第31話 送別コンサート本番の朝
冬の寒さがまだ残る三月初旬の朝。学校の昇降口に足を踏み入れると、いつもとは違う空気が漂っている。今日は吹奏楽部の三年生を送り出す“送別コンサート”の本番日だ。土曜日なので授業はないが、部員たちは朝早くから楽器を搬入し、ステージの設営を行っている。
僕は、朝の光を浴びながら音楽室へ向かう。昨夜はほとんど眠れず、緊張と高揚感が入り混じっていた。新しいパート変更を覚えきれるのか、体調不良の先輩は来られるのか――そんな不安を抱えつつ、“終わったら想いを伝える”という決意が頭から離れない。
音楽室のドアを開けると、すでに部長をはじめ数名の先輩が集まっていて、簡易的な打ち合わせをしている。朝日が窓から差し込んで、埃がうっすら舞う中、楽譜や名簿が机に並べられていた。
「お、来たね大友。朝イチで確認だけど……体調不良だった先輩、今日どうやら来られそうだよ」
部長のその言葉に、僕は「本当ですか、よかった!」と胸を撫で下ろす。昨日、急遽追加されたパートをどこまでカバーするか悩んでいたが、当の先輩が復帰するならば分担が楽になる。
「ただ、彼女も万全じゃないかもしれないから、もしものときは大友と岸本が一部フレーズをサポートしてくれ。だからリハは二パターンで回そうと思う」
部長がそう言い、僕は「はい、了解です」と返事をする。ドタバタだが、これが部活動の“生きた”現場なんだろう。
しばらくして音楽室の奥から、岸本亜衣が顔を出す。彼女はクラリネットのケースを抱え、少し寝不足のような顔で「おはよう……」と挨拶をする。
「大友くんも早いね。昨日、眠れた?」
「いや……あんまり。そっちも寝不足?」
「うん、やっぱり緊張しちゃって……でも、やるしかないもんね」
そう言って苦笑する彼女の眼差しは、どこか意志の強さを宿している。僕はつい胸が高鳴り、「頑張ろうね」と声をかけるにとどめる。告白のことを匂わせるのはまだ早い。
こうして、僕らの本番当日が幕を開ける。三年生を送り出すための最後のステージ――彼らにとっては高校生活の集大成であり、僕ら下級生にとっては先輩たちに感謝を伝える場でもある。
午前中は最終リハーサル。体育館とは別に、校舎内にある講堂が会場だ。観客席はそう多くはないが、保護者や部員OB、在校生も来るため、それなりに人が集まる見込みだ。
ステージ上にはパイプ椅子が並べられ、パーカッションや譜面台がセッティングされている。リハーサルでは全曲を通して演奏するわけではなく、各曲の要所を抜粋して音量やバランスを確認する形だ。
「じゃあ、クラリネットセクション、一度登場して」
部長がマイクを通じて呼びかける。僕と岸本さん、そして先輩たちが舞台へ上がり、それぞれの席に腰掛ける。
メインとなる三曲のうち一曲目は、卒業生がそれぞれの想いを乗せて吹く“青春ポップス・メドレー”みたいなアレンジ曲。テンポがやや速くてリズムが複雑だが、演奏効果は高い。二曲目は静かなバラードで、三曲目は部全体でのマーチ曲という構成だ。
「じゃあ一曲目、ランダムな箇所を合わせるよ。三年のソリストが入る部分と、クラリネットが重ねる部分……そこを重点的に」
部長が指示すると、僕は一瞬ひやりとする。先日のパート変更で、裏メロディが増えた箇所がそこに含まれている。まだあまり馴染んでいないが、練習した感覚を信じるしかない。
指揮棒が上がり、先輩たちと一斉に息を入れる。三年生ソリストの華やかな旋律が流れ始め、僕らはそれに合わせて伴奏リズムを刻む――はずが、先輩の息がまだ本調子ではないようで、若干音程が揺れているのが分かる。さらに、その揺れにつられて岸本さんがカバーに回るが、微妙にずれる感じ。
(まずい、どう合わせたらいい……!?)
一瞬焦りかけるものの、岸本さんがこちらをちらっと見て、頷くような仕草をする。僕は息の量を少し減らし、彼女の音を聴いて寄り添う形にする。すると、全体の音が次第にまとまり始めた。三年生ソリストも、心なしか落ち着いてきた。
「OK、一旦ストップ」
部長が手を下げる。練習とはいえ、本番さながらの集中力を使ったため、僕は軽く息を吐く。岸本さんも肩で呼吸をしている。
「いまの合わせで、ソリストがまだ音を安定させられてない分、岸本や大友が支えに回ってくれたのが大きい。ちょっとテンポが走り気味だから、そこは本番も気をつけて」
部長の言葉に、僕らは一斉に「はい」と答える。ドタバタはあるが、何とか形にしていくのが吹奏楽部の強みでもある。
リハーサルが終わると、いよいよ開場の時間。講堂の入り口には保護者や友人、顧問の先生も続々と集まり始め、部員たちは舞台袖や楽屋スペースで着替えや最終調整をする。三年生たちは誰もが緊張と高揚で落ち着かない様子だが、中には受験が終わってホッとしている先輩もいるようだ。
僕は着替えを済ませ、楽器を点検しながら舞台袖をそっと覗く。客席には想像以上の人数が詰めかけていて、ステージのライトが眩しく映っている。保護者らしき姿が多いが、クラスメイトや下級生も少なくない。
(岸本さんの父親は来るのかな……)
ふと頭をよぎる。彼女の父親は仕事が忙しく、なかなか部活の演奏を聴きに来られなかった。以前、文化祭にも来られなかったし、最近は転職を考えてバタバタしていると聞くが、送別コンサートに足を運ぶ可能性はあるのだろうか。
「大友」
不意に肩を叩かれ、振り向くとそこに三年生の先輩が立っていた。以前に体調を崩したクラリネットパートの先輩だ。彼女は少し顔色が悪いが、「ごめんね、私の分まで色々フォローしてもらって」と頭を下げる。
「いえ、とんでもないです。先輩こそ大丈夫ですか?」
「まあ、ギリギリ。最後だし、気合いで吹くよ。大友も焦らずいこうね。岸本がいるから大丈夫だと思うけど、もし私が途中でダウンしたら、任せたよ?」
そう言われ、心臓が高鳴る。大役を任される可能性がまだ残っているわけだ。なんとか先輩に踏ん張ってほしいが、もしもの時はやるしかない。
開演時間になり、部長のステージ挨拶からコンサートが幕を開ける。最初は第一部として、アンサンブルや少人数のバンドが順番に演奏を披露し、会場を温めていく。三年生が中心となったジャズバンドや、打楽器アンサンブルなど、多彩なプログラムが続く。
客席からは割れんばかりの拍手や歓声が上がり、三年生たちも笑顔でパフォーマンスをしている。まだ出番のない僕と岸本さんは舞台袖でその様子を見守りながら、深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせようとしていた。
「ねえ、大友くん、なんだかすごく緊張するね」
「うん、やばい。ステージから見る客席、すごい人数だし……」
小声で交わす言葉に、互いの息遣いが混じる。彼女も顔が赤いように見えるが、それが緊張なのか、こちらに意識を向けているからなのかは分からない。
第一部は約四十分で終わり、いったん休憩が挟まる。その間に舞台転換が行われ、僕らの出演するメインパート――第二部へと流れていく。部長が「よし、いよいよだね。みんな集合して!」と声をかけ、全員がステージ裏に集まる。
いよいよ第二部がスタート。大きな拍手の中、三年生を中心としたフルバンド編成がステージになだれ込む。僕と岸本さんはクラリネットパートの中列に位置し、譜面台を前に構えて腰を下ろす。
部長が指揮台に立ち、軽くマイクを握る。
「皆さん、本日はご来場ありがとうございます。私たち吹奏楽部の三年生にとって、これが高校生活最後のステージとなります。短い時間ですが、精一杯演奏しますので、どうぞ最後までお楽しみください!」
再び拍手が起こり、僕は息を整える。最初の曲――先輩ソリストが入るポップスアレンジ。リハでトラブルが多かった箇所だが、今こそ本番の力を発揮するときだ。
「ワン、ツー、スリー!」
部長のカウント。流れるように音がスタートする。冒頭のリズムは軽快で、三年生のソリストがメロディを華やかに吹き始める――が、ほんの少し音がかすれているのが分かる。でも、会場のお客さんは気づいていないだろう。岸本さんが絶妙にサポートし、僕らも裏メロを補うように音を支える。
テンポはやや速いが、何とか崩れずに進んでいく。先輩ソリストも“気合いで”吹いているのが伝わり、そこに岸本さんや僕が加わって音の厚みを持たせる。客席からは手拍子が起き、一気にステージが盛り上がってきた。
(いける……! うまくハマってる!)
僕は練習以上に集中して指を動かす。見えないコードが舞台上を駆け抜け、先輩の音、岸本さんの音、僕の音が不思議に溶け合う感覚。
そしてサビの終盤、ソリストの音が若干ブレた刹那、岸本さんがすっと前に出るように息を強めて主旋律をフォローする。僕もそれに追随して裏メロをやや控えめにする。短い一瞬だが、まるで息がぴったり合っていた。客席にはミスなど感じさせず、むしろグルーブが増したと錯覚するほどの演奏になった。
最後のコードが決まり、曲が終わると、客席から大きな歓声と拍手が湧き起こる。ソリストの先輩はホッとした表情で「ありがとう」と囁き、岸本さんと僕は微笑みを交わす。
続く二曲目はバラード。三年生たちが一人ひとり想いを込めた音を紡ぎ、会場はしんと静まり返る。僕は裏メロ主体で、岸本さんは安定した音色を全体に届ける役割。気持ちをそっと寄せるように吹き込むと、メロディが柔らかく包み込むように流れる。ステージ上からは見えないが、たぶん客席では涙ぐむ人もいるかもしれない――それほど感情がこもった演奏だ。
最後の三曲目。部全員が参加し、マーチ風の明るい曲で締めくくる。三年生の先輩がスタンドプレーでパフォーマンスしながら笑顔で吹き、客席も手拍子で盛り上がる。僕自身もこの曲は数回ステージで吹いているから慣れており、純粋に楽しむことができた。
フィナーレの和音が鳴り終わると同時に、講堂は割れんばかりの拍手と喝采。三年生の多くが涙ぐんでいて、顧問の先生も目を潤ませながら指揮台に立っている。僕も自然と胸が熱くなり、岸本さんを横目で見ると、彼女も瞳をきらきらさせている。
こうして送別コンサートの演奏パートは大成功で幕を閉じる。三年生の先輩たちがマイクを持って一言ずつ感謝の言葉を述べ、部長や顧問がスピーチをして、最後はステージ上で写真を撮る。僕ら下級生も一緒に並び、フラッシュが焚かれる。
会場のライトが落ち、幕が下りるころ――僕は決意を新たにしていた。
本番が無事に終わったら想いを伝える。
いまこそ、そのときだ。舞台裏の熱気が収まった後で、彼女を呼び出し、ちゃんと気持ちを話そうと心に誓う。




