「扉の先」
少年の意思は固くあった。
それはこの状況を肯定すること。それが一番だと決めつけ、この状況を維持しようとしている。
しかし、その考えにも迷いがあるはずだ。
強く断言できない発言。肯定の裏にあるものを隠している様にしか見えない。
隠しているのは――本音だ。
エリーでもそれはよく理解できた。
今も少年は言いたい言葉を詰まらせて混乱してしまっている。
少年を追い詰めているのは、この現状でしかない。
いくら黙示を強要されたとしても、黙り続ける事はできない。
「……最初の音。本当はその鎖を外そうとしてたんじゃないんですか?」
動揺した少年は後ろめたいのか目を逸らす。
「どうして繋がれているんですか?」
図星を突かれた少年は黙り込んでしまった。
目を泳がせ、なんと答えていいか、この話題から話を逸らしたいのか。とにかく言葉を必死に考えているのだろう。
何が適切かわからず、焦るあまりに少年はありのままを答えてしまう。
「……っ、母さんが……。母さんが、俺をこの部屋から出さないように……してるんだ……。外は危ないから……。俺が怪我したら、母さんが…………」
母親の愛情。大切な我が子のためなら他者を傷つける事もあるだろう。
だが、その最愛の子を閉じ込める事には納得がいかない。
「でも、外したいんですよね? 出たいんですよね? ……だったら、私がその人に会って話をしますっ」
事の原因である母親が少年を束縛しているのなら、母親をどうにかすれば解決する。
エリーはまっすぐ扉に向き直って迷いなく部屋を出ようとした。
この行動は、少年にこれまで以上の衝撃を与えた。
「――なっ!? 何言ってるんだよアンタ!!」
勢いよく少年はエリーの足にしがみつく。
それはエリーの行動を阻んだ。
「頼むからやめてくれ! ……そんな事したら……母さんが……母さんが……っ」
「危険かもしれませんけど、こんなのやっぱりおかしいですっ。クロトさんは出たくないんですか?」
「――それでもやめてくれ!!!」
この部屋から出る。そのために枷を壊そうとしていた。
自由を望むからこそ、そう行動していたはずだ。それに間違いはないはず。
にも関わらず、少年はその結果を拒んでいる。
強く拒否されたことで、エリーは考えに躊躇が生じてしまった。
「……クロトさん」
ただ言葉が強かっただけではない。
しがみつく少年は、震えた身で……泣いていたのだ。
「頼むから……っ。母さんをこれ以上……壊さないでくれ……。母さんは、俺のために頑張ってるんだ。全部……俺のために…………っ。俺がいなくなったら、母さんが……悲しむ。……だから」
嘘は感じられない。
出たいという気持ちも本物で。母親を悲しませたくないというのも本物で。
複雑に絡んだ想いが、少年の自由を奪ってしまっている。
空気が重い。まるで見えない鎖が部屋を覆い、空間を重く閉ざしている様に、エリーは感じた。
「母さんは悪くないっ。俺がいれば母さんは悲しまなくてすむ。母さんは一人で俺のために頑張ってるんだ。これ以上、この事に関わらないでくれ……」
今。この現状での少年のエリーに求める願いは、関わらない事だ。
部外者なのはわかっている。ただ納得がいかず、無理にこの問題を解決しようとしてしまっていた事に気づけば、これ以上は野暮でしかなく、身を退く事を考える。
少年がそれを強く望むなら、エリーに残されるのはこの夢を終わらせることだけとなる。
「……わかり、ました。すいませんね。余計な事をしてしまって」
その気がなるなれば、少年はしがみつくことを辞めて足を解放する。
エリーも扉に向かう事をやめ、最初に少年にへと向き直り、しゃがみ込む。
「だから、泣かないでください。クロトさんは、とてもお母さん想いなんですね。すごいです」
「……俺は」
「いいんです。それ以上言うのは、クロトさんも辛いでしょうから」
「…………ごめん」
慰める最中、少年は小さく、呟くように謝る。
謝る必要などない。少年はなにも悪くないのだ。
本当におかしいのは、この現状を作り出した者にある。
その答えにたどり着くも、関わらないと決めた以上はエリーにもどうすることができない。
この件に関わらず悪夢を終わらせることができるのか。その事に思考を集中させていた。
それが、自身の危機に気づくことを遅らせる事となるなど、考えもせずに。
考えに耽っていたエリーの思考が、咄嗟に真っ白になる。
なんの事象がそうさせたのか。
刹那の間に、エリーは事の状況を確認する。見た事。聞いた事。何があったのかが。ようやく頭が追いつき、把握した時に呼吸を乱すほどに心拍数が上昇していた。
少年がエリーを自分から突き放したのだ。
それは拒絶とは違う。その場からエリーを逃がすために、少年は自分にある力と、考える暇よりも体を勢いよく動かし、強く突き放す。
エリーのいた場所。床には強く振り下ろされた鈍器が目に入る。
柄が長くある金槌だ。それを振り下ろした者に、自然と視界が動いてしまう。
案の定というのか。なんとなく察しは見るまでもなく付いていた。それでも、認める事は即座とは言えない。
体格は大きく、大人のモノだ。そして、整いきってない乱れた髪を垂れ流し、その者はゆっくりとエリーに向く。
――クロトの母親だ。
まるで……。いや。正にエリーを殺そうとしていた様子。にも関わらず、母親の目に躊躇いはなくあった。
不思議と、前回の最後が脳裏をよぎる。
エリーは頭部に受けた衝撃を思い出し、不意に手を当てた。
前に扉の前で自分を襲ったのは、間違いなくこの母親だ。
そんな光景を目の当たりにした少年ですら、疑いたくなる目で身を固めてしまう。
唸るような息遣いで母親は鈍器を振り上げてゆく。
エリーは呆然とその間を許し、ただ見上げる事しかできない。
次にその鈍器が振り下ろされる先は、自分だとわかっていても。
上がり切った腕。落とされるのは間近。
数秒も経たぬうちに、鈍器の先端が下に傾いた。
「――母さん!!」
振り下ろされる直前。少年の声でエリーは我に返る。
エリーを殺そうとした母親に少年は押す勢いでぶつかり、しがみつく。
「なんでもないっ。俺は何もされてない! だからこんな事しなくていいんだ!」
「……っ。悪い虫が……いるの。虫は消さないと……。奪わせない。二度と私から大切なものを……っ」
「大丈夫だから! 俺は此処にいるから! ちゃんと母さんと一緒にいるから!!」
言葉を投げるも、母親の目がエリーから全く離れない。
おそらく説得も無意味だ。この間もすぐに終わり、凶器が振り下ろされる。
少年はそれを理解したのか、今度はエリーに向け声をはる。
「今の内に帰るんだ! ――早く!!」
その言葉にエリーは解放された扉を見る。
今なら扉から外に出る事ができる。
このまま殺されるわけにもいかない。エリーは足に力を入れ、真っ先に扉を目指して駆け出した。
逃げる背後から迫る死の恐怖。無意識に後ろを振り向きそうになるが、エリーは止まることなく進む。
扉を抜けると同時。頭部を鈍器の風圧がかすめ、エリーは難を逃れ無事にその場から脱出した。
何とか逃れた事にエリーは安堵から絶えた呼吸を取る。
しかし、現状に絶望に似た感覚を得て、絶句した。
一度も出た事がなかった扉の先。そこにあるのは――ふりだしでしかない。
新たな進展があるかと思いきや、進んだ先は一寸の闇。背後には悪夢へ続く扉があった。
「……なん、で?」
クロトの悪夢。それはあの部屋で終わっていた。
他に何もない。あの空間のみがクロトを閉じ込める悪夢でしかない。
その事実は、エリーの絶望感を刺激し、追い詰めてゆく。