第16話 文化祭の朝、そして開幕
文化祭当日の朝は、空気がひんやりとしているにもかかわらず、どこか胸がそわそわと高揚していた。
僕・大友遼は普段よりもかなり早く家を出て、朝の7時前には学校へ到着する。門をくぐると、すでに他のクラスメイトや部活動の先輩たちが何人も登校していて、あちこちで準備をしているのが見えた。
「おはよう、大友!」
体育館脇で声をかけてきたのはクラス委員の男子。今日はクラス演劇の朝リハがあるため、裏方メンバーは早めに集合して最終確認をする予定だった。
「おはよう。みんな、もう集まってる?」
「おおむね揃ってる。お前が来たらちょうど始められそう」
クラス委員がにっと笑う。朝の光がまだ薄暗い体育館の壁を照らしていて、どこか神聖な雰囲気さえ感じる。この体育館ステージで、僕たち二年B組の演劇が披露されるのだと思うと、緊張が押し寄せてくる。
体育館に入ると、舞台袖や客席にはすでに数名のクラスメイトがいて、背景パネルや小道具の状態を確認している。女子の一人が僕を見つけて「大友くん、ここのネジがちょっと緩んでるから見てもらえる?」と声をかけてきた。
「わかった。すぐ行く」
声の通らない朝の体育館は、しんと静まり返った空間にうっすらと埃の匂いが混じっている。そんな場所で、僕たちだけが早朝作業を進めていると思うと、不思議とやる気が湧いてくる。
ネジをドライバーで締め直し、舞台裏の支柱がぐらつかないかをチェックする。こういう裏方の作業もずいぶん慣れたものだ。夏休み明けからいろいろあったけど、今ここに至るまでのすべてが、「ああ、本番なんだな」と胸に迫ってくる。
「……よし、これで大丈夫そう」
舞台裏の暗がりで一人呟く。外では他のクラスが模擬店の準備をしたり、ステージ発表の飾りつけをしたりしているはずだ。僕らがこの舞台で劇をするのは、午前中に一回、午後にもう一回の計二回。
(うまくいくといいな……)
準備が一段落すると、クラスメイトたちと打ち合わせのため舞台袖へ集まる。そこへ、少し遅れて駆け込んできたのが岸本さんだった。
「みんな、おはよう! ごめん、吹奏楽部の朝練があったから遅れちゃった」
僕は思わず顔をほころばせる。彼女も忙しい中、ヒロイン役として劇に出るため、朝から吹奏楽部とクラスの両方を回っているのだ。
「おはよう、岸本さん。大丈夫? 顔色ちょっと悪いような……」
「え、そ、そうかな……自覚はないんだけど」
確かに、少し疲労の色が見える。けれど、いつものように彼女は笑顔で誤魔化す。
「平気平気。本番は気合いで乗り切るから」
とはいえ、彼女の家庭事情や部活の忙しさを考えると、あまり無理してほしくないという気持ちが湧いてくる。しかし、彼女はいつだって“やるしかない”と前を向いているからこそ、周りを引っ張ってこられたのだろう。
クラス委員が「よし、簡単に流れを確認しよう」と号令をかける。朝リハといっても全員のセリフ合わせをする余裕はないので、舞台裏の動線や小道具の位置だけをざっと再チェックする程度にとどまる。
「じゃあ、本番まで各自しっかり準備を! 最初の出番は10時半だから、10時にはここに集合な!」
クラス委員がそう締めくくり、みんなが緊張した表情で「オーッ!」と返事をする。
散会する際、岸本さんが僕の腕をそっと引いて、「あとでちょっと話があるんだけど……」と小声で告げてきた。何だろうと思いつつも、「うん、わかった」と頷く。今はお互いやるべきことが多いから、後回しになるが、その言葉が妙に気にかかる。
朝リハが終わると、僕はすぐに吹奏楽部の集合場所へ向かった。部室では楽器のケースがずらりと並び、先輩たちが衣装代わりの黒いズボンとシャツをチェックしている。僕は“サブパーカッション担当”として、タンバリンやシンバルなどを数える役目もある。
「今日は一日、忙しくなるね。大友くんも、クラスの演劇があるんでしょ? スケジュール大丈夫?」
先輩の鈴木さんが心配そうに声をかける。
「はい、合間をぬって演劇のほうにも行くつもりです……すみません、なんか勝手で」
「いえいえ、文化祭なんてそんなもんだよ。お祭りなんだから、いろんなことを経験していいと思う。まあでも、出番の時間だけは間違えないでね?」
そう言われて、僕は苦笑する。本番は吹奏楽部の演奏が午前11時半と午後3時半に予定されており、クラス演劇が午前10時半と午後2時にある。時間配分としてはちょうど微妙に被らないが、着替えや移動を考えるとギリギリだ。
(絶対成功させたい……)
覚悟を決めて、準備にとりかかる。僕の担当するタンバリンや小太鼓は、曲の一部だけで出番が来るのだが、そこでミスをすると演奏全体に影響が出るかもしれないという重圧を感じる。
「本番直前は音出しができる場所が限られるから、朝のうちにリハやっとこうか」
部長がそう提案し、みんなでステージ裏を使っての軽いリハを行う。サックスやトランペットなどの派手な音が廊下まで響き、他クラスの生徒が「わあ、吹奏楽部カッコいい!」と足を止めて見ていく。
(少しでも役に立ちたい……)
僕はシンバルを控えめに合わせながら、曲の流れを頭に刻み込む。皆が本番モードになってきたのが肌で感じられ、知らぬ間に汗がにじむ。
ひと段落し、少し早めに昼食をとろうかという時間帯。校内はすでに多くの保護者や来客で賑わい始め、廊下や教室は人の往来が激しくなっていた。模擬店や展示コーナーに人が群がり、そこかしこから笑い声や呼び込みの声が聞こえる。
僕は人気の少ない中庭の片隅で手早く弁当を食べていると、岸本さんが息を切らせてやってきた。
「やっと見つけた……! さっきは話しかけるタイミングなくて」
「お疲れ。どうしたの?」
「うん……その、あのね……」
彼女は周囲を気にするようにキョロキョロと見回す。人通りが少ないとはいえ、文化祭当日だから誰が通りかかるかわからない。彼女は少し声を落として話し始めた。
「実は、うちの父が今日の午後、来てくれるかもしれなくて……」
「え、それは……いいことなんじゃない?」
僕は素直にそう言うが、彼女の表情は複雑だ。
「うん、そうなんだけど、ちゃんと来るかどうかもわからないし、来たところで、私が演劇でヒロインをやってるとこを見てどう思うかなって……。なんだか考えちゃってさ」
彼女の家では、父親が忙しく疲れていて、あまりコミュニケーションが取れていないと聞いている。それが少し落ち着いて、娘の文化祭を見に行こうと思ってくれたのなら、嬉しい話のはずだ。
しかし、岸本さんの不安もわかる。親に“頑張っている姿”を見せたい反面、微妙に気恥ずかしさや戸惑いもあるのだろう。
「……もし来られたら、一番かっこいい姿を見せればいいんじゃないかな。ヒロインとしてステージに立つ姿。きっと喜ぶよ」
そう励ますと、彼女は少しだけ目を潤ませて頷く。
「うん……ありがとう、そうだね。私、あんまり話せてないけど、見てほしい気持ちもあるから……」
少し肩の力が抜けたように見える彼女。午後の演劇は2時から。吹奏楽部の演奏は3時半からだから、もし岸本さんの父親が演劇の時間に間に合うなら、その姿をしっかりと焼き付けて帰ってほしい――僕もそう思った。
「お互い、頑張ろう。午前の演劇もあるし、俺は11時半の吹奏楽も……」
「うん、負けないよ。大友くんも失敗しないようにね」
彼女が少しだけ笑ってくれて、僕の胸はほんのりと熱くなる。もともと人付き合いが苦手だった僕が、いつの間にかこんなにも彼女に気持ちを揺さぶられていることが、今でも信じられない。
そして、時刻は10時過ぎ。
僕はクラスの控室(視聴覚室を臨時で借りたもの)に集まって、演劇の最終チェックを行う。脚本担当の女子が「大友くん、パネルの角度は昨日のままでいいよね?」と確認してきたり、ほかの男子が「出番のタイミングのとき、こっちから照明を当てるよ」と言ってきたり、みんな真剣な表情だ。
ヒロイン役の岸本さんも、シンプルだけど衣装を身にまとい、台詞を口の中でリハしている。軽くストレッチをしている彼女を見て、緊張しているんだろうなと感じる。
クラス委員が「10時半開演、あと20分くらいだぞ。全員ステージ袖へ移動しよう!」と声を上げると、僕らは一斉に立ち上がり、荷物を手に体育館へ向かう。
体育館の入口付近には、すでにクラスの友達や他学年の生徒、さらには保護者らしき大人が集まり始めていた。みんなチラシを手に「この演劇、面白そうだよ」と話し合っているのが聞こえる。
(うわ、結構人多いな……)
僕は舞台袖にまわり、ひそかに客席をのぞいてみる。まだ全部が埋まっているわけではないけれど、前のほうの座席には何人も腰掛けていて、わくわくした様子だ。
(よし、やるしかない……)
大道具チームの男子と視線を交わし、互いに「頑張ろうな」と小声で言う。これまでの準備を無駄にしないよう、完璧な裏方仕事をしたい。
やがて、場内アナウンスが入り、幕が上がる。
客席からは拍手が沸き起こり、最初はクラス委員がナレーション役で演劇の導入を語る。静かに照明が落とされ、森のシーンを表現する背景パネルをセットし、役者たちが舞台に登場する。
舞台袖で控える僕は、出番を間違えないように視線をパネルに注ぐ。役者が次のシーンへ移る合図を言えば、すぐに背景を変えに行かなければならない。台詞と動きがずれたらすべてが台無しだ。
最初のシーンが終わり、音楽が少し変わる。合図だ。
「いまだ……!」
僕ら大道具担当は素早くパネルを引き下げ、街のシーン用のパネルを押し込み、テープで位置を固定する。別のメンバーが小物のテーブルや椅子を置き、暗転が明転に切り替わる瞬間にすべてが完了。ここが成功すると、客席から「おお……」という感嘆の声が上がるのがたまらなく嬉しい。
(よし、順調だ……)
肝心の岸本さんは、舞台中央で堂々と演技をしている。多少固い表情は見えるが、しっかりと通る声で台詞を言い、相手役との掛け合いもしっかり成立している。客席も静かに聞き入っている様子だ。
(すげえ……本当に堂々としてる……)
スポットライトに照らされた彼女は、美しいというよりかっこいいと言ったほうが近いかもしれない。汗がにじんでいるのがわかるけど、それさえも彼女の努力を物語っているように思う。
「……ありがとう、あなたがいてくれたから……私は――」
最後のシーンで、彼女が台詞を言い終わると同時に舞台が暗転し、間髪入れずにエンディングの音楽が流れる。僕らが裏手で拍手の準備をしていると、客席から先に大きな拍手と歓声が上がった。
「うおおおー!」
「すごい、面白かった!」
幕が下り、役者たちがぞろぞろと捌けてくる。岸本さんは息を切らしながら、僕らのもとへ戻ってきて、「やった……!」と小さくガッツポーズをする。僕も思わず「よかったな、完璧だったよ!」と手を叩く。まわりのクラスメイトも笑顔で抱き合うように喜んでいる。
こうして、二年B組最初の公演は無事成功を収めたのだった。




