数時間ごとに休憩入れようね。あと、音大の課題とか見せてもらっていい?」
僕がそう提案すると、彼女は照れながら「いや、声楽とか視唱は見てもわからないと思うけど……」と笑う。
休憩時間になると、館内の自販機で飲み物を買い、椅子に座って背伸びをする。彼女が「はあ……疲れたね」と肩を回す姿を見ると、抱きしめたくなる衝動を覚えるが、ここは公共の場。どうにか自制し、「そうだね、でも久々に一緒に勉強できて嬉しい」と小声で囁く。
「私も……こんな時間が持てるなんて、ほんと久しぶり。……もう受験終わるまであと少しだと思って頑張ろうね。そしたら、また音楽できる日が来るかもしれないし……」
彼女はそう言い、微笑みながら手を重ねそうになるが、後ろを人が通ったので慌てて離す。お互い苦笑して、再び机に向かう。これが受験生カップルの現実だが、むしろ気持ちが通じ合っている分だけ救いがある。
秋が深まり、気づけば校庭の木々が紅葉から落葉へ変わり、冬の訪れを感じる。受験本番が迫るにつれ、模試や学校の三者面談も最後の段階に入っていく。僕らの高校では「共通テスト」「私大受験」「国公立二次」と順を追って試験が控えており、進学希望者はみなピリピリし始めた。
僕は第1志望を都内の私立大学(文系)に定め、第2志望以下もいくつか受ける予定。岸本さんは音大を含む3校を志望し、滑り止めに一般大学を1校。相当タイトなスケジュールだが、彼女は本気で音楽の道を目指したいのだろう。
「父も“無理せずに”って言うけど、私が後悔しないように選ぶなら、ここで逃げちゃダメだよね」
と彼女は強い口調で言う。
僕らはここ数ヶ月、ラインや電話で「大丈夫?」と相互に励まし合うが、実際に顔を合わせられる日は限られる。学校で会っても、受験の話をするだけで精一杯。手を繋ぐ時間も、放課後に一瞬でもあれば恩の字だ。
そんな忙殺される日々の中でも、彼女との絆は不思議と揺るがない。互いに連絡が遅れようとも、「ごめん、勉強してた」と言えば「ううん、私も同じ」と許せる関係。焦る気持ちや不安はあるが、それ以上に「離れない」という確信がある。




