第4話 転校初日――緊張の自己紹介
いよいよ二学期が始まった。朝早くから目が覚めてしまい、僕は制服に着替えて鏡の前に立つ。襟元を整え、ネクタイを締めるが、どうにも手つきがぎこちない。
「大丈夫? ネクタイ上手く結べてる?」
叔母さんが心配そうに声をかける。僕は少し恥ずかしくなりながら、「うん、たぶん大丈夫」と返す。本当は少し曲がっている気がするけど、何度直してもなんかしっくりこない。
朝食を食べている間も、手が震えるほど緊張していて、ご飯があまり喉を通らない。お味噌汁や焼き魚をちびちびと口に運びながら、時計ばかり気にしてしまう。
「バスの時間、間に合う?」
「うん……一本早いのに乗るから大丈夫……」
叔父さんは仕事で先に家を出たらしく、リビングには叔母さんと僕だけがいる。お互いに何を話せばいいのか分からないまま、しんとした空気が流れる。
やがて食器を洗い終わった叔母さんが、「行ってらっしゃい。困ったことがあったらすぐ連絡してね」と言って、僕を玄関まで見送ってくれる。
「……ありがとう、行ってきます」
か細い声で答え、僕は家の門を出る。朝の空気はまだ少し涼しいが、日が昇るにつれて暑くなりそうだ。バス停まで歩く途中、早くも汗がにじみ始める。
バス停には数人の高校生らしき生徒が並んでいる。みんな同じ制服を着ていて、同じ学校の生徒なのだろう。僕は少し離れた場所に立ち、視線をそらす。彼らが楽しそうに会話している声が耳に入るたび、胸がぎゅっと締めつけられる。
ようやくバスが到着し、みんな一斉に乗り込む。僕は最後尾のほうへ行き、できるだけ目立たない席に座る。ブレザーを着ていると、車内の熱気が余計にしんどく感じる。車窓から外の景色を見るが、頭の中は緊張で真っ白だ。
「……始まるんだ」
心の中でつぶやく。次の停留所でも同じ制服の生徒が数人乗ってきて、バスの中はほぼ満席になった。笑い声や雑談の波。僕だけが孤立しているように感じてしまう。
やがて学校の最寄りの停留所に着き、続々と生徒が降りていく。僕も慌てて立ち上がり、流れに身を任せてバスを降りた。そこから学校の正門までは、わずか数分の道のりだ。
校門をくぐると、広い敷地に大きな校舎が目に入る。夏休みが終わったばかりだというのに、すでに多くの生徒が集まっていて、友達同士で再会を喜んだり、委員会の仕事を話し合ったりしているようだ。
僕はまっすぐ職員室へ向かう。あらかじめ佐々木先生から「始業式が始まる前に来てね」と言われていたのだ。途中、廊下ですれ違う生徒たちが僕の制服をちらりと見てくる。見慣れない顔だと思われているのかもしれない。
職員室に入り、受付の先生に声をかけると、すぐに佐々木先生が出てきた。
「おはよう、大友くん。緊張してる?」
「はい……正直、ちょっと……」
僕が言うと、先生は笑いながら「少しだけじゃないでしょ?」と軽くからかってくる。いや、相当だよ、と内心で突っ込むが、声には出さない。
「じゃあ、すぐにクラスに行こうか。朝のホームルームでみんなに紹介するから」
そう言って佐々木先生は職員室を出て、僕を先導する。廊下を歩いていると、すでにチャイムが鳴りそうな雰囲気で、生徒たちの足取りが急にせわしなくなる。
「二年B組は、あちらの棟の二階よ」
先生の言うとおりに階段を上がり、長い廊下を進む。聞いた話では、この校舎は建て替えられたばかりらしく、教室も比較的きれいに整備されているらしい。
やがて見えてきたドアの上には「2-B」と書かれている。ここが、僕がこれからお世話になる教室。心臓の鼓動がさらに速くなっていく。
「よし、行こうか」
佐々木先生がドアを開けると、中ではすでに生徒たちが席についていて、朝のホームルームが始まろうとしていた。みんなの視線が一斉にこちらへ向くのがわかり、僕は一瞬硬直する。
「おはよう、みんな。今日からこのクラスに新しい仲間が加わりますよ」
先生の明るい声が教室に響く。僕はできるだけ平静を装いながら、教壇の前まで歩いていった。
「はい、じゃあ転校生の大友遼くん、自己紹介をお願いね」
先生に振られ、僕は小さく息を吸う。視線が痛いほど突き刺さるが、ここで逃げるわけにはいかない。
「え……あ、あの、大友……遼、です。えっと……転勤が多くて、いろんな所を転校してきました。あんまり上手に話せないけど……よ、よろしくお願いします」
この程度の挨拶で、すでに声が震えているのが自分でもわかる。クラスのあちこちからくすくす笑い声が起きるが、冷笑という感じではなく、むしろ微笑ましいもののようにも聞こえる。
「はい、じゃあ席は……とりあえず後ろの窓際が空いてるから、そこに座ってくれる?」
先生が指差した先には空席が一つだけ。僕は急いでそこに向かい、周囲の視線から逃げるように腰を下ろした。胸の鼓動はまだ収まらず、顔が熱い。
朝のホームルームが続く。担任から夏休み明けの注意点や、新学期の行事予定などが説明される。クラスメイトたちはその話を何気なく聞いているようで、僕にとっては一つ一つが新しい情報だから、必死に黒板をノートに書き写す。
クラスの雰囲気は、そこまでピリピリしていない。どちらかというと穏やかで、みんな談笑しながらホームルームを過ごしている。もしかしたら、このクラスはそんなに悪くないのかもしれない――という期待がほんの少しだけ湧いてくる。
ホームルームが終わり、先生が出て行った後、隣の席の男子が僕に声をかけてきた。
「なあ、大友……だっけ? 俺、芦沢っていうんだ。よろしくな」
スポーツ刈りで背が高く、いかにも運動部って感じの男だ。目がキラキラしていて、一瞬威圧感があるようにも思えるが、笑顔はさわやかで嫌味がない。
「よ、よろしく……」
ぎこちなく会釈すると、芦沢は「そんなにかしこまるなよ」と笑う。
「いきなり転校って大変だよな。何か困ったことあったら言えよ。教科書とかノートとか」
「……あ、うん、ありがとう」
僕が精一杯の返事をすると、今度は前の席の女子が振り返る。髪を肩ぐらいで結んだ、ほんわかした雰囲気の子だ。
「私、岸本っていうの。これからよろしくね。……何か分からないこととかあったら、私でもいいから聞いてね」
その女子――岸本さんはにこやかに微笑んでいる。僕は少し動揺して、返事をつかえさせる。
「え……あ、ありがとう……」
それだけ絞り出すのがやっとだ。すると、彼女は「気にしないで」と小さく笑った。周りにいる他のクラスメイトたちも、ちらちらと僕の様子を見ながら笑みを浮かべているように感じる。
「……けっこう、優しそうな人が多いのかな」
小さくつぶやくと、芦沢が「まぁな、B組は結構まとまってるほうだと思うぜ」と肩をすくめる。
ホームルーム後の移動教室や科目の連絡があわただしく進む中、僕はとにかく教室からはぐれないように必死だった。クラスメイトに連れられ、国語の教室へ移動し、次は数学だ、英語だと教師を移動する。前の学校では教室に先生が来る形式が多かったから、移動教室は少し面食らうが、ここでは当たり前らしい。
昼休みになると、クラスメイトたちは弁当を開き始めたり、購買部へパンを買いに行ったり、あるいは他のクラスの友達と合流したりと、それぞれ自由に動いている。僕はどうしていいか分からず、机の上に用意してきた弁当を置いたまま硬直していた。
(ここで食べていいのかな……? 誰かと一緒に食べるとか、どうすれば……)
とりあえず弁当を開こうとすると、芦沢が「お、飯か? 一緒に食うか?」と声をかけてきた。隣には岸本さんや他の数人の女子もいる。どうやらグループで弁当を囲むらしい。
「いや……俺、いいよ。ちょっと落ち着かなくて……」
思わず断りかけるが、芦沢は「そんな遠慮すんなって」と笑い、岸本さんも「ほらほら、こっちの机くっつけようよ」と手招きしてくる。
(……断ったら悪いよな)
仕方なく、僕は弁当箱を持って彼らの机が寄せられている場所へ移動した。周りには五、六人が集まっていて、みんな和気あいあいとしている。僕はそこに溶け込めず、おとなしく弁当のフタを開ける。
母さんが渡してくれた冷凍食品の唐揚げや卵焼きが詰まっていて、正直そこまで豪華ではない。周りは手作り弁当やサンドイッチなど、いろんなメニューが並んでいる。
「わー、美味しそうじゃん。その卵焼き! 手作り?」
隣の女子が興味津々に覗き込んでくる。僕は少し恥ずかしくなって、「いや、冷凍食品とかが多いよ」と小声で答える。
「冷凍食品でも美味しいよね。私も唐揚げは冷凍よく使う!」
そんな感じで普通に会話を振ってくれることが逆にありがたい。僕は照れ笑いしながら卵焼きを口に入れると、予想以上に味がしっかりしていた。
話題は昨日テレビでやっていたバラエティ番組だったり、夏休み中の部活動の話だったり。みんなが口々に喋るので、僕は相槌を打つので精一杯だ。
「あ、そうだ、大友くんってどこから転校してきたの?」
誰かが唐突にそんな質問をする。僕は飲みかけたお茶を飲み込んでから、少し言いにくそうに答える。
「えっと……前は、隣の県にいたんだけど、その前はこっちの県の北の方とか……いろいろ転々としてて……」
「へえ、じゃあ引っ越しに慣れてる?」
「それが……慣れてるとか、そういうんじゃないんだよね……」
曖昧に口ごもる。転校を繰り返してるからって、社交的になるわけでは全然ない。むしろ、そのたびに消耗してきたのが正直なところだ。
けれど、彼らはそんな僕の表情にも気づいたのか、それ以上深く突っ込むことはしなかった。「そっかー、大変だよな」「でもここはいいとこだよ、気に入ると思うよ」とフォローしてくれる。
(……なんだ、意外と、みんな優しいんだな)
僕は少し肩の力が抜けるのを感じた。こんなふうに輪に入るのは慣れていないけど、拒絶されないだけでも十分ありがたい。
午後の授業は眠気と戦いながら進んでいく。クラスメイトたちが当たり前のように隣同士で話し合ったり、先生に質問したりしているのを見ると、僕にはまだハードルが高いなと思う。それでも、思っていたよりずっと“孤立感”はない。芦沢や岸本さんが気にかけて話しかけてくれるおかげだ。
終業のチャイムが鳴り、ホームルームを経て一日目が終わる。クラスメイトたちは部活へ行く人、友達と遊びに行く人、塾へ行く人など様々だ。僕は特に行くあてがないので、素直に下校することにした。
帰り支度をしていると、岸本さんが声をかけてきた。
「大友くん、一緒に帰る? 方向が同じなら途中まででも」
僕は驚いて、一瞬答えに詰まる。そんなふうに言ってもらえるなんて、まったく想定していなかったから。
「え……あ、でも……」
躊躇していると、岸本さんは「うち、駅のほうまで行くんだけど、大友くんはバスだよね? 途中までなら一緒じゃない?」と提案する。
(どうしよう……一緒に帰って何を話せばいいのか……)
正直、怖さが先に立つ。けど、彼女がせっかく声をかけてくれたんだから断る理由もない。
「……じゃあ、お願い……」
それだけ言うと、岸本さんは「よかった」と柔らかく微笑む。僕は心臓が少し早鐘を打つのを感じた。
下足箱で靴を履き替え、校門を出る。岸本さんは手に通学カバンを下げて、歩幅を僕に合わせてくれている。
「大友くん、クラスで何か困ったことなかった? 初日って、先生からいろいろ説明されるだけでも大変だもんね」
「うん……まあ、確かに戸惑ったけど、みんなが声かけてくれたから……それは助かった……」
口ごもりながら答えていると、岸本さんは「そう、よかった」と安心した表情を見せる。
「うちのクラス、わりと仲がいいって先生も言ってるけど、実際私もそう思うんだ。だから大友くんも、きっとすぐに打ち解けられるんじゃないかな」
(打ち解けられる、か……)
心の中で反芻する。今まで何度も転校を経験したけど、本当に打ち解けられたクラスは一つもなかった。仲間外れやいじめがあったわけじゃない。でも、僕自身が殻に閉じこもってしまうから。
岸本さんはそんな僕の思いなんて知らないだろうに、やさしく微笑んでくれる。
「うん、ありがと……」
それだけ言うのが精一杯だ。
校門からバス停へ向かう道は、それほど長くない。歩いている間に、岸本さんが「そういえば夏休みはどこか行ったの?」とか「ここの地元の名物って食べた?」などと話題を振ってくるが、僕はほとんど上手く答えられないまま、バス停に着いてしまった。
「ここだよね? 大友くんの乗るバスって」
「うん……ありがとう、わざわざ」
「いいのいいの。また明日ね。気をつけて帰ってね」
岸本さんはそう言うと、にこっと笑って手を振り、駅のほうへ歩いて行った。残された僕は、なんとなくその後ろ姿を見つめている。
(……ああいう笑顔って、自然に出るものなんだな)
そう思うと、胸がキュッとなる。僕にはああいう表情はとてもできない。でも、羨ましいと思った。そして、できれば少しだけでも近づきたいとも思った。
バスに揺られ、降りるころにはすっかり夕方になっていた。家に着くと、玄関先でチョコ(隣の家の犬)がまた尻尾を振っている。
「ただいま……」
家の中に入ると、叔母さんが「お帰り、どうだった?」と、期待するような声で迎えてくれる。僕は「えっと……うん、そこそこ……」と曖昧に答えるが、内心は決して悪くない一日だったと思っていた。
まだ誰かと親友になれたわけでもないし、僕の殻が完全に破れたわけでもない。それでも、このクラスの雰囲気なら、もしかしたら変われるかもしれない。ほんの少しだけ、希望が芽生えたような気がした。