想定外のビジョン
「……一度、引きますか」
冷静にそう提案したのはイクスだった。
「戦えないこともないけど、それも良し」
うなずくオムサナの目には、珍しく好奇心の色がない。
イクス、オムサナ、オルトの三人が、判断を待つために地面に座り込んだままのマリーを見た。
「……ダメよ」
その声はマリーのものではなかった。意外な反論に、マリーは胸の中の子猫を見た。
「ダメ……」
テティが小さな頭を振っている。両目を固く閉じ、鼻の頭からしっぽの先まですべての毛を逆立てながらも、その主張は強い。
「テティ?」
その瞬間、マリーの中に映像が流れ込んできた。
すり鉢状の穴の底でうごめく無数のラミア。それを見下ろす人影。
しかし、その人物はマリーたちではない。
黒い髪に青白い肌。そして、見るだけで冷や汗が噴き出すような禍々しい黒の魔力。男とも女ともわからない人影は右腕を伸ばし、細く長い指を穴の上にかざし――。
「xxxxx」
薄い唇から、何かの呪文が漏れた。
――っ!
息が速くなる。額に、背に、汗が流れる。
「マリー様? マリー様!」
彼女の変化は、はた目にもわかるものだった。
肩を揺さぶられる感覚に、マリーははっと顔を上げた。
オルト、インディゴ、オムサナ、イクス、マミクロ。それぞれ種族や色の違う五対の目がマリーを見下ろしている。
「ひどい汗です」
とハンカチを差し出すオルトは心配そうに、
「一度下山して、応援を呼びましょう」
そう提案するイクスは、あらゆる感情を自分の内側に隠してしまったかのように無表情だ。
「……何を見たの?」
意外にもマリーの変化を一番深刻に受けとめたのは、オムサナだった。
普段の明るさが欠片もない、低い声。神殿長としてふるまっている時にさえ見せないような、厳しい表情。彼女はマリーが見た内容まではわからないものの、マリーに起こったことを理解しているらしい。
マリーは目を閉じて、一度深呼吸した。まぶたの裏には、まだ先ほど見た光景が焼き付いているが、冷静さは取り戻している。
――あれは、シャンドレだったわ。
あの禍々しい魔力を持つ存在は間違いなくシャンドレと呼ばれるモノだ。かつて人間を奴隷化していた魔力的に発達した亜人種族で、ラミアをはじめとする魔の眷属の生みの親……。
「恐ろしい……、ビジョンを見たわ。たぶん、そう遠くない未来の風景」
気を抜くと、あの禍々しい魔力を持つ存在が目の前に立っているような気分になる。
「アレにラミアたちを渡しちゃダメ」
マリーの腕の中でテティがうわごとのようにつぶやいた。彼女もマリーと同じ光景を見たのだろう。もしかすると、マリーよりもさらに詳しく。
「シャンドレが、ここに来るわ」
「!」
一瞬の間があった。
瞬時にすべてを理解したオムサナ。
マリーやオムサナほどシャンドレに詳しくないものの、敵が来ると察して迎撃の可能性を考えるイクス。
日常生活では全く耳にしない単語に、記憶をたどるオルト。
「シャンドレって獅子王伝説の……?」
オルトの問いに、マリーはうなずいた。
伝説では黒魔導士や悪い魔女、魔族の王のように語られている悪の存在だ。ただ、英雄たちの強さを強調するためか、伝説上のシャンドレは簡単に倒されすぎる。
「逃げますか? 戦いますか?」
だから、イクスのような経験豊富な騎士でも、敵の真の戦力を推しはかることができない。
「戦いは絶対に避けるわ。シャンドレはここにいるラミアを全部集めたよりも強い。だから、ヤツが来る前にここのラミアを退治する」
「『ラミアを退治』?」
イクスの目がすうっと細くなった。
「そう、ヤツとラミアを会わせちゃいけないって感じるの」
「その判断は、神様のお告げ的な何か?」
イクスのマリーの会話に割り込んで問いかけたのはオムサナだ。
「……たぶん?」
「それならオーケー。勝算はアリアリにあるよ」
オムサナは口の端を上げて笑うと、自分の胸をこぶしで叩いた。白いワンピースが暗闇の中でひらめき、薄金色の肌がダイヤモンドの粉をまぶしたように輝いている。
「さぁ、ちっちゃな獅子王様ご指示を」
彼女の言葉には、明るく冗談めかした体裁を取りつつも、強い覚悟と緊張感が秘められていた。
「いいの? オムサナ」
あまりにも簡単に承諾するオムサナの存在はありがたいが、拍子抜けするのも事実だ。
「うん。シャンドレがここに来るってのは、かなりありえそうなことだし、この多量のラミアとシャンドレを会わせちゃダメってのも、理にかなった判断だと思うよ」
「なるほど……」
怪訝な顔をしていたイクスも、オムサナの言葉でなにか思いついたようだ。
二人が考えているのは、シャンドレがこの場にいるラミアを解放したらどうなるか、ということ。
アンポルトの魔力のおかげでとどまっていたラミアが、レオ=デルソル北部を襲いはじめるかもしれない。
「困りましたね。逃げるとは言えなくなってしまいました」
わずかに震えるため息をついたあと、イクスの口元にも勇敢さを示す笑みが浮かんだ。
「あなたと出会ってから、僕はずーっと巻き込まれてばかりですよ、まったく」
とブツブツ文句を言いながらも、弓の調子と矢筒の位置の確認をはじめている。
「私はあなたに会えて本当によかったわ」
そんな言葉を彼への礼の代わりとして、マリーは次に隣で膝をつくオルトを見た。
「わたしは、どんなに危険でもマリー様にお供すると誓いましたので」
彼の表情は石のように固かったが、震える膝を押さえつけながらゆっくりと立ち上がる姿は、思いのほか頼もしく見えた。
「テティは洞窟の隅でじっとしててね」
最後に相棒を岩陰におろして、マリーは立ち上がった。
「マリー、シャンドレはまだしばらく来ないと思う」
その背にテティが呼び掛ける。
「ありがとう、信じるわ」
マリーは振り返って、太陽色の相棒に笑いかけた。




