第17話 吹奏楽部の初ステージ
午前のクラス演劇が成功して、僕たちのクラスメイトはみんな達成感に包まれていた。舞台裏でハイタッチを交わし合いながら、「午後も頑張ろうね!」と意気込んでいる。
僕も嬉しい反面、次の大きな山場が迫っていた。そう、吹奏楽部の午前(というか正午近く)のステージ本番である。今の時刻は11時少し前。あと30分ほどでステージに集合し、リハなしの一発勝負で演奏に臨まなければならない。
(着替える時間……あるかな)
クラス演劇の裏方作業用に着ていた黒いTシャツとジーンズのままで行くのは、部の衣装とは違う。とはいえ、僕が完全に演奏メンバーとして出るわけではないから、部長に相談したところ「暗めの服装でタンバリン叩いてくれればいいよ」と言われている。
それでも少しだけ身なりを整えたいと、急いで更衣室へ向かう。楽屋までは設けられていないので、校舎の一角にあるロッカーに着替えを置いてきていたのだ。
ロッカー前でシャツを着替えていると、同じ吹奏楽部の先輩が声をかけてきた。
「大友、さっき劇に出てたんだろ? お疲れさん。もうすぐだよ、ステージ」
「はい……すぐ行きます」
心臓がバクバクして落ち着かない。タンバリンとシンバルのタイミングをミスったらどうしよう、といった不安が頭から離れない。練習したとはいえ、本番は何が起きるかわからないし、客席には生徒だけでなく、保護者や来賓も多いらしい。
(大丈夫、短い区間しか叩かない。しかもメインは先輩方がカバーしてくれる……)
自分に言い聞かせながら、廊下を小走りで移動する。周囲では模擬店の呼び込みの声や、友人同士の雑談が飛び交っている。祭りの賑わいがさらに緊張感をかきたてるようだ。
吹奏楽部の演奏ステージは、校舎に隣接したホールで行われる。いつも部室で練習している合奏メンバーが総出で楽器を運び込み、本格的な舞台セットを組むわけではないが、照明や観客用の椅子が用意された立派な空間だ。
ステージ袖に入ると、そこには部員たちが一列に並んでチューニングをチェックしたり、衣装や髪型を整えたりする光景が広がっている。バタバタしているが、皆どこか高揚していて、笑顔が絶えない。
「来たな、大友! 間に合った?」
部長がこちらを振り返り、ホッとしたように笑う。僕は小さくうなずいて「はい、ぎりぎりですが……すみません」と頭を下げる。
「いいんだよ、今日は文化祭。お前もクラスの行事があるんだからしゃあない。そうそう、タンバリンとシンバルの位置はここな。譜面台は要らないけど、一応出番のタイミングをメモした紙だけ置いておけよ」
部長がステージ袖の隅を指さす。そこには小太鼓やティンパニなどのパーカッション類が並び、僕が使うシンバルとタンバリンも用意されていた。
「うわ……緊張する……」
「大丈夫、俺たちが盛り上げるから、お前は落ち着いて音を出してくれればいい」
部長はそう言って、ホールから聞こえるMCの声に耳を澄ます。どうやら前のプログラムが終わったらしく、次はいよいよ吹奏楽部が紹介される時間らしい。
「あ、あの……岸本さんは?」
思わず尋ねると、部長は「ああ、岸本は楽器の準備をしてるよ。クラリネットをもう一度調整し直すとかでバタバタしてたから、あとで合流するはず」と言う。
(そうか、彼女も午前の演劇を終えてから、こっちに来るのに余裕はなかっただろう。大変だな……)
そう思いつつ、ひとまず僕はシンバルとタンバリンを手に取って、音を確かめる。シンバルを強く鳴らすと大きな音が響くので、袖でそっと軽く合わせる程度。
(よし、問題なさそう)
「それでは、吹奏楽部の皆さんです。どうぞ!」
ステージMCのアナウンスが響き、客席から拍手が起こる。部員たちが一斉に舞台へ歩み出て、椅子に座り楽器を構える。僕のようなサブパーカッション担当は、舞台後方の立ち位置に並ぶことになっている。
(うわ、客席、すごい人数……)
ライトの下はまぶしく、客席の奥までははっきり見えない。だが、前列に生徒や先生らしき姿が多数いて、後列に保護者や地域の人らしきシルエットが見える。かなり埋まっているみたいだ。
部長が指揮台に立ち、簡単な挨拶をする。「こんにちは、吹奏楽部です。今日は3曲演奏させていただきます。まず1曲目は……」
名前の長い曲が紹介され、静かなイントロが始まる。僕の出番はまだ先だが、楽譜に書かれた小節数をしっかり数えないと、いつタンバリンを叩けばいいかわからなくなる。
(落ち着け……数えろ……)
頭の中でカウントしながら、先輩たちの演奏に耳を傾ける。ホールいっぱいに広がる木管と金管のハーモニーは美しく、一瞬聴き惚れそうになる。だが、うっかりカウントを忘れたらアウトだ。
5小節、6小節……そろそろ……今だ!
僕はタンバリンを構え、決められたリズムを2小節だけ刻む。思いのほか震える手を抑えつつ、しっかりと叩くと、その音が周りの楽器と溶け合って不思議な一体感を感じる。
(よかった、失敗しなかった……)
そして次の曲ではシンバルを鳴らす箇所がある。勢いよく合わせると、「シャーン」という高く鋭い音がホールの奥まで届き、曲を彩るように響く。近くの先輩がにこっと笑って合図してくれたので、どうやらタイミングも悪くないらしい。
最後の曲は、有名な映画音楽のメドレーで、アップテンポな部分でタンバリンが頻繁に入る。慌てずに、しかしリズムよく刻むのは思った以上に神経を使う。しかし、ここまできたらやるだけだ。僕は体全体を動かしながらタンバリンを叩き、気づけば足でリズムを取っていた。
(ああ、楽しいかも……)
自分でも驚くほど、演奏の渦に溶け込んでいる感覚がある。クラリネットの主旋律やトランペットのソロが重なり合う中で、タンバリンの小気味よい音を添える。これは単なる「裏方」ではなく、演奏の一部なんだ――そんな実感が湧いてくる。
フィナーレを迎え、指揮者の部長が手を下ろすと同時に、客席から大きな拍手が沸き上がる。先輩たちが笑顔でお辞儀をし、観客も温かい声援を送ってくれる。僕も最後列で頭を下げながら、胸がいっぱいになるのを感じた。
(サッカー部と同じように、ここにも“仲間”がいるんだ……)
ステージからはぞろぞろと部員がはけていき、一度舞台袖へ戻る。そこでも先輩たちが「大友、ミスしなかったじゃん!」「すげー堂々としてたよ」と声をかけてくれる。
「いえ、もう必死でした……」
そう返しながらも、達成感に包まれているのは確かだ。吹奏楽部に入ってまだ日が浅いのに、こうして本番で役割を与えてもらえたことがありがたい。
部長が「アンコールあるかもだから、しばらく待機な」と言うが、どうやら会場のアナウンスや客席の様子を見ている限り、今回はアンコールまでは準備していないらしい。客席では次のプログラムに移るアナウンスが流れている。
(となると、俺はもうクラスのほうに戻らなきゃ……)
午後2時のクラス演劇2回目の公演に向けて、また作業があるのだ。吹奏楽部の道具を片付けつつも、頭の中では演劇のことを考え始めている。
「あ、そうだ……」
ふと気になり、客席側をそっと覗いてみた。観客がわっと出て行く中に、岸本さんの姿は見当たらない。そうだよな、彼女はクラリネット演奏で舞台に出ていたんだから、今はステージ袖か楽器を片付けてるところだろう。
(一緒に演奏したはずなのに、結局まともに顔を合わせられなかった……)
少しだけ寂しい思いを抱えながら、僕はホールを出る。楽器を部室に運んだら、すぐにクラスの視聴覚室へ向かわないと。
午後1時半前。クラス演劇のメンバーは再び体育館に集合し、2回目の公演に向けて準備を始める。午前と同じ手順だが、細かい段取りを変える必要があるらしく、クラス委員が「今回はカットを少し入れるから、台詞のタイミングに注意して!」と指示を出している。
僕は大道具担当として、午前と同じ流れでいけると思っていたが、細かい変更があると焦る。「マジかよ、またリハしてる時間ないじゃん!」なんて声が飛び交うが、もう本番まであと30分ほどしかない。
ほどなくして岸本さんもやってきた。吹奏楽部での演奏を終え、クラリネットを片付けてから駆けつけたのだろう。息が上がっていて、頬が赤い。
「間に合った……! 午後のステージ、頑張ろうね」
僕は「お疲れさま、吹奏楽どうだった?」と尋ねたくなるが、そんな余裕もない。彼女はさっと衣装に着替え、舞台袖でストレッチを始める。
「大友くん、これ終わったら少し話せるかな……? いや、終わったあとも私、吹奏楽部の後片付け手伝うかもしれないし……」
彼女がちらりと不安そうな目を向けてくる。先ほど言っていた“父親が来るかもしれない”件を、まだ気にしているのだろう。
「もしお父さんが来てたら、案内するよ。俺が気づいたら声かける」
「ありがとう、それ助かる……」
客席を見渡せるのは、僕ら舞台裏スタッフしかいない。彼女はステージ上で演じる立場だから、客席に誰が来ているかはわからない。もしあの姿を父親が見に来ていたなら、その情報を伝えたいと思う。
そうこうしているうちに、客席が再び人で埋まり始めたらしく、司会役が「それでは二年B組の演劇、2回目の公演を始めます!」とアナウンスを入れる。
(よし、行こう……!)
幕が上がり、午前と同じように舞台が展開する。最初は森のシーン、次に街のシーン……。僕は合図を見逃さないように必死でパネルを運び、台詞の流れに集中する。
舞台に立つ岸本さんは相変わらず堂々としていて、ヒロインの台詞をしっかりと響かせている。客席を覗く余裕はないが、ちらりと見えた限りでは観客数も午前より多いかもしれない。
(お父さん、来てるのかな……)
パネルを出し入れするタイミングの合間、わずかに視線を客席へ走らせるが、正直どの人が誰なのかわからない。保護者らしき中年男性は何人かいるが、どれが岸本さんの父親かは判断できない。
やがてクライマックスシーン。岸本さんの熱のこもった演技に、客席は静まり返る。まるで引き込まれるように見入っているらしく、咳ひとつ聞こえない。その時点で、この劇が成功しているのは間違いないと感じた。
最後の台詞が終わると、またしても大きな拍手が沸き起こる。幕が下り、裏方の僕らは互いにうなずき合ってガッツポーズ。役者たちも舞台袖に帰ってきて「やったー!」と大喜びしている。
もちろん岸本さんも晴れやかな表情だ。頬には汗が浮かんでいるが、午前とは違う充実感が漂っている。
「……ありがとう、みんなのおかげだよ」
彼女は声を詰まらせながらそう言う。僕は「お疲れさま!」と駆け寄ってタオルを差し出し、「ねえ、お父さん、いた?」と尋ねる。すると彼女は一瞬はっとして、客席のほうへ目をやるが、すでに幕が下りているから見えない。
「わかんない……外に出てるかな……」
「そっか。じゃあちょっと見てくるよ。もし居たら呼んでくる?」
僕が提案すると、彼女は少し迷った表情をしたが、結局「お願い……」と小さく頷く。
幕が上がって客席が明るくなったところを確認し、僕は舞台袖を抜けて客席側に回る。ここには多くの保護者や生徒が入り乱れていて、知っている顔もちらほら。だが、中年男性が全員スーツというわけでもなく、誰が岸本さんの父親かさっぱり見当がつかない。
「参ったな……」
僕は教室の入り口付近や体育館の出口を回ってみるが、岸本さんに似た面影を探すのは難しい。いま出ていった人の中にもいたのかもしれないし、そもそも来なかったかもしれない。
5分ほど探し回ったが、結局それらしき人は見つけられなかった。落胆する僕の肩を、誰かがぽんと叩く。
「大友……どうだった?」
振り向くと、そこには岸本さん本人が立っていた。もう衣装から着替えて、汗を拭いた後のようだ。ほんの少し落ち着きを取り戻した表情で、でも不安そうに眉を下げている。
「ごめん、それらしき人はいなかったよ。もしかしたら、すでに帰っちゃったか、あるいは来てなかったのかもしれない……」
僕が正直に伝えると、彼女は「そっか……」と小さく息を吐き、肩を落とした。
「まあ、仕方ないか……もしかしたら午後も仕事が入ったのかも……」
そう呟く彼女の横顔が切なく見える。午前も午後も素晴らしい演技を見せてくれたのに、それを一番近くの家族に届けられない苦しさがあるのだろう。
「ごめん、探したんだけど力になれなくて……」
僕が申し訳なさそうに言うと、彼女は首を振る。
「ううん、いいの。ありがとう。……ちょっと落ち込むけど、もう少しだけ学校にいるから、父が来るなら連絡くらいはくれると思うし……」
そう言いながらも、彼女の声はうわずっている。今にも涙が出そうな表情だが、彼女はグッとそれをこらえているように見える。
「そっか……。俺もまだ吹奏楽部の片付けやら打ち上げやらあるし……何かあったら言ってね。いつでも手伝うから」
「うん……ありがとう。大友くんって、やっぱり優しいよね」
先日もそんなふうに言われた気がする。だけど、僕は何もできていない。ただ彼女を案内したり、客席を探してみたり。それだけで“優しい”なんて言われるのは、なんだか申し訳ない気もするけど、それだけ彼女は今心が弱っているのかもしれない。
人波が少し引いてきた体育館で、僕らはしばらく立ち尽くす。文化祭の活気ある音と喧騒は続いているのに、なぜか周囲がしんと静まったように感じる。




