「必要ない感情」
――簡単だった。
そう漠然とした頭の中で、明確な言葉を幼い少年は呟く。
視界には赤黒い色が飛び込む。自身の手を自ら血にへと染め上げ、呆然としていたはずの表情は突如悪魔のような笑みにへと変貌。喉を鳴らし、最後には気の晴れる思いで盛大に笑った。
床に転がっているモノを足蹴にし、少年は呆気なかったと笑いを堪えられない。腹が痛くても抑えきれない衝動が確かにそこにはある。
今踏みつけているモノは自分と同じような形をしていた。手足があって、肌が合って、髪もあって……。血も赤い。
それは自分と同じ人間というモノだった。
その同種とされるモノを一つ血に染め上げた時、少年の中でなにかしらのしがらみが解き放たれた気分にもなる。
――何故、こんなことに気付かなかったのだろう?
たった一つを捨てれば全ての束縛から自身を解放し自由にへとする。
楽になれるという簡単なこと。
「こんなモノ、邪魔でしかなかったんだな。もっと早くに気付いておけばよかった」
「気は済んだかしら? そう、貴方は今自由になったのよ。今の貴方はとても素敵だわ」
すぐ隣では歳の変わらないモノが賞賛してくる。それもそうだろう。コレこそが正しい生き方なのだから。
不必要なものを切り捨てたことにより少年は自由を手にした。
微笑する魔女の少女より譲り受けた――蛇を宿す魔銃と共に。
◆
「――ッ!? ク、ロト、さん……っ!?」
年上の男の手が喉を潰そうと絞めていく。
エリーも抵抗してクロトの腕を掴み取り引き剥がそうとするが力の差は歴然としており無力だ。必死の抵抗など気にもとめず、ただクロトは自身の怒りをひたすら苦しむ少女にへとぶつけた。
「なんなんだよお前……っ。そう言って、なに俺に優しくしようとしてるんだよ! お前なんかが……っ、ただの道具のお前がッ!」
怒りの言葉と共に手が力を増していく。
苦しさに紛れにエリーはクロトを見上げた。怒りに満ちた表情が霞み行く視界に映り込む。
「全然……、全然お前は予想してたのと違うんだよ! 最初っから、今まで……っ。なんでお前が俺にそんな顔するんだよっ? なんで俺の前で笑ってるんだよ!? なんで平然と俺についてきてるんだよ!!? 挙げ句の果てに、俺が優しい? ――ふざけるな!!」
怒鳴る声がエリーの胸の奥を打ち続ける。ドンドンと打ち付けて、心が痛む。
クロトはただ衝動のままにエリーを否定した。
「お前がそんな顔するはずがない……、できるわけがない。俺はお前の言うようなことをした覚えがない。お前のためなんて想ったこと、一度だってない! 全部自分のためだろうが! お前を連れてるのも殺させないようにするのも、全部俺のためにやってることなだけだろうが! そこにお前の感情に対するものなんて微塵もないっ」
痛い……。クロトの言葉を聞く度に胸の奥が痛い。
攻撃的な言葉から怒りだけでなく別のなにかが滲んできている。
――貴方はどうしてそんなに辛そうなの?
クロトの表情には怒りと辛さが混じっていた。そんなクロトから目が離せない。
エリーの星の瞳は、ひたすらクロトに見つめる。
「その目……っ。その目も気に入らないんだよ! なんでお前が俺を気にかけてんだよ! 哀れんででもいるつもりなのかよ! そうして善人面でもしていたいのかよ!! 道具のくせに生意気なんだよ!!」
善人? 善人なんて言えるほど自分はそんな存在ではないとエリーは思う。
一緒にいるのも、彼に脅迫され束縛されているからではない。
哀れんでいるつもりもなかったはずだ。
――ただ……、ただ……、私は……。
「いらねぇんだよ! お前みたいな奴が一番理解できない! 理解できなくて、わけわかんなくて……っ。あの魔女を捜すのにお前が必要なだけで、仕方なく所持して……っ」
怒りの表情に混じって更にクロトはどこか屈辱と唇を噛みしめる。
「そんな理由がなければ……、――誰が、お前なんかと……ッ!」
――私、なんかと……?
その言葉はエリーの中でとどめを刺すような痛恨の一言だった。
わかってはいた。クロトが自分を嫌っていることなど、知っていた。最初っから彼もそう言っていたではないか。
そう。彼がなんの理由もなく自分のそばにいるはずがない。この関係は……仕方のないことだった。
それでも、心が抉られたようで、酷く傷ついた。
胸が痛い。悲しい気持ちで呼吸だってままならない。……苦しい。
エリーの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「そういえば、記憶のないお前にはまだ言っていなかったか。お前の母親、クレイディアント王妃を殺したのは――俺だっ」
追い詰めるように衝撃的な事実がエリーを襲う。
母親。自分の母親。
ふと、エリーは少し前に見たこの家の家族の写真の時のことを思い出す。
――私の両親って、どんな人だったのかな……。
殺したのは、目の前のクロト本人。
「俺に好意を抱くな……。そんなものは偽善でしかないっ。好意なんて、相手を騙すだけの偽善なんだよ! 二度と俺に、そんなもんを抱くな!!」
「ぁ……、あぁ……ッ」
更に首が締め付けられる。
辛い。痛い。息ができなくなって苦しくなることよりも、どこか悲しそうにあるクロトを見るのが、自分のことよりも辛く感じてしまう。
意識がどんどん遠のいて……抵抗にもあった手が力を失って滑り落ちていく。
吐き気がする。クロトはそう思い、自分の中で沈んでいく。理性が黒い中で殺意に埋もれる。
ああいう人間は嫌いだ……。
優しく接しようとするモノはなにを考えているか理解できない。善人の面をしたそれらはこちらの殺意を煽ってくる。まるで殺してくれとでも言っているようだ。
優しくされる道理はない。なんせ、俺はそんな存在ではないからだ。
それを自ら望み、そうやってあの時から生きてきた……。
初めて人というモノを殺した、あの日から……。
あの時、全てから解放された気分でもあり心は盛大に晴れた。自分の意思で殺し、自分の意思でそれを受け入れ、自分の意思で生き方を選んだ。誰とも馴れ合わない。全てを避け、全てを敵として見る。障害なら殺せばいい。生かしておけばいつかまた自分に害を成す。それはとても理に適った当然の考え。
だから、そんな俺は他者から好意を寄せられるはずもない。寄せられることすら俺にとっては嫌気がさす。
そんな感情が一番理解できない。理解できないモノはいらない。
当初のアイツの方が、まだ理解しやすいと思えた。
現実を直視できず、全てを否定したあの時の方が、とても理解しやすい思考を持っていた。自分に向けるのは気にかけるような目ではなく、恨みのこもった目のはずだった。親というモノを殺されたアイツは当時酷く喚いてこちらを否定する。それが当たり前だ。そして、そんなモノのためにある情など一切ない。
当初の予定では半殺しも視野に入れていた。アレに気など遣う必要などない。いつも通り、ただ己のなすがまま扱う道具。
そんな単純なことを今でも変わらずしているはずだった。それなのに、受け止められたのは【優しさ】というもの。
……冗談じゃない。
俺にそんなものは一切ない。そんなモノはあの時に捨てたんだ。
だから、その思考は誤解だ。だから……、それを勝手な解釈をして好意を抱くな。――向けるなっ。
好意の裏にあるのは偽善だ。こちらの気を取ろうと接するのはそいつのため。そのために好意という名の偽善を寄せてくる。
それがなによりも嫌いだ……。殺したくなるほど、嫌いなことだ。
――これ以上、俺の生き方を壊すな……。
今が。今の生き方が理想だと信じている。
だってそうだろ? なんの重荷もない生き方こそ、他者を切り捨てる生き方こそが、なによりも安全な生き方じゃないか。
なににも惑わされない、最大の……――自己防衛ではないか。
どうしてこんなモノと一緒にいなければならない……。
どうしてこんなモノを守らなければならない……。
どうして……、なんで…………。
――どうして? そんなの、決まってるだろうが……。
確かな理性がそう呼びかけてくる。
自分が今成すべきことを言い聞かせ、実行する。
――……
降りしきる激しい雨を裂き、怒号のように雷が轟き光る。
その騒音に紛れ、もう一つ別の音が鳴り響き静寂がそれを包んでいく。手放しかけた意識がそれらに反応し寸で呼び起こされる。
一瞬ハッキリと見えてしまった光景に、エリーは驚愕し目を疑った。
首を絞めていたクロト。右手には魔銃を構え、己の左腕を撃ち抜いていたという目を疑う光景。
「――ぐぅ、がぁ、あぁあ……ッ!!」
鮮血を散りばめもがくクロトはエリーの首から手を離し身を遠ざけた。解放されたエリーは止められていた呼吸を取り戻すとむせかえり喉元をおさえる。呼吸が整うのに時間がかかる。視界が安定し、苦し紛れに急いでクロトを捜した。血の臭いが鼻を刺激しすぐに見つかる。
床に身を伏せ、撃ち抜いた左腕からは止めどなく血を溢れさせ床の絨緞を濡らしていく。激痛に歯を食いしばり悶え苦しむクロトにエリーは衝動を受け、まだ息がまとまらずとも彼にへと這い寄った。
痛みに苦しむクロトが目の前にいる。動揺し頭の整理がつかず、ただその傷をどうにかしようとだけ体を必死で動かした。
「……クロト、さんっ」
傷つく者を悲しむような目がクロトを見ている。その目は嫌いだと、クロトは断言できた。
その感情が嫌いだ。その行動が気に入らない。その思考が……理解できない。
「……来るな」
拒絶した。非力な少女を……、エリーという存在を。
嫌悪した目がずっとエリーを睨み付ける。
近づくなと言われるも動きをほんの少し止めただけ。それでもと、エリーは更に距離を縮めようとした時、クロトの中でなにかが弾けた。
「――来るなぁああッ!!」
がむしゃらに、クロトは叫び魔銃を天井にへと向けた。
「――【爆ぜろ! ニーズヘッグ】!!」
引き金が引かれ、爆炎が天井を崩し酷い熱気を漂わせる。吹き上げられた熱風にエリーは自身を庇い視界を閉じてしまう。目が開けるようになった時にはクロトの姿はなく、その場には崩れた大穴を開けた天井の残骸だけが残っていた。
「…………クロトさん」
エリーは羽織っていたクロトの上着に手をかけ、ずっと開いた天井を見上げた。
おそらくクロトは二階にへと行ってしまったのだろう。
未だに絞められた名残のある首をエリーは撫で、静かにうつむく。
◆
どれだけの時間が経っただろうか。気がつけば窓のカーテンの隙間からはうっすらとした光がクロトの視界にへと差し込んでくる。
朝という事実に、二階の部屋で倒れ込んでいたクロトは時間経過をある程度予測し身を起こす。
「……ぐッ」
撃ち抜かれた左腕にまだ痛みはある。目を向ければまだ新しい流血が見れる。まだ回復しておらず血が滴り落ちていた。また身をうずくまらせ傷口を押さえ込んで少しでも早く止血しようとする。
あれから数時間は軽く経過しているはず。眠っていたというよりは意識を失っていただけなのだろう。だがその傷はまだ癒えてなどいない。それは自身の不死を疑われるような姿だった。
しかし、そのこともクロトは熟知している。
「……くそっ。まだ時間が掛かるか……」
痛みを堪えクロトは周囲にへと耳を澄ませた。
「……」
あまりにも周囲が静かすぎる。
足元に開いた穴に目を向ける。自分の血を引きずらせた跡をたどり、体を這わせてクロトは下を覗き込んだ。
真下にあるのは一階にある部屋。崩した天井の破片、そして――その近くにはうずくまって横になっていたエリーがいた。
……近づきたくない。そう思いながらもクロトはその場をそっと降りエリーにへと寄る。
昨夜のこともあり気がかりだったが、なんとか彼女には息があり安堵した。エリーは毛布代わりに自分が渡した上着を大事そうに羽織っていた。眠る目元には微かに涙の跡がある。
「……なんなんだよ、本当に」
今までの違和感の謎はわかった。まさかこの道具に【好意】を抱かれていたなど、思いもよらなかった。
またそんなものを向けられれば、きっと……今度こそ殺してしまう。
自分の世界を守るために。
だが、それをすれば、――自滅するだろう。
『――アンタ、本当に自滅するわよ?』
ふと、ネアの言葉が蘇ってくる。呆れてものも言えない。本当に自滅するところだった。
あの時、自分が絞めていたのは、自分の首だ。
理性が何度も自分に言い聞かせてくる。
――コイツが死ねば……、――俺も死ぬから。
……と。
愕然としてそれを聞き、「そうだ」と受け入れて認めた。