イクス・クロスの思い出[下]
「僕は……、長生きなので、時間と地位を使ってあらゆる資料から僕の『相棒』に関する情報を消しました。ここ五十年、僕は人前で一度も彼の名前を呼んでいません。彼にサイズ変化の能力を使わせたのも、片手で数えられるほど……」
再び見えたイクスの口元には、自嘲にも似た困惑の笑みが浮かんでいた。
「あいかわらずの秘密主義者ね。『知られないことほど有利なものはない』だったかしら」
マリーは再びベッドに座りなおした。
その膝の上では、リスザル姿の聖獣「マミクロ」が爪の間に残った蜂蜜までなめとろうと、必死にマリーの指をなめ続けている。
「その言葉は、誰に言ったものだったでしょうか……」
イクスはすでに、マリーが誰かの転生者であると認めざるを得ない状況になっていた。マリーが知るはずもない聖獣の情報――名前と能力はもちろん、好物までを正確に把握し、自分が過去に発言した内容すら言い当てているのだから。
「貴女は、いったい誰なのでしょう?」
彼の表情は取り繕いようがないほど困り切っていた。
「それは、あなた自身で気づくべきよ、イクス・クロス」
マリーはわざと「イクス・クロス」と強調して呼んだ。
イクスの目が丸くなる。彼の中に眠る記憶が刺激されたのだ。
――もう一押しね。
そう確信して、マリーは再度口を開いた。
「イクス・クロス。あなたをそう呼ぶ人はさほど多くないわよね」
「……そうですね。姓と名を同時に呼ぶ必要はありませんから。……しかし、そんな……。まさか」
イクスは答えながら、今までで一番大きい困惑を見せている。彼はもう気づいたのだ。かつて、これと同じ会話をしたことがあると。
「惜しいな。韻を踏んでゴロが良くて、とても素敵な名前なのに」
その会話はマリーも覚えている。だから、その時と同じ答えを言った。口調まで当時のものに合わせて。
イクスの目が丸くなる。開かれた口はパクパク動くものの、言葉は出てこないようだった。彼は気づいたのだ。マリーの中に、かつて仕えた「アダン二世」の記憶と経験が眠っていることに。
「良かったわ。前世のわたしが変わった呼び方をしていて」
マリーは声を失ったままのイクスに歩み寄ると、その膝にマミクロを返した。マミクロは慣れた様子で主人の体を登ると、彼の意識を呼び戻すようにその耳を引っ張った。
「ふっ、はは……」
やっとイクスの発した言葉は、力なく乾いた笑い声だった。
その目がマリーの薄金色の髪から、濃い空色の瞳、喪に服した黒いドレスとヒールの低い黒の靴まで順番に確認していく。おそらく獅子王の名残を探したのだろうが、それがないのはマリーが一番知っている。
「聖獣は……獅子ではないんですね」
最後に彼の赤い目はベッドでくつろぐ子猫を向いた。
「あなた失礼ね」とテティが、
「神の力が弱まっているんだと思うわ」とマリーがそれぞれこたえる。
「しゃべるんですね、その猫」
「みんなには内緒よ」
テティの言葉にイクスは軽くうなずいた。いや、その首の動きはマリーの言葉に納得を示したものでもあったかもしれない。マリーの言葉とラミアだった神官長が結びついたのだ。神の力が弱っているからこそ、神に最も近い立場に敵が入り込めた。
「ちなみに、以前おっしゃっていた『ドワーフの地下道』も?」
「実在するわよ」
「ふはは……」
イクスは力なく笑いながら、脱力した。
「本当に、おとぎ話みたいです」
「あら、信じられないかしら?」
マリーは口の端をひくつかせて笑うイクスの目の前に立った。そうすれば、イスに座った彼よりも目線が高くなる。
「いいえ」
イクスは観念したように首を横に振った。背にたらした銀色の三つ編みがゆっくりと揺れる。
「信じますよ。信じざるを得ませんから」
「付け加えておくと、私にはレオ=デルソルで『獅子王』と呼ばれた五人の王、全員分の記憶があるから」
「それも信じろと、おっしゃるのですか?」
両手を上げて降参の姿勢を見せながら、イクスはマリーを見上げた。
「あら、不満かしら」
得意げに笑う王女に、イクスは大きなため息をついてうつむいた。
「はぁー。わかりましたよ。そういうことにしておきます。それで、あなたは僕に何をしてほしいのですか? 獅子王様」
彼が再び顔を上げた時には、強敵と善戦して敗北したような、晴れやかな笑みが浮かんでいた。
「そうね、まずはお花摘みよ」
次のマリーの発言で、決め顔をしていたイクスはがっくりと肩を落とすこととなったが。
「お花摘み、ですか……」
イクスの表情は困惑を隠しきれていない。騎士団長である自分がなぜそんなことをしなければならないのかと言いたげだ。
「あなたも見たわよね。魔に触れて赤く染まった白ゆりを。あの花を使って、この離宮内に他のラミアや魔の眷属が入り込んでいないか確かめるのよ」
しかし、この作戦はうまくいかなかった。
「そんな……!」
いち早く異常に気づいたのは、オルトだった。そこに広がる光景は、彼が半日前に見たものとあまりに違いすぎていたから。
分厚い城壁の上につくられた、海が臨める庭園と花壇。白ゆりが植えてあるとマリーが昨日オルトに教えた場所だ。
しかし宵闇が近づきつつある今、花壇と花は原形をとどめないほどに荒らされていた。茎が折れ、花が踏みにじられ、白かったはずの花びらは黒く染まっている。誰がやったのかはわからないが、どういう存在がやったのかは明白だ。
駆け寄ったオルトは服が汚れるのも気にせず、無残な状態の花壇に膝をついた。
「ゲエェェェェ!」
その隣にインディゴも鳴き声を上げながら舞い降りて、主人と一緒にゆりの花をかき分けている。
しかし分かったのは、花もつぼみも念入りに潰され、一輪残らず黒く染まっているということだけだ。
「ひどい……」
「おやおや、これは非常にまずいってことではありませんか?」
嘆くオルトの後ろで、イクスは息をついた。しかし、言葉とは裏腹にその表情はなぜかうれしそうに見える。逆境であるほど燃えるタイプなのかもしれない。
「……その通りね」
一方の子猫姫は、彼ほど今の状況を楽しめそうにない。
マリーの白いほほに汗が一筋伝った。




