第1話 新しい土地と古い家
引っ越しのトラックが家の前に停まったのは、まだ薄暗い朝の六時だった。
僕は玄関先に立ちすくんだまま、冷たい空気を肌で感じている。段ボール箱がいくつも降ろされ、トラックの運転手さんが無愛想な顔で確認のハンコを求めてきた。
「ここでいいんだよね? 荷受けのサインもらえる?」
僕はぎこちなくペンを持ち、名前を書き込む。書きなれない字が滲んで、まるで今の自分の心境を表しているようだった。
新しい土地――といっても、都会というわけではない。どちらかと言えば田舎寄りの、海も山も遠くに見えるような小さな町。
「大丈夫? まだ顔が真っ青だよ」
後ろから声をかけてくるのは、叔父さんだ。僕よりもだいぶ年上に見えるのは当然で、母さんの十歳年下の弟。僕の父母が海外転勤になってしまって、それで僕だけがこの町に住んでいる叔父さんの家に居候することになった。
「……大丈夫。荷物、リビングに運んだらいい?」
「そうだね、二階の部屋が君の部屋になるし、とりあえず必要なものだけ二階へ持って行こう。細かい荷ほどきは後でゆっくりやればいいさ」
叔父さんはそう言って、僕の頭をくしゃっと撫でようとした。僕は反射的に肩をすくめて、彼の手を避けてしまう。
「あ、ゴメン……そういうの嫌いだったよね」
「いや……うん、俺がちょっと驚いただけ」
子どものころ、叔父さんはよくこんなふうに頭を撫でてきた。でも、もう高校二年生になる僕には、そのスキンシップは恥ずかしくもあり、どこかくすぐったくもある。
段ボール箱を両手に抱えて、玄関から廊下を進む。古い木造の家らしく、床が軋む音がする。廊下には今ではあまり見かけない掛け時計があり、柱には誰かの背丈を測った跡が残っていた。たぶん従姉妹たちのものだろう。
「ほこりっぽいかもしれないから、あとで掃除しよう。まあ、適当にくつろいで」
叔父さんの声を背中に聞きながら、僕は二階へと続く急な階段をのぼる。古い家の独特な匂いがする。前に住んでいたアパートとは雰囲気がまるで違っていて、ここが“僕の新しい居場所”だと思うと、正直不安が大きい。
――本当に、ここでやり直せるんだろうか。
部屋に入ると、やはり畳敷きで、壁は黄ばんだ和紙のまま。窓の外にはごちゃごちゃと家々が並ぶというよりは、空き地やら、低い家並が遠くまで見渡せる。少し晴れ間が覗いてきて、光の筋が畳を照らしていた。
壁にはクモの巣が張っていて、床には薄い埃が積もっている。それでも自分だけの部屋っていうのは悪くない。ここでこれから生活して、高校に通う。
「なんだかんだ言っても、思ったよりは広い……か」
段ボールを床に置き、大きくため息をつく。両親には悪いけど、この家で暮らすのはまだピンとこない。ただ、これも自分のせいだ。何もかもから逃げたいって自分が願った結果が、いままさに僕の目の前にある光景だから。
前の高校で、クラスに友達なんてほとんどいなかった。中学生時代も同じだ。何度も転校を繰り返してきたせいで、常に“クラスの中で浮いている”感覚が拭えなかった。それに加えて僕自身がコミュニケーションを苦手としているから、余計に打ち解けられない。
今回の転居は両親の海外赴任が決定打だったけど、もともと「新しい環境でやり直したい」と思っていたのも確かだ。だけど、この内向的な性格とネガティブ思考は、土地を変えたくらいじゃそう簡単に変わらない。
「はあ……」
大きく息を吐くと同時に、玄関のチャイムが鳴る音がかすかに聞こえた。どうやら新しく届いた郵便や宅配便かもしれない。僕はそっと荷物を置いて、階段を下りることにした。
階段を降りる途中、リビングから叔父さんと叔母さんの話し声が耳に入る。
「遼くん、まだ顔色が冴えないわね……。最初は慣れないだろうけど、少しずつ生活に慣れてくれたらいいんだけど」
「そうだな。なにしろあんなに転校を繰り返してきたから、人付き合いも億劫になるのも無理はないよ。俺たちが暖かく見守ってやれば、そのうち安心してくれるよ」
――僕のことをそんなふうに心配してくれてるなんて。胸が少し痛くなる。二人とも気さくな人柄で、僕にとってはありがたい存在だ。けれど、どんなに優しくされても、僕はそれにどう反応していいのか、いまだによく分からない。
こうして始まった新生活の一日目は、荷解きや部屋の掃除、夕食の手伝いなどをしているうちにあっという間に過ぎていった。夜、布団を敷いて横になると、天井の隅っこで小さい虫が動いているのが見えた。
「いつかこの部屋にも慣れるのかな……」
明日はいよいよ転校手続きで、次の高校に顔を出す。それを考えるだけで胃が痛くなる。でも、ここで逃げ出したら本当に何も変わらない。せめて、自分を変えたいという願いだけは、どこかに持ち続けていたい。
ギシ、と古い家独特のきしむ音が響く。風が吹き込んで、障子がぱたぱたと揺れる。なんとも落ち着かない夜だが、僕にはここしか行き場所がない。
薄暗い部屋の天井を見つめながら、僕は瞼を閉じる。人付き合いが苦手な自分がこの町でどう変わるのか、あるいは変われないのか――答えが出るのは、まだまだ先だろう。
こうして始まった僕の新しい生活。朝方までうまく眠れなかったせいか、翌朝は頭がぼーっとしている。けれど今日は区役所や学校へ出向いての手続きがある。やることは多い。
僕が朝食の食卓に着くと、叔母さんが「よく眠れた?」と気遣ってくれた。
「ま、まあそこそこ……」
「そっか。今日は忙しいだろうけど、しっかりご飯食べてね。商店街に出るついでに、君が通う予定の高校も見に行くんだよね?」
「うん……一応、手続きだけは今日済ませるって話だし。制服も採寸しなくちゃならないし……」
そう答えながら、焼き魚を少しだけつつく。美味しいのに、食が進まないのは緊張のせいだろうか。
朝食を終え、叔父さんの車に乗り込み、僕たちは町の中心部へ向かった。家の周辺はわりと古い住宅地で、道がやや狭く入り組んでいるけれど、十分ほど走ると広い道路に出て、商店街やらスーパーが並ぶエリアにたどり着く。
大きな川が町を縦断するように流れていて、その橋を渡ると役所や学校が集中している区域に入るらしい。車の窓から景色を眺めると、時折、山の稜線が見えたり、遠くに海の光がちらっと映ったりして、不思議な気分になる。
「この辺りが町の中心かな。君の高校はもう少し先だね」
車を運転する叔父さんの横顔を見ながら、僕は黙って頷く。どこかのどかな風景が広がっていて、ゆっくり時間が流れているように思える。しかし僕の心は焦りと不安でいっぱいだ。
区役所に立ち寄って住民票の移動などを済ませ、それから学校へ向かう。新しい高校は、県立の共学校で、わりと歴史があるらしい。正門にはなかなか立派な校名の看板があり、生徒らしき姿がちらほら。まだ夏休み中の時期なので、部活動をやっているのだろうか。
「ここか……」
門の前で車を降り、しばし校舎を見上げる。三階建ての校舎が二棟、グラウンドには野球部かサッカー部が練習している様子が見える。
受付を済ませ、職員室に行くと、髪を後ろで束ねた女性の先生が出迎えてくれた。
「はじめまして。私、この学校で二年生の担任をしている佐々木です。今日はわざわざありがとう」
この人が僕の担任になるのだろうか。穏やかな表情が印象的だ。僕が何を言うか迷っているうちに、先生のほうがにこやかに続ける。
「教頭先生からお話を伺ってます。お引っ越しが多かったそうですね。でも、ここの学校もすぐに慣れますよ。転校生は珍しいけど、みんな面倒見が良いから」
僕は「あ……はい」と答えるだけで精一杯だ。何を言っても上滑りしそうで、どうにもぎこちない。佐々木先生はそんな僕の態度を気にする様子もなく、書類をいくつか確認しながら、時間割やクラスのことを説明してくれた。
そして、制服の業者に電話して採寸の日取りを伝えてくれる。僕はカタログを眺めて、「ああ、こんな制服になるのか」とぼんやり考える。男子のブレザータイプらしい。僕はブレザーも学ランもあまりこだわりがないけど、どうせなら無難なほうがいいと思っていた。
「では、新学期から二年のB組に入ることになります。夏休み明けまでまだ少し時間があるから、その間に必要なものをそろえて準備しておいてね」
佐々木先生はにっこり笑う。「ああ、いい先生そうだな」と感じる反面、僕の不安は拭えない。結局のところ、クラスメイトとうまくやれるかどうかが一番の問題なのだ。先生がどんなに優しくても、自分自身が変わらないと、何も変わらない。
こうして、あっけなく転校手続きは終わってしまった。帰りの車内、叔父さんは「大丈夫そうか?」と一瞬だけ訊いてきた。僕は「うん」と返す。正直言うと全然大丈夫じゃないけど、ここで弱音を吐いても仕方ない。
午後は制服の採寸や教科書の注文をして、夕方までバタバタと動き回る。夕暮れ時、車で帰宅するころには疲れ果てて、僕は助手席でぐったりとしていた。
「今日は忙しかったね。夕飯は好きなもの食べようか。ハンバーグにする?」
運転席の叔父さんが提案してくれる。僕は「何でもいいよ」と曖昧に答える。すると、助手席のドアポケットに叔父さんがコトリと何か置いた。振り向くと、小さなペットボトルのコーヒーがある。
「コンビニで買ったんだ。すこし甘いけど、疲れたときはいいだろ」
「……ありがとう」
僕はそれを手に取って、小さく一口飲む。甘さがじわっと口の中に広がって、喉を潤す。ほんの少しだけ、気持ちが楽になるような気がした。
家に戻ると、玄関の前で近所の犬が吠えていた。小型犬らしいが、やたら人懐っこく、僕が手を伸ばすと鼻先をクンクンと嗅いでくる。
「こらこら、遼くんに迷惑かけちゃだめだよ」
隣の家からおじいさんが出てきて、その犬を抱きかかえる。「すまんねえ、うちのチョコが吠えちゃって」なんて言いながら、僕に会釈をしてくれた。
「い、いえ……大丈夫です」
僕も慌ててお辞儀をする。こういう近所付き合いが、この町ではきっと大事なんだろう。普段から挨拶を交わし合い、ちょっとした会話をして――そんなふうにして人間関係を築いていくのかもしれない。
僕は上手くできるかな。転校先のクラスどころか、近所付き合いもままならない不器用な自分を思うと、気が重くなるばかりだ。
夕飯は本当にハンバーグだった。叔母さんがこねてくれた手作りで、肉汁がじゅわっと溢れる。美味しいと感じたが、なぜか心から「美味しいです」と言えない。
言おうと思えば言えるのに、口を開いた瞬間に「あ……」と躊躇してしまう。そんな僕を察してか、叔母さんは「口に合うといいけど……」とだけ呟いて、あとは何も聞いてこない。こういう優しさが、逆に胸に突き刺さる。
食後、僕はさっさと部屋に引きこもった。やることは山ほどあるはずなのに、ただ畳の上に寝転がって天井を見つめる。ときおり床下からミシッという音がするたびに、ここが知らない土地なんだと実感する。
窓を開けると、涼しい風が入ってきて、遠くで虫の声が聞こえた。夏の終わりが近いとはいえ、まだ夜の空気に季節の余韻が残っている。
「……自分を変えられるのか、俺……」
思わず独り言が漏れる。高校は休みが明けるまでまだ少し時間があるが、あっという間に初登校の日が来るだろう。そのとき、ちゃんとクラスに馴染めるのか――考えるだけで胃がキリキリする。
でも、ここに来た目的は、自分を変えることだ。ずっと逃げてばかりだった過去を断ち切りたい。そんな気持ちがあるからこそ、この町への引っ越しを受け入れたんだ。
「やらなきゃ、な……」
そう言い聞かせて、畳の上で仰向けになる。妙に肩がこるのは、慣れない環境のせいか、それとも自分の緊張のせいなのか。
その夜はまたなかなか寝つけず、結果的に朝方までぼんやりしていた。