2. 戻れない春の夜
とっさにはなんと言っていいかわからず、私は俯いた。
なんだかすごく恥ずかしい……。
微妙な空気。岡田君も視線を外している。
私はその場の雰囲気をごまかしたくて、わざとおどけるように言った。
「で、でも……用意してない」
「用意って?」
「お泊りセット。着替えやパジャマや化粧品」
「一晩くらい着替えなくても死にゃしないよ。部屋着なら俺のを貸してやるし、化粧品はコンビニで揃うだろ」
「もー、強引なんだから」
「それにどうせ」
ボソリと岡田君は呟いた。
「寝るとき、パジャマは必要ないじゃん」
「お、岡田君……!」
結局。
その晩、私は彼のマンションに泊まることにした。
***
阪急宝塚本線・急行で大阪梅田から約二十分、箕面線に乗り換えて一駅。駅前の閑静な高級住宅地に岡田君のマンションはあった。
三階建ての小綺麗な独身者向けマンションの二階・204号室。8畳の洋室に約6畳のダイニングキッチンの1DKの間取りの部屋が彼の部屋だという。
「お邪魔します……」
おずおずと彼の部屋に踏み込む。
一人暮らしの男の子の部屋に泊まる日が私にもとうとう来たんだ。
私は茶色のローファーを脱ぐと、そわそわ緊張しながら丁寧に揃えた。
ドキドキと鳴る胸の鼓動を抑えながら部屋に入る。
これから何度足を踏み入れることになるんだろう。
今はまだとても想像がつかない。
「狭いだろ。せめてロフト付き探したんだけど、思うような部屋なかったんだ」
「狭くないわよ。いいな。私の部屋よりずっと広い」
「そこらへん、てきとーに座って。今、珈琲淹れる」
岡田君は身軽くキッチンに立った。
私は部屋の中央の炬燵に座ると、脱いだトレンチを軽く畳み、脇へと置いた。
「岡田君、まだ炬燵片付けないの?」
「ああ。カバーしまうのが面倒でさ」
「質の良さそうな布団なんだから、ちゃんと天日干しして収納しないとダメよ」
「へいへい」
程なく、芳ばしい香りが漂ってきた。
「懐かしい……! 岡田君の珈琲」
久しぶりに飲む彼の珈琲。
酸味の効いたすっきりとした味わいが舌に染み入るよう。
「それにしても岡田君。すごい有様ね……」
珈琲を飲みながら私は、改めてしげしげと部屋中を見廻した。
彼の部屋の中には半端ない数の洋服や本、雑誌の類が散乱していて、それこそ足の踏み場もない。
どうやったらここまで散らかせるのか、まったく不思議なくらい。
一人暮らしの男の子の部屋って、こういうものなのかしら……。
後で片付けてあげなくちゃ。
そう思ったとき、私の頭に一瞬、洗濯物の山が浮かんだ。
ま、まさか……し、下着が脱衣所に脱ぎ散らかして。なんてことは……?!
うそ。それも私が洗うの?!
思わずそのシチュを想像して、赤くなるやら、青くなるやらわたわたしていると
「なに一人で百面相してるんだよ。服、これに着替えろよ。その格好じゃ窮屈だろ」
岡田君はそう言って、フランネルの青いチェック柄のシャツを一枚、渡してくれた。
「下は?」
「下はサイズが無理だろ」
「このシャツもだぶだぶだよー」
彼のシャツは肩幅が広く、袖丈もかなり長い。
しかし、とりあえずそのシャツ一枚に着替える。
「こっち見ないでね」
「藤本、見せるとこなんてないじゃん」
「もー、そうゆうこと言わないの!」
悪かったわね、どうせAカップですよ。
でも、胸は隠せるけど、下半身が隠せない。
そのシャツは全体の丈も長いとはいっても、超ミニスカ並みの長さしかない。
私はショーツが見えないように気にしながら、意識的にボタンを一番下まできちんと留めた。
「俺、シャワー浴びてくるわ」
立ち上がると岡田君は何気なく言った。
「先に入る? 藤本」
「う、ううん! 後でいい。かまわないで」
「じゃあ、お先」
彼はポーカーフェイスでバスルームへと消えた。
私の心臓はバクバクとより鼓動が大きくなっている。
下着の替えがないのが気になって仕方ない。
でも、今日身に付けているブラがお気に入りのホワイト地にピンクの花柄レースなのを確認してホッとする。インナーも半袖コットンじゃなくて、おそろのキャミ&ショーツ。
こういうときに、普段から気分の上がるインナーを着ていることが大事だとしみじみ思う。
そわそわと落ち着かず炬燵に入っていると、ほんの十分ほどで岡田君はお風呂から戻ってきた。
「バスタオル置いといたから。シャンプーとかは好きに使って」
そう言いながら、濡れた髪をわしわしとタオルで拭う様も男っぽくて。
水も滴るいい男……なんてことは思っても言わない!
岡田君と入れ替わりでバスルームへ入ると、目の前の鏡に自分の華奢な体が映る。
この素肌を……今夜、岡田君が……。
妄想をぶんぶんと振り払い、思い切って服を脱いだ。
お風呂は浴槽と洗い場に分かれていて、私の部屋のユニットバスよりやはり広い。
シャワーの湯温を調整してメイクを落とし、頭からシャワーを浴びる。
シャンプーは無印のスカルプケアシャンプーで、香りはほんのり香る柑橘系。岡田君の香りにクラクラする。
落ち着こう。うん。
私は湯船にゆっくり浸かることにした。
まったく迂闊だった。こうなることは予想もできたのに。
次に来るべきこと。
それは……。
考えるだけで真っ赤になるのはお湯が熱いせいだけではないはず。
私は湯船のお湯をすくい、パシャリと顔をたたいた。
湯上がりの私……少しは色っぽいかな……。
「お風呂とドライヤーありがと。やっぱりメイク落とすとさっぱりする」
お風呂から上がり、できるだけ平静を装う。
「お疲れ」と岡田君もなにげない表情をしているけれど、目が合わせられない。
気まずい……。
ドギマギしながら一人テンパっていると
「なあ、藤本。ひとつ提案があるんだけど……」
岡田君がおもむろに呟いた。
「何?」
「俺達。呼び方変えない?」
「え……?」
彼が続ける。
「いつまでも名字呼びじゃよそよそしいだろ。大学生になったことだし、これからは……下の名前で呼びあおうぜ、なっ!」
「し、下の名前?」
「そう。藤本のこと、「英梨」って呼びたい」
彼は私の瞳を見つめて言った。
え、えり……?!
「で、でも……」
「嫌なの?」
「嫌じゃ、ない……。けど……」
「けど、何?」
私は躊躇いながら、言った。
「岡田君……。キスするときはいつも「英梨」て、呼んでくれるでしょ。その方が特別感があっていいな、て。思ってたんだけど……」
彼と私の関係はキス+αくらいの関係。
彼は私を抱き締めるとき、いつも名字ではなく「英梨」とそれは愛おしそうに私の名を呼ぶ。
その言葉は魔法のようで、ドキドキして……。
私は彼からそう呼ばれることが嬉しかった。
すると。
彼はこう言った。
「じゃ、そういうときには本名の「英梨子」って呼ぶよ。それでいいだろ? 英梨子」
「お、岡田君……!」
「「颯人」だろ」
「英梨子……」と呟く彼の熱い視線を私は感じて。
彼が私を胸に抱き寄せる。
ビクリと心臓が、はねる。
彼の節太い指が私のさらさらの長い髪を梳く。
ゆっくりと唇が、重なる。
フランネルのシャツのボタンを一つ、また一つ外されてゆく。
「英梨子」
「はや、と……」
もう戻れない。春の薄闇。
狂おしい時を揺蕩うままに私達はひとつになって諸共に溶けてゆく。
迸る熱い想いを全身で感じながら、私の初めての夜が静かにゆっくりと更けていった。
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