第37話 夏の兆しとコンクールへの挑戦
高校三年生の春が過ぎ、初夏の匂いが漂い始める頃――校庭の木々は深い緑に覆われ、空気が湿り気を帯びてきた。六月に差しかかり、梅雨入りも近づいている。
吹奏楽部では、夏のコンクールに向けた練習が本格化していた。新入生もある程度落ち着き、初心者組は基礎を学びつつ、経験者組はコンクール曲のパートを練習する。僕と岸本さんは、クラリネットパートリーダー&サブリーダーとして大忙しだ。
「今年は三年生が主力だから、もしかしたらそこそこ上を狙えるかも……」
部長がそう意気込むが、実際は三年生が受験勉強と両立しなきゃならないから、練習時間が思うように取れないのも事実。秋頃には本格的に引退せざるを得ない人も多く、夏のコンクールが“ラストステージ”になる可能性が高いのだ。
(俺たちも、ここで結果を出せたらいいな……)
そう思いつつ、毎日のように楽譜を追いかけている。岸本さんもパート練習で後輩を教えながら、自分の演奏をさらに向上させるために努力を惜しまない。
そんな中、学校側が「三年生向け進路説明会」を開催し、保護者同伴で話を聞きにくるよう促していた。まだ夏休み前ではあるが、受験情報やオープンキャンパスの案内など、本格的に動き出すのがこの時期らしい。
僕は叔母さんに頼み、父母が海外赴任中のため代理参加してもらうことになった。岸本さんは父親が転職後の研修で忙しいらしく、単独参加になるかもしれないと悩んでいた。
放課後の廊下で、彼女が「一緒に参加しよ、当日」と声をかけてくれる。
「うん、叔母さんも参加するから、俺一人になるわけじゃないけど、隣の席に座れたら何か心強いね」
「そうだね。色々情報収集したいし……大学や専門学校のブースがあるらしいから、見て回ろうよ」
こうして、僕らは進路説明会に二人で挑むことを約束する。本来は別々に回って自分に合った資料を集めるのが普通だが、彼女と一緒に行くのは悪くない。お互いの希望もまだ固まっていないし、共有しておけば何か新しい気付きがあるかもしれない。
交際を始めて数ヶ月が経ち、僕らは少しずつ“恋人らしさ”に慣れてきた。朝のホームルーム前に二人で話したり、昼休みに一緒に購買へ行ったり、放課後に教室でノートを見せ合ったり――周りが見れば微笑ましいくらい自然に接している。
クラスメイトも最初は「キャー」「いいなあ!」などと騒いでいたが、もう見慣れたのか、特に何も言わなくなった。芦沢などは「お前らもう夫婦かよ」などと軽口を叩くが、気にするほどではない。
ただ、同じクラスで彼女と過ごすというのは、想像以上に幸せだが、集中力を維持するのが難しいときもある。授業中、ふと視線が合うと、そのままニコッとしてしまい、隣の席の奴に「おいおい、なんで笑ってんだ」とツッコまれる。期末テストが迫ると、さすがに切り替えるが、それでも彼女の存在が大きすぎるのだ。
彼女も「このままだと勉強に身が入らないかも」と言いながら、僕と一緒に図書室で自習しようと提案してきた。二人で勉強すると余計に話してしまいそうだが、それでもスケジュールを区切って「この時間は黙って問題を解く」というルールを作れば何とかなる。
そうやって、日常のあらゆる場面に「彼女」の存在が当たり前になりつつある。僕は一人暮らしとは程遠いが、もし将来大学に進んで一人暮らしを始めても、こんなふうに彼女と関わり続けられたらいいなと淡く夢を抱いてしまう。
六月末から七月にかけて、吹奏楽コンクールの練習がピークに差し掛かる。顧問や部長の指示で休日もほぼ部活に費やす日が増え、デートや二人の時間が一気に減ってしまう。それでも、同じ部活内なので「顔を合わせる機会」自体は多い。
だが、部活動の時はリーダーと副リーダーとして集中しなければならず、いちゃいちゃする暇はない。むしろ後輩指導や譜面チェックに追われ、体力的にもきつい。
ある土曜の夜、部活が終わって校門を出る頃にはもう日が落ちている。僕が疲れた体を引きずるように歩いていると、岸本さんが横に寄ってきて、「大丈夫? 顔色悪いよ」と心配してくれる。
「うーん、さすがに疲れたかも……ごめん、先輩風ふかせる余裕もないや」
苦笑いで返すと、彼女は「そりゃ無理もないよ。私もヘトヘト」と微笑む。周囲には同じようにクタクタの部員がいるが、二人だけ少しペースを落として後れを取り、夜道をゆっくり並んで歩く。
「コンクール、頑張ろうね。でも無理しすぎないで……」
「うん、ありがとう。岸本さんも、自分の体大事にして。家のこともあるし……」
自然と手が触れ合い、僕は躊躇せず彼女の手を握る。夜道で誰に見られても構わない。疲れが吹き飛ぶほど、この瞬間が愛おしい。彼女もぎゅっと握り返し、小さく「大好き」と囁く。胸が温かくなる。
コンクールまであと1ヶ月少し。受験を控えた三年生もいるし、スケジュール調整は大変だが、ここが最後の大舞台かもしれない――そう思うと燃えるような気持ちが湧いてくる。
七月下旬、コンクール直前の合宿や強化練習が組まれ、部員たちは毎日のように音楽室や体育館ステージで演奏づけの日々を送る。汗だくになりながら音を合わせ、顧問の厳しい指導を受け、夜に及ぶと疲労で倒れそうになる。
そんな過酷な状況でも、僕らは“二人で頑張る”という支えがあるから乗り切れている。岸本さんが「大友くん、ちゃんと水分取ってる?」と気遣い、僕も「うん、そっちこそ休めよ」と声をかける。両想いならではの安心感が大きい。
だが、ふとした瞬間に「この先、受験勉強と部活を両立できるのか」「音楽の道を志すなら、もっと個人レッスンを受けなきゃいけないのでは」という不安が押し寄せる。特に、岸本さんは音大も視野に入れているから、コンクール後は本格的に受験モードになる可能性が高い。
(もし、秋のコンクールで引退することになったら、もう少ししか一緒に演奏できない……それでも、今を大切にしたい)




