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神の山へ[下]

「マリー様」


 オルトは一口だけ紅茶を飲むと、カップの水面に映る自分の顔を見ながら呼びかけた。


「今回の旅には、もちろんわたしも同行させていただけますよね?」


 それを確認するだけで、紅茶で潤したばかりの口がカラカラになる。


「……オルトは来なくて大丈夫よ」


 それに答えるマリーの声は、今まで聞いたことがないほど柔らかかった。

 いつもはきはきと自信満々に話す彼女らしくない。できるだけやさしく、オルトを傷つけない語調になるように心がけているのだろう。


 しかしそれでも、オルトの胸には太い杭で貫かれたような痛みが走るのだ。


 大きな動揺で持っていたカップとソーサーがガチャリと鳴ったので、オルトはゆっくりと紅茶を足元に置いた。そうすれば、ぼんやりした顔の相棒が飲んでくれるから。


 マリーを説得する言葉を考えなければならない。

 しかし、オルトに説得できるだろうか。彼女の中には、マリーを含めて六人分の人生経験がある。どう考えても――今まで読んだあらゆる本の内容を思い出しても難しい。


「いいえ、わたしも行きます」


 だから、オルトは自分の気持ちだけを伝えた。


「マリー様がわたしを案じてくださっているのは分かります。でも、行きたいんです!」


 理由は語らない。ただ、自分の意志を強調した。マリーに何を言われても、この主張だけは絶対に変わることがないと確信しているから。


 マリーの視線を感じる。視界の端に見える彼女の目は驚きにまくるなっているようだった。


「マリー様」


 オルトは横目で女主人を見返した。


 オレンジ色のたれ目は不安を隠せずにいるが、癖のある赤毛は炎のように踊っている。彼のうちに秘められた情熱を表すように。


「わたしの父は、十歳でテルレイオの開拓軍に志願しました。そして、わたしももう十歳です」


 若さや幼さは、彼にとって戦いを避ける理由にならないのだ。


「危険よ」


 マリーの口から出たのは、オルトが予想していた言葉。


「わかっています」


 そして、オルトも彼女が予期しているであろう返答を口にした。


「連れて行きなさいよ。彼は見習いとはいえ騎士よ」


 譲れない論争がはじまるかと思った時、少し離れた場所で様子を見ていたテティが言った。軽やかな足取りでマリーの膝に飛び乗る。


 オルトは予想していなかった援護に、うなずくようにあごを引いた。騎士は王家の人間に忠誠を誓うもので、そこに年齢は関係ないのだ。


「でも……」


 マリーは口ごもった。


 彼女の脳内には、オルトを連れて行きたくない理由がいくつも浮かんでいる。しかし、思考の片側に違う考えがあるのも事実だ。


 そもそも、自分はオルトの年齢や経験を問題視して連れて行きたくないのだろうか?


 もしマリーが少女ではなく十歳の少年で、その危険な冒険に親友の少年騎士がついて来てくれると言ったら、喜んだのではないか?


 ――私が女の子だからためらっているの?


 マリーは自身に問いかけながら、隣に座るオルトを見た。

 横目で遠慮がちにあるじの様子を確認していた先ほどまでと違い、顔全体をマリーに向けている。


 炎のような赤い髪と夕焼けのようなオレンジの瞳。その情熱的な色彩と呼応するように、彼の表情は決意と覚悟に燃えている。本来ならば頼もしいと思うはずなのに、どうしようもない恥ずかしさを感じてマリーは目をそらさざるを得なかった。


「連れて行ってくださいますね?」


 彼の声は耳元で言われたような鮮明さでマリーの脳に響く。声変わりしていない、高い子どもの声。にもかかわらず、マリーにはどうしようもなく男らしく、心を震わせる音に聞こえてしまう。


「あなたを、危険な目にあわせたくないのよ」


「わたしだって、マリー様には危険な目にあってほしくありません。でも、マリー様は止まってくださいませんよね? それなら、わたしも同じです」


 マリーの意志が固いように、オルトの決意も固いのだ。


「連れて行きなさいよ」


 テティが繰り返した。


「というか、マリーがダメって言っても、あたしがオルトとインディゴを連れて行くわ」


「それは……、嬉しいです」


「ほら、マリー」


 相棒に促されて、マリーは口を開いた。


「私は……」


 オルトに来てほしい。でも、危険に巻き込みたくない。二つの感情がせめぎ合っている。


「マリーはわがままなんだから、他の人のわがままも聞いてあげるべきよ」


 テティはなおも言う。


「私はわがままなんて……」


「わがままでしょ!」


 マリーの口をテティがふさふさのしっぽで覆った。


「こっそり離宮を抜け出してアンポルトに行こうとしてるマリーのどこがわがままじゃないって言うの!」


「必要なことなのよ」


「必要でも、それはわがままって言うの!」


「そんなことないもん!」


「ふふっ」


 駄々をこねる子どもとその説得をする親のような言い合いに、笑みを漏らしたのはオルトだ。


「ちょっと!」


 ほほを膨らませて叫んで、やっとマリーは自分が子ども特有の衝動によって言い返していたことを自覚した。


「ちょっと……」


 彼女は同じ単語を繰り返したが、その語調は先ほどと全く違う。

 顔を赤くしたかつての獅子王は、数秒前の自分を恥じるように絨毯に視線を落とした。


 冷静になって考えれば、神の山と王宮に行きたいのも、そこにオルトを連れて行きたくないのも、衝動的で自分勝手な判断だったかもしれない。オルトの希望を蔑ろにするのは横柄すぎるかもしれない、とも。


「……テティの言う通りね」


 マリーは目を閉じると、大きく息を吐きだした。


「ありがとうございます!」


 勝利を確信したオルトが表情をやわらげた。


 マリーが横目でちらりと見上げた彼は、成功を噛み締めて喜んでいる。無邪気な少年の顔なのに、どこか大人びた野性味も感じられて――。


 マリーはやっぱり彼の顔を見続けられなくてうつむいてしまった。


 今まで騎士の顔が見られないなんてことは、一度もなかった。百戦錬磨の獅子王でも、まだまだ知らないこと、慣れないことがあるらしい。


 少女は自分の胸の内にある恋心に、どうしようもなく戸惑っているのだ。

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