眠りに落ちる
全てのラミアが動きを止めたのを確認してマリーたちが洞窟の外に出たのは、太陽が天頂に登ろうかというタイミングだった。洞窟に入ったのが前日の夕方なので、十二時間以上ラミアと戦い続けていたことになる。
「だいぶ片付いたようね」
岩山を飛ぶラミアがまったくいないことを確認したマリーの声に覇気はない。
「少し休みませんか」
疲れた笑顔で言うイクスに異を唱える者はいなかった。彼の矢筒はすっかり空になり、最後は弓で自分の魔力を飛ばしながら戦っていた。その分魔力の消耗は多かったはずだ。
ただ、洞窟の入り口で休息をとれば、敵と鉢合わせる危険がある。
一行は重い足を引きずりながら移動し、適度な岩の割れ目にその身を押し込んだ。奥行きはあまりないが、四人が身を横たえるには十分だ。
「白の守りをかわるわ、オムサナ」
「それはちょっと助かるー」
オムサナはマリーの提案に間延びした明るい声で応えつつも、顔には隠しきれない疲労が浮かんでいる。普段の彼女は十代後半くらいに見えるが、今は動かない表情筋と顔にかかる陰でひどく年老いて見えた。
マリーが白の守りを引き継ぎ、イクスとオムサナが眠りに落ちた。
マリーの魔力も残り少なかったが、二人の消耗具合を見れば先に休むとは言いがたい。
外から侵入してくるラミアが途切れれば休めたマリーと違い、イクスとオムサナはずっと戦い続けていたのだから。
「紅茶をどうぞ。眠気覚ましになればと、少し濃いめに入れました」
寝ずに守りを維持するマリーのために、オルトが紅茶を差し出した。
魔法で圧縮して持ち込んだティーセットは金属製。マリーがティーセットと呼んでいるだけで、やかんとマグカップと言った方がふさわしい見た目をしている。
「ありがとう」
マリーはカップを受け取るために両手を差し出した。
そこにオルトがさらにカップを近づけて――。
「すみませんっ!」
危うくマリーの手に紅茶をこぼしかけて、オルトは慌ててあとずさった。
その勢いでオルト自身が熱い紅茶をかぶることになったが、分厚い上着のおかげでやけどには至らなかったようだ。
カツンと高い音を立てて、金属製のマグカップが岩の床に落ちた。
「オルト! 大丈夫!?」
「あ、あの、すみません。まだ、体の震えが――」
疲労を忘れるほどすばやく駆け寄ったマリーの目の前で、オルトは気恥ずかしそうに笑った。
その目からこぼれる透明な雫――。
「あっ……」
それは、彼自身にも予想外の出来事だったようで、オルトは突然流れはじめた涙を慌てて騎士装束の袖で拭っている。
「すみません、すみません!」
彼は謝罪の言葉を繰り返した。
「気にしないで。無理もないわ」
初めて体験した恐怖とそれを乗り越えた安心感によるものか。制御できない感情が涙としてあふれ出しているに違いない。
マリーは荷物の中からタオルを取り出すと、背伸びしてオルトの頭にそれをかけた。彼の顔が隠れるように。
自らの手で彼の濡れた服や顔を拭いてあげたい気持ちももちろんある。
しかし、マリーはあえて世話を焼かずに無視をしようと決めた。
マリーがオルトの立場なら、あまり見られたくないし、そっとしておいてほしいだろうから。これは推測ではなく、過去の師子王の経験から導き出した答えだ。
「……ありがとうございます」
オルトの消え入りそうな声が聞こえても、マリーは振り返らなかった。
オルトが数歩後ずさる気配を感じる。
マリーはそれとは逆方向に前進した。
目の前には毛布に包まったオムサナと片膝をついて座るイクス。よほど疲労が溜まっていたのかどちらも目を閉じて動かない。
マミクロはイクスの肩で毛玉になり、テティはインディゴの翼の下で丸くなっている。
インディゴは起きていたが、いつにもましてぼんやりした眠そうな瞳のまま金属製のティーポット、もといやかんを細いくちばしで力なくつついていた。
どうやらまだ中身が残っているらしい。
そっと取り上げると、ちゃぽんと言う音と共に確かな重みを感じた。マリーに紅茶を渡したあと、オルト自身とインディゴで分けて飲むために残していたのだろう。
マリーは三つのカップに冷めはじめた紅茶を注いだ。
「一つはあなたの分。もう一つはあなたのご主人様の分よ」
自分用以外の二つを指さしてインディゴに言うと、インディゴはさっそく片方のカップにくちばしを突っ込んだ。
「グエッ」
「そうよね。眠気覚ましだから、少し濃いの」
「ゲッゲッ」
「それともお礼を言ってくれているのかしら?」
「ゲッ」
インディゴが言いたい内容は全く理解できないものの、嫌な会話ではなかった。
「テティを守ってくれてありがとね」
マリーはインディゴの大きな翼の下で眠る子猫の背をそっと撫でたあと、その場から移動することにした。ここはまだオルトに近いから。
狭い空間の最奥に腰を落ち着けながら少年騎士を盗み見ると、彼は膝を抱いて座っていた。
――子どもには、酷な経験よね。
マリーは冷めた紅茶に口をつけながら考えた。
様々なものを見てきたマリーでさえ、おぞましさを感じる光景だった。オルトがショックを受けるのも仕方ない。
彼の顔はタオルにうずめられて確認できなかったものの、まだ肩が小さく震えているように見えた。
――オルトは、私についてきたことを後悔しているかしら?
マリーの視線の端で、インディゴがオルト用と言われたマグカップを自分のあるじへ向かって押し出している。中身をこぼさないよう、彼なりに丁寧な動作を心がけているようだ。
離宮を出る前。危険でもマリーと共に行きたいと言ったオルトの顔と言葉が思い出される。あの時は、オルトよりもマリーの方が戸惑っていて、彼は毅然としていた。
――彼なら、大丈夫だと信じたいけれど。
マリーは祈るようにカップを持った手を自分の胸に押し当てた。
次に、マリーの思考は自分自身のことへと向かっていく。
――……何もできなかったわね。イクス・クロスとオムサナとマミクロが全部戦ってくれた。
マリーの視線の先にいるのは、インディゴの翼の下で眠るテティだ。
自分は何もできない子猫姫なのだと、思い知らされた。
知識と記憶があっても、それを人々に納得させるためにはイクスやオムサナの地位を借りる必要がある。強い魔法が使えるわけでもない。
今回はイクスとオムサナが戦闘に長けていたからなんとかなっただけで、マリーひとりでは何もできなかった。
――私はまだ平和ボケしているのかも。
以前オムサナが言っていたではないか。レオ=デルソル南部を取り戻すなら、騎士団を編成する必要があると。お飾り王女にそんな権力はないと断ったが、安全かつ確実に行動を起こすなら、時間をかけて人を集めるべきだった。
「ごめんなさい、オルト。私のわがままで、あなたやみんなを危険に晒してしまったわ」
今言うべきことではないと感じつつも、マリーは謝罪の言葉を漏らさずにはいられなかった。自分がもっと大人なら我慢できたのだろうか。それは十歳のマリーにはわからない。
オルトは何も答えなかった。
わずかに視線を上げて確認すると、彼はインディゴから受け取ったマグカップを見ながらじっとしていた。
まだタオルを被っているので、表情はわからない。
彼の涙は止まったのだろうか。
考え事をしているのか、眠りにおちようとしているのか。
どちらにしても、マリーは再び彼に声をかけることなく視線をあたりの風景に向けた。
「白の守り」のベールの先に見える空はマリーの目のように青く澄み渡り、真っ黒だったアンポルトの岩肌は、淡いグレー程度にまで神聖な輝きを取り戻している。
――この勝利は、私の力じゃない……。
強く握りしめられた金属製のカップが、マリーの手の中できゅっと音を立てた。




