「疑心渦巻く心」
結局ネアの言ったとおり、クロトとエリーは山を一直線に登らず遠回りをすることとなる。
なんとか日没までには超えた位置にまで着くも運が悪く空からは水滴が落下。出発した頃はまだ天候はよかったはずなのだが、時間を過ぎるにつれ雲行きが怪しく、しだいには雨が滴り落ちた。
「……ちっ。降りだしてきやがったか。山を越えられていれば今頃は……」
屈辱と文句を口にするクロト。その後ろではまだ少量の雨粒から濡れないようにと両手を頭の上に被せるエリー。視線がつい上を向いてしまいながら後を付いていく。
しかし傘のない現状。度々頬や鼻先、はたまた目にへと冷たい雫が入ってしまう。
「ひゃっ!」
「……なんだクソガキ」
「~~っ、いえ……。目に雨が……」
「上なんか向いてるからだろうが……っ」
その辺、クロトは確認のため後ろも気にかけているのでよく知っている。まぬけだと感じつつ、いつ脚を滑らせ転んでもおかしくないようなふうにエリーはあった。その程度なら単に「馬鹿だ」と一言飛ばしてやるつもりでもいた。
さすがにそこまでのことはなく、エリーは眉を歪め濡れてしまった目を涙を拭うように拭き取る。
まるで泣いた後かの様。そんなエリーを見るのはクロトにとって久しく思える光景だ。
……不意に、胸の奥でなにかがざわつく感覚があった。
しとしと、と。勢いはなくともある雨。もうじき目的地である場所に着くため、いったんクロトはエリーを雨のしのげる大樹の下で待たせることした。
確認と一人雨の中を進み、またエリーが一人になる時間ができてしまう。
今回は雨を眺めつつ、手を伸ばしては落ちた雫を手に取る。雨のせいか景色も徐々に暗くなり、ただ待つだけのエリーには不安が積もっていく。
「……まだかなぁ」
何度今日一日でこの言葉を呟いたか。視界が暗いせいでより心細くなる。
心の中で早めの帰りを祈り、エリーはそこから動くことはなかった。
すると、草木がガサガサと揺れる音が。すぐに視界を寄せると雨に濡れたクロトが静かに戻ってくる。
「行くぞ」
戻ってくるなりクロトはその一言のみ。だがようやく不安から解放されたエリーはせっせと体を起こしてクロトの後にへとついて行く。
小走りにクロトにへと追いつき、そこからは数歩離れてエリーはいつも通り。普段と同じはずなのに、クロトはどこかそれが気がかりになりつい後ろを振り返ってしまう。
「……? クロトさん?」
いつもの確認とは違う視線にエリーはなにか用があるのではと名を呼ぶ。
しかし、クロトは「なんでもない」と言って再び前にへと向き直ってしまった。
――なんなんだ。この妙な気分は……。
◆
木々を抜け、クロトたちの前には一軒の家が見えた。
森の中にぽつんと建つそれは普通の民家とも思えるもの。
今でも誰かが住んでいそうな、なんの変哲もない一軒家を凝視し、クロトは迷わずその家の扉を開ける。
中も至って普通だった。玄関から続く通路。左には広い部屋に右には二階にへと続く階段。
しかし、そこに人の気配は一切なかった。荒らされた形跡もなく、ただ形がけを綺麗に残した家。住んでいた者たちは何処へ行ったのか。それとも、もういないのか。
どちらの考えもクロトにとって疑心がわいてしっくりこない。
もし何者かに襲われ亡き者となっているのならそれらしい痕跡はあってもおかしくはない。かといって今は不在なだけというのも不自然だった。
理由としては鍵がかけられていなかったこと。
不用心に閉め忘れたという考えもある。だがそれを受け入れるというのも納得がいかない。
「……誰もいませんね?」
「そのようだな。ただいないだけか、それとも例の件にやられたか……。とりあえず、お前は下にいろ」
「え……。クロトさんは?」
「上を確認してくる」
それだけを言い残し、クロトはさっさと階段を上がっていく。
仕方なくエリーは通路を進んで左側の部屋にへと入る。
……やはり誰もいない。
生活感のある家具の配置。ソファーなどくつろげる物が置かれ、棚の上には花瓶と花が添えられている。
こんな人の家に勝手に入ることなど未経験なエリーは心が痛む気分だ。きっと悪いことをしているのだろうな、と気落ちしてしまう。
重くなるようなため息を吐く。ふと、エリーは暖炉の上に飾られていた物に目を引かれ手に取った。それは額縁に入れられた一枚の写真だった。家族らしき写真。両親と、子供が二人ほど映ったもの。
「……この家の人たちかな?」
誰もが笑顔に映る写真。背景にはこの家が映り込んでいる。
幸せそうなその一枚に、エリーはどこか切なく眺めてしまった。
――私の両親って、どんな人だったんだろう……?
しっかりとした詳細などは聞いていない。もしかしたら例の崩壊事件で亡くなっているかもしれない。
自分が原因で滅んだ国。そんな自分を彼らはいったいどう思っていたのだろうか。
「……なにしてんだ? お前」
「……っ!」
エリーはつい慌ててその写真を暖炉の上にへと戻した。
切なさ残る表情を隠す。こんな顔をしていてはまたなにか言われてしまいそうだ。
急いで平常に戻そうとするも、それはぎこちない笑みの苦笑にへとなった。
「い、いえっ。なんでもないです……」
「……? まあ、いいか。――んっ」
クロトが腕を払うとエリーの頭上に何かが覆い被さる。
それは乾いた白いタオルだ。不思議と目を丸くさせ、エリーはクロトを見上げる。
「風邪でもひかれたら面倒だからな」
今更だがまだ自分の身が雨に濡れていることに気付く。
クロトも自分用でタオルを使い頭を拭く。見習うようにエリーも自分の濡れた髪を拭いていくことに。
ふわふわとした触り心地。頭に包みながら頬に当てれば温かく少々冷えた肌にちょうどよかった。
「……ありがとう、ございます」
照れくさそうにエリーは微笑む。
その仕草に、またクロトの中でなにかが渦巻いた。
――まただ。
すっかり外は雷とより激しい雨にへとなっている。
正確に動いていた時計は八時を示しておりとっくに夜なのだと知らされる。
「……すごい雨ですね」
「しばらくは此処を動けないか。なんもないし、あの女まさかデマ情報じゃないだろうな……」
愚痴をこぼすほど、今のクロトは不機嫌なのだとエリーは思ってしまう。しばらくは話しかけないでおこうと、激しく打ち付ける雨を眺めることに。
森に隠れる空ではときおり雲の隙間から稲光がカッと光り、暗い周囲を照らす。それを窓から眺めていると、急に雷が大きな音を立ててピシャリと落ちる。驚いたエリーは窓から頭を引っ込めた。
エリーは引っ込んだまま、頭を上げず、
「……くしゅっ」
と、くしゃみをした。
ある程度の水気は取ったのだがこの天候とのせいで肌寒くなる。
タオルはもう濡れてしまい使えず、少し震えた体を抱き腕を擦る。
「……はぁ」
またエリーの頭上になにかが覆い被さる。今度は少し重みのあるものだ。
目を丸くしてそれを取り払い見てみる。それはクロトの赤い上着だった。
「……?」
「言っただろうが。風邪ひかれると面倒だと」
それは一時的に貸すということなのだろうか。エリーは戸惑いつつも従うようにそれを羽織る。
先ほどまでクロトが身に纏っていたせいか温もりがありホッとする。
「あ、ありがとうございます。えへへ……」
クロトの物だと思うと若干の恥ずかしさもある。だが、それと同時に嬉しくもあった。
エリーはまたそうやってクロトの目の前で笑みを見せる。
――なにかが、違う……。
妙な違和感にクロトは不穏と胸をおさえる。いったい何故そんなふうになるのかという謎がクロトを動揺させてしまい落ち着かない。
――なにかがおかしい。なにかが違う。なにかが……間違っている。
こんな気分は初めてで疑心暗鬼というものが体の奥底からしみ出してくる。
怖いという感情が自分にあると思うとそれは腹立たしいことだ。恐れるものなどなにもない。ないはずだ。自分にそんなものは一切ない。そう言い聞かせなんとか心を落ち着かせていく。
だが残る謎だけがどうしても腑に落ちない。
しかし、その謎がなんなのか、その時クロトは事実を深く身の底に刻まれることとなる。
それはエリーの何気ない言葉だった。
「クロトさんって……、優しい、ですよね」
その言葉に、クロトは確信を感じ目を見開いた。
おかしい。違う。間違っている。その謎の正体。違和感の元凶。
理解した途端、クロトの中であるものが湧き上がってくる。
「最初は、ちょっと怖いと思ってましたけど……、それでもクロトさんは――」
嬉しそうに語る言葉。
クロトの中で湧き上がったものが引き金となって、それ以上のエリーの言葉を遮る。
「――なに、言ってるんだ? お前」
「え……?」
細やかな喜びに浸っていたエリーはクロトにへと顔を向ける。
クロトをその視界に収めた時には、エリーの身は床にへと押し倒され組み敷かれていた。
唐突なことにエリーは困惑とし眉を八の字にした。
「……あの、クロトさん?」
近くにいるクロトの表情が灯りのない部屋では見えず、彼がどんな思いでこんなことをしたのかわからない。
覗き込み確認する暇はクロトの言葉で失われてしまう。
「俺が……、優しい……?」
口元を歪めクロトは嘲笑。直後エリーを鋭く睨み付けた。
表情がわかるとエリーは絶句し唇をギュッと閉じて黙り込む。
「俺が、いつお前に優しくした?」
その問いにエリーは疑問を感じた。自分がずっと感じてきたのは、そうではなかったのかと。偽ったことを言ったつもりはなかった。ただ自分が感じたことを口にしただけ。自分にいろいろしてくれる彼の行動は冷たくはあっても「優しい」と感じていた。
だが、クロトはそれを否定する。
「お前は俺のなんだよ? お前は、……お前はただの道具だろうがっ。ただの条件のためのモノだろうがッ!」
噛みつくような発言。ズキッとエリーの胸が痛む。
忘れていたわけではない。クロトにとって、自分はそう見えているということを。
「ただ言うことを聞くだけの、手間のかかるモノだろうが! それなのに、なに妙な気をおこしてるんだよ? なんでお前が俺をそんなふうに思ってんだよ!!」
徐々にクロトの声に怒気が増していく。
確実に彼の怒りをかってしまったのだと理解した。自分が悪いのだとエリーは自身を責めたくなる。
だから、
「……ご、ごめん、なさい。クロトさんを怒らせるつもりは、なかったんです……。ごめんなさいっ」
自分が悪いのなら彼には謝らなければならない。
それ以外になにをすればいいのかわからず、ただ謝ることだけしか思いつかなかった。
これ以上怒らせてはいけない。怖くてもエリーは声を喉から絞り出しなんとか言葉にすることができた。
だが、その言葉すら彼にとっては必要ないモノだったようだ。
「なんだよそれ? ……まるで俺のこと想ってるかのような言い方は」
――想っている?
確かにそれは間違いではなかった。エリーはクロトを気にし、そう言ったのだから。
次にクロトの左手がそっとエリーにへと伸びる。それはしだいに首にへと狙いを定め、瞬時に細い首を捕らえて押さえ込む。
クロトの手がエリーの首を絞める。