第39話 受験と向き合う日々
八月下旬、世間ではまだ夏休み真っ盛りだが、僕ら三年生にとっては受験勉強のピークが早くも訪れようとしている。部活動も“引退”という明確な線はないが、コンクール後に活動が落ち着いたため、頻繁な練習はなくなった。
「俺、夏期講習通うことにした……」
芦沢が放課後の自習室でそう言い、参考書を机に広げる。運動部推薦の道が微妙になってから、彼は一般入試を視野に入れて猛勉強を始めた。僕はその様子を見て刺激を受けるが、まだ「どの大学を本気で目指すのか」が定まらず、予備校を決めあぐねている。
岸本さんは既に「音大も視野に入れながら、一般大学も受ける二刀流」の方向を固め、音楽理論やソルフェージュの個人レッスンを探しているらしい。父親は転職後の研修が終わり、少し家にいる時間が増えたが、まだ経済的には厳しいのかもしれない。それでも、彼女は「奨学金とか使えばいいし、私もバイト頑張る」と言い張る。
「私、部活はもう引退するかも……コンクール終わったし、後輩たちも育ってるし。このままじゃ受験勉強との両立が難しい」
ある日の放課後、彼女がそう打ち明けてきた。僕も内心覚悟はしていたが、いざ本人の口から聞くとショックは大きい。
「そっか……仕方ないよね。俺はどうしよう……秋の行事が残ってるし、顧問からは一応続けてほしいと言われてるけど、受験との兼ね合いが不安だ」
そう呟くと、彼女は「大友くんも無理しなくていいんだよ?」と優しく笑う。
「うちの部は気軽に“引退”が宣言できるわけじゃないけど、三年の夏を越えたら事実上受験モードになる人が大半だし。大友くんが続けるなら応援するけど、勉強との両立はしんどいよ?」
僕は息を飲む。確かに、志望校を真剣に目指すなら、一気に勉強時間を増やさないと合格は厳しい。だけど、吹奏楽を捨てるのは惜しい気もする。何より、岸本さんと一緒に音楽をやる時間が減るのが寂しい。
「……とりあえず考える。顧問や部長とも相談して、進路のことも踏まえて決めるよ」
彼女は「うん、私もそうしてる」と頷く。二人の“恋人関係”は変わらないが、部活という共通のフィールドから離れる日が近づいていると感じる。まるで水面下で運命が少しずつ分岐していくみたいだ。
そんな中、学校で開催される三年生対象の進路説明会(保護者同伴推奨)がやってくる。ブース形式で大学や専門学校のパンフが並び、予備校講師のミニ講演も行われるという。
僕は叔母さんと一緒に参加し、文系大学のコーナーを回ってみる。が、「経済学部」「法学部」「文学部」などを見ても、ピンとこない。吹奏楽サークルが活発かどうかが気になるくらいだ。叔母さんは「まあ、無理に音楽系へ進まなくても、趣味で続けられるからね」と言ってくれるが、僕の中ではどこか物足りなさを覚える。
一方、岸本さんは父親と一緒に回っている姿が見えた。転職後の忙しさも落ち着いたのか、わざわざこの日のために有給を取って来たらしい。二人で音大のブースを訪ねたり、一般大学の音楽サークル情報を尋ねたりしている光景を遠目で見て、僕は胸が熱くなる。
(これが、彼女と父さんが一緒に未来を考えてる瞬間なんだ……)
「大友くん!」と彼女が気づき、父親を連れてこちらへ来る。僕は軽く会釈して「こんにちは」と頭を下げる。叔母さんも「どうも、遼がお世話になってます」と挨拶。
岸本さんの父は、落ち着いた印象の中年男性で、以前の忙しそうなイメージとは違い、スーツ姿で「こちらこそ、娘がいつもお世話になってます」と微笑む。どうやら転職先も決まり、少し表情に余裕があるようだ。
「まだ音大行くか一般大学行くか決めかねてて、いろいろ見て回ってる最中です。ご迷惑かけるかもしれませんが、これからもよろしくお願いしますね、大友くん」
いきなりそんな言葉をもらい、僕は恐縮する。知らないうちに“彼女の彼氏”として認められているのか、単に“友人”と思われているのか、微妙だが、少なくとも嫌われてはいないようだ。叔母さんも「あら、仲が良さそうで、私たちも安心です」と微笑む。
こうして、進路説明会の場で初めて“保護者同士”が対面する形になるが、詳細な会話はなくとも「二人の関係」をそれとなく伝わっている気がする。微妙な空気が流れるが、悪い印象ではない。
説明会が終わったあと、夕方に校門を出るとき、岸本さんが「大友くん、父は先に帰ったから、少しだけ一緒に歩かない?」と誘ってくれる。駅までの道が少し遠回りになるが、夜風を感じながら話をしたいのだという。
ふたり並んで街灯の下を歩き、昼間に聞いた説明会の話を振り返る。
「音大の先生に話を聞いたら、やっぱり受験にかなりの専門知識が必要って言われた。でも父は『無理して今すぐじゃなくても』って言うんだよね。奨学金のこともあるし、働きながら音大に行く手もあるって……」
彼女は戸惑っている。僕も同じだ。「働きながら大学」はかなり大変だろうし、ストレートに行けるならそれが一番楽だけど、家計の問題が大きい。
「そっか……。俺としては、岸本さんが後悔しない道を選んでほしいし、何があっても応援するけど、最終的には自分が決めるしかないよね」
そう言うと、彼女は寂しそうに微笑む。
「うん……ありがとう。大友くんがそう言ってくれるだけで救われる。……でも、大友くんはどうする? 文系大学に行って吹奏楽サークル続けたいとか、そういうイメージある?」
逆に聞かれ、僕も曖昧に頷くしかない。
「本当はそう思ってる。大学で音楽サークル入って、ずっと吹奏楽を趣味としてやれたらいいかなって。ただ、何を専攻するかとか、どう就職につなげるかまで考えてなくて……まだフワフワしてるんだ」
すると彼女は、そっと僕の手を握り、「私たち、似た者同士だね……。焦るけど、まだ答えが出せない」と漏らす。手のひらから伝わる温度が、言葉にならない安堵をもたらしてくれるようだ。
夜道は少し風が冷たくなったが、二人で並んで歩くと心が温かい。いつか別々の大学へ行くことになるかもしれない。でも、いまはこの手を離したくない――そんな思いで胸が満たされる。
時は流れ、七月末から八月にかけて各地で夏祭りや花火大会が開催される。受験生なのでそこまで浮かれるわけにもいかないが、地元の夏祭りだけは「日程が空いていれば行きたい」という人が多い。
僕と岸本さんも、コンクールが終わった後で少し息抜きをしようという話が出て、近所で開かれる夏祭りに行くことになった。浴衣を着るかどうか迷ったが、彼女は「着付けとか大変だし、あまり気合い入れるほどでもないよね」と笑い、普通の夏服で落ち着いた。僕もシャツとジーンズ程度の軽装で臨む。
夜、祭りの会場となる公園に行くと、露店が並んで多くの人が賑わっている。金魚すくいや射的など子供向けのコーナーもあれば、かき氷や焼きそばの匂いが漂い、夏のムード全開だ。
「あ、あれ食べたい……」
彼女が嬉しそうに指差すのはチョコバナナの屋台。僕は「いいよ、買おう」と小銭を探し、二人でチョコバナナを選ぶ。彼女が「私、カラースプレー多めにしてもらおう!」と笑い、店のおじさんが「はいはい、弾けるくらいかけるよ!」と陽気に応じる。
夏祭りの喧騒の中、彼女と並んでチョコバナナにかぶりつく光景が、なんだか愛おしくて仕方ない。受験とか進路の悩みを忘れ、ただこの一瞬を楽しんでいる自分がいる。
夏祭りのクライマックスとして、夜空に花火が打ち上がる時間が来た。公園の一角で木々の間から見える花火は、大規模なものではないが、夜空に咲く光の芸術が観客を魅了する。
僕と岸本さんは人混みを避け、少し離れた暗い場所に腰を下ろし、花火を見上げている。ドーンという音が胸に響き、光が瞬くたびに彼女の横顔が照らされる。
「綺麗だね……」
「うん、本当に……」
しばらく無言で見つめ合う。手を絡めたまま、夜風が汗を冷やしていくのを感じる。彼女がそっと寄り添ってきて、「……大友くん、私、受験が本格化したら、たぶんあまり会えない日も増えるかも……」と寂しそうに呟く。
「うん、わかってる。俺も同じかもしれない。でも……絶対大丈夫だよ。離れたって、毎日LINEできるし、頑張れば時間作れるよ」
そう言いながら、僕も胸が切なくなる。受験期間は想像以上に忙しいと先輩たちからも聞いているし、進路の問題が重ければ重いほど、勉強の優先度が高くなるのは仕方ない。
「もし私が音大受験を本気で目指すなら、夏から専門の先生に習ったり、ソルフェージュの教室行ったり、バイトしてお金貯めたり……時間が全然足りないかも。大友くん、嫌じゃない?」
彼女の不安げな問いに、僕は力強く首を振る。
「嫌なわけない。むしろ、そこまで本気で音楽をやりたいって思ってるのがわかったら、応援したい。俺は俺で文系大学目指して勉強するから、時々お互いを励まし合おうよ」
その言葉に、彼女は目を潤ませて笑う。「ありがと……やっぱり大友くんがいてくれて良かった」
そして花火の一発が大きく炸裂し、夜空に大輪の光を描いた。僕らはそっと唇を重ね、手を強く握り合あった。唇を離し、小さく微笑み合う。打ち上がる花火の音が感情をさらに盛り上げ、同時に儚い切なさを加速させる――この一瞬が二人にとって宝物になると信じながら。




