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3. 初めての名前呼び

 ピ・ピ・ピ……

 耳元で電子音が聞こえる。

 その時、光が射した──────


「おはよう。英梨」


 開いた瞳の前に、彼がいた。


「……岡田、くん」


 まだ私は寝ぼけ眼。

 けれど、一糸纏わぬ彼の姿にハッとする。

 起き上がろうとして、真っ赤になった。

 私……何も着ていない……。

 すごく恥ずかしくて、思わず薄い茶色のブランケットを体に巻きつける。

 それは抜群に肌触りが良くて、なおさら素肌の自分を意識する。


「もしかして……見てた?」

「ああ、ずっとな」


 岡田君が笑んでいる。


「可愛かったよ。テディベアが眠ってるみたいで」


 そう言って、彼はまた笑った。

 そ、そんな。

 寝顔を見られるなんて、恥ずかしい……。


 でも。

 朝の光の中、岡田君がいる。

 なんだか、すごく新鮮。

 私、初めて彼と一夜を過ごしたんだ。

 それは、ひどく感動的な朝だった。

 東の窓のブラインドから差し込む光は目にも清かで。

 肌に触れる空気は凜として。

 私は今日この日の朝を一生忘れない……。


「珈琲飲むだろ」


 そう言って、キッチンで珈琲を作ってくれる。

 彼は大きな黒いマグカップを手渡してくれた。

 それには、『TASSE(タッセ) KAFFE(カッフェ)』と白抜きの文字で書いてある。

 それが、大学の講義で習いたてのドイツ語で、『コーヒー・カップ』という意味であることに、気がついた。



 ***



 洗面所で顔を洗う。

 その時、ふと歯ブラシを凝視した。

 これ……ここに置いていってもいいのかな。

 でも、そしたらなんだか同棲するみたい。

 一人頬を赤らめる。

 でも。

 結局、私はコンビニで買ったそのピンクの歯ブラシを目の前のコップの中に入れた。

 岡田君、これ見つけたらどう思うかな。

 今度いつこれを使う日が来るんだろう。

 そんなことを考えながら、私は手早く基礎化粧とメイクを施し、洗面所を後にした。



 ***



「朝飯、コンビニに買いに行こうぜ。冷蔵庫にろくなもんないんだ」


 岡田君が、春物の白いカーディガンを羽織りながら言った。


「岡田君。普段、食事どうしてるの?」

「颯人!」

「う…はやと……」


 私は、言葉に詰まりながらも言い直した。

『颯人』……。

 うー、まだ慣れないよ。


「普段はほとんど学内で食べてるよ。コンビニもカフェもある。だから食事には困っていないよ」

「でも、野菜は食べてる? ダメよ、野菜は食べないと。……心配だわ。は……」


 私は急に口籠った。


「……はや、は」

「颯人」

「……こほん。颯人、偏食していそう」

「そうかあ。そんなことないよ」

「ほんとう?」

「……わかった。野菜もちゃんと食べるよ」

「絶対よ」


 そんなことを話しながら歩く。

 名前呼びだなんて。やっぱり照れる。

 今までずっと苗字に君付けで呼んでいたのに。

 なんだかまだドキドキして、『岡田君』=『颯人』ということがピンと来ない。

 でも、これから徐々に日常になっていくんだろう。

 そう思うとなんだか不思議。


「颯人」


 小さく呟いた。


「何? 英梨」

「何でもない」


 隣を歩く颯人の目を微笑みながら見上げる。

 颯人は私の右手をそっと握ると、ふわり笑った。


 そうこうしながら、コンビニにはすぐ着いた。

 マンションの目と鼻の先に、駅もコンビニもある。

 部屋も広いし、すごく便利な所だ。

 きっとお家賃高いんだろうな。


 コンビニでは、コロッケパンにメロンパンとあんパン。1リットル牛乳にオレンジジュース。六個入りの卵ひとパック、レタス大根ミックスサラダ一袋を買った。

 帰ってスクランブルエッグを作り、サラダとパンと一緒に食べた。


「それにしても颯人って。洗濯物は溜めてるし、どうしてこんなに洋服散らかせるの? 高校時代はこんなに部屋の中、酷くなかったじゃない」

「洗濯なんてやったことないし、掃除・片付けはお袋が勝手にやってたからな。俺にはさっぱりわかんないよ」


 あっけらかんと颯人は答えた。


「しょうがないなあ……。今度から週末、私が遊びに来て、片付けてあげる」

「通い妻になってくれるの?」

「またあ。もうそういう言い方しないで」


 私はちょっとふくれて見せたが、彼は嬉しそうに笑った。


 それから。

 汚れた食器を洗い、洗濯機を回し、掃除機をかけながら部屋の中を整理しているときだった。

 本棚の空いたスペースに置かれた写真立てに気づき、思わず手に取った。


「これ……テニス部の写真」

「ああ。全国に行った後、引退試合のときのやつ」


 その写真には、男子六人、女子五人がユニフォーム姿でラケットを持ち、和気藹々と映っている。

 それはいい。いいんだけど……。

 パタンと私はその写真立てを伏せた。


「英梨。まだ気にしてんのか」

「そりゃあね」

市川いちかわとは……っと。市川さんとはもうなんでもないよ」

「あちらはまだそうは思ってないかもよ」

「いくらなんでもそれはないって。もう卒業して、俺らはこっちにも来たんだし。彼女、東京の私大に行ったらしいじゃん」

「でも……」


 私は浮かない顔をする。

市川いちかわ摩季まき』さんは、颯人の『元カノ』。

 颯人と同じ元・硬式庭球部員で、颯人は彼女と約一年あまりつきあっていた。

 美人で姉御肌で勝ち気。さばけたところが体育会気質の颯人には合っていたらしい。

 本当は、集合写真とはいえ、元カノと一緒に映っている写真なんて部屋に飾ってほしくない。でも、そんなのは私のワガママだろう。自分の狭量さが嫌になる。


「颯人はそれでなくてもモテてたわよね」


 そう。市川さんという彼女がいたにもかかわらず、颯人にコクったり、誕プレやヴァレンタインチョコを渡してキャーキャー言う子が数知れずいたことは学内でも有名だった。


「その言葉、英梨にそのまま返すぜ。英梨に告ってきた奴、みんな玉砕させたんだろ」

「だって……それは。こういうこと自慢してるみたいで言いたくないけど、みんな見た目ばっかり。外側しか見ないんだもん」

「じゃあ、俺は?」

「颯人とは。委員会活動や本の話がすごく合ったし。それに……市川さんともはっきり別れた後に私に告白してくれたでしょ」

「そりゃね。ケジメじゃん」

「颯人のそういうとこが。……すき」


 うつむき加減で小さく呟いた私を、颯人はそっと抱き寄せる。


「心配しなくても、俺が好きなのは。英梨だけだよ」

「颯人……」


 見つめあう。

 どちらからともなく口づけ、抱きしめ合った。


「颯人……信じてる」

「当たり前だろ」


 彼の胸に顔を埋める私の髪を一筋優しく掬うと、颯人は言った。


「これから英梨のマンションに行ってもいいか?」

「え? 私の?」

「見てみたいよ、英梨の新しい部屋」


 彼は私の瞳をじっと見つめながら言う。


「今夜は英梨の部屋(マンション)に泊まりたい」



 ***


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