4. 二回目の『夜』と『朝』 ☆
大阪梅田から阪急神戸線・特急で約20分。
駅から南東徒歩8分のところに私のマンションがある。
部屋、片付けてあったっけ。
ああ、こういうことがあるから、普段から掃除しておかないと……!
なんて思いながら、部屋に入る。
部屋の電気を点けると、そこそこ中は片付いていて、ひとまずホッとした。
「私の部屋こそ狭いでしょ。6畳1Kだものね。ベッドと炬燵にピアノを置いたらスペース全然なくなっちゃった」
「ピアノはちゃんと持ってくるところがすごいよ」
「お昼、すぐ用意するね」
黒いショートのラップエプロンを身に付けながら、私はキッチンに立った。
料理は正直、得意じゃない。あまり家のお手伝いをしていなかったから、自分で作れる献立なんて限られている。
それでも比較的得意なオムライスに、ロメインレタスとタマネギがあったから、シーザーサラダ、フレンチオニオンスープを作った。
「わあ。何だよ、このケチャップ!」
颯人が笑った。
アソビ心で、薄焼き卵の上から『HAYATO』とケチャップでモノグラムしたのだ。
「ふふ。可愛いでしょ」
「食べるの勿体ないな」
「こんなので良かったら、またいつでも作ってあげる」
そう言って笑った。
***
午後は、駅前のミニクロワッサンが美味しいお洒落なベーカリーカフェにお茶を飲みに行って、二時間ほど粘った後、また私の部屋に戻った。
颯人は部屋の本棚の本を物色し、ぱらぱらと眺めている。
颯人は体育会系でありながら、活字の虫でもあるのだ。
私と同じく語学が得意で大学は英米語専攻。私の苦手なホラー・ミステリーが好きで、スティーブン・キングの代表著書は原書でコンプしている。
私は、恋愛作品から純文学まで一般文芸作品は何でも読む。
颯人はアウトドア派で私はインドア志向だし、読むジャンルは違うけれど、お互い『活字』が好きという点では私達の趣味は同じ。
それがつきあうきっかけになったと言って良い。
「あれ? これ……」
「何?」
「これ、『そして誰もいなくなった』じゃん」
本棚の一番奥に隠していたその文庫本を、颯人は見つけた。
「珍しいな。怖がりの英梨がアガサ・クリスティのこんな本持ってるなんて」
「そうなの! 実は困ってるの」
私は本を手に取りながら、大きく溜息をついて言った。
「中学生の時、憧れの葉月先輩から頂いて読んだんだけどめちゃくちゃ怖くて。卒業するまでベッドの下に隠しておいたくらいトラウマな本なのに、この春の引越しで、他の本に紛れて持ってきちゃってどうしようかと……」
「これ没収な」
颯人は急にぶっきらぼうに私の手からクリスティの本を奪った。
「葉月先輩って誰だよ」
「生徒会の会長だった先輩だけど」
「そいつにもらったモノ、後生大事に持ってるのかよ」
なんだかいつのまにか険呑な雰囲気になっている。
「だって頭脳明晰、容姿端麗。性格も穏やかで優しくて、非の打ち所がない先輩だったのよ。私、書紀だったから可愛がってもらって嬉しかったわ」
「そんな話は初耳だぞ」
颯人が気色ばんで私を睨んだ。
颯人の険しい表情を見て、私は慌てて言葉を継いだ。
「颯人、違うわよ。何か勘違いしていない? 葉月先輩は女の先輩よ」
「女ぁ~?」
一気に颯人が脱力した。
「なんだ。またてっきり……」
「てっきり、何なの?」
「何でもない」
プイとそっぽを向く颯人。
やきもちを焼いたあげく拗ねてるのかと思うと、なんだか笑ってしまう。
「颯人。この本、預かってくれない?」
「預かる?」
「私、表紙を見るのも怖くて。でも、捨てられないし」
「わかった。にしても、英梨は筋金入りのへタレだな」
「なによー!」
そんな犬も食わない小さな喧嘩もしつつ、春の黄昏は穏やかにゆっくりと過ぎていった。
***
その晩。
夜も更けてきて、ショパンの『夜想曲集』を聴いていた。
Op.48-1のノクターンの神秘的で静かな優しいメロディアスな旋律が小さく部屋中に流れている。
夜更けにショパンの音楽は、厭が上でも雰囲気を盛り上げてくれる。
私達はベッドに背もたれながら寄り添い、いつしか無言だった。
しかし。
「英梨。何考えてる」
と、颯人が言った。
私は彼に肩を抱かれながら、ごく自然に呟いていた。
「こんなに幸せでいいのかしら……」
それは、心の奥底から沸き上がる想いだった。
愛する人と静かに二人きりで過ごす時間が、こんなにも幸せを感じさせてくれるなんて……。
こんな日が自分にも訪れるなんて。
一年前には考えもしなかったのに。
運命は不思議……。
「俺もだよ」
颯人は私の肩を抱く手に力を込めた。
颯人の熱い唇を感じながら、私は自然と颯人に身を預ける。
「愛してる。英梨子」
それはたった一言のシンプルな言葉。
だけど、不思議な確かさをもって私の心に染み入る魔法の言葉。
「颯人……私も……」
上擦る声はいつしか夜の闇に溶けてゆく。
もつれあいながら、お互いを確かめ合う。
蒼い静寂に溢れ出すおもひ。
揺蕩うまま重ねあうふたり。
それはどこまでも神聖な時。
そして。
私達は二回目の『夜』を過ごした。
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***
「おはよう。颯人」
「イテ……」
私は颯人の顎に僅かに伸びた無精ひげを引っ張りながら、そう告げていた。
「見てたのかよ」
「昨日のお返し」
まだ颯人は寝惚け眼をしている。
それでも、CHU!とキスしてくれた。
私達は顔を寄せ合い、笑いあった。
「珈琲淹れるね」
簡単に部屋着を身につけると私はキッチンに立った。
「このカップ……昨日、買ったヤツじゃん」
私は、颯人に買ってもらったばかりの白いうさぎのマグに珈琲を淹れて、颯人に手渡したのだ。
「このマグ、普段は私が使うけど、颯人が泊まりに来てくれた時は颯人専用ね」
颯人が買ってくれたこのマグは、颯人に逢えない夜もひとりの朝も、私を見守っていてくれる。
これから颯人とふたり、恋人同士としてステップアップした大学生活がはじまる。
それはきっと何にも代えられない素晴らしき日々。
そんな予感を感じて、春の朝の眩しい光を浴びながら私は幸せに笑った。
了