「指切り」
炎を纏う羽衣による檻。
はね除けられたフレズベルグは炎に手を伸ばし、羽衣を掴み取る。
イロハの肉体に痛覚は無い。焼け焦げる熱傷という苦痛すらないが、ある程度の熱は肌が感じ取っている。
汗を滲ませ、焼ける手で羽衣をこじ開けようと強く引く。
――これ以上はダメだ……。
冷静の欠片もない。フレズベルグは動揺と焦りを表情に滲ませていた。
「ダメだ……ニーズヘッグっ。それ以上は、本当に戻れなくなる……っ」
熱はしだいに肉体だけでなく、魂にすら届く。
業火の炎。魂すら焼き尽くす地獄の炎。肉体は耐えるも、その炎が完全に内に広まれば……。
此処が終点か……。そう諦めすらフレズベルグにはあった。
燃やされるのが先か。それとも友の過ちを見届けるのが先か。
いっそのこと、このまま燃やされてそんな姿など見たくないとすら、フレズベルグは思った。
その業火に魂を委ねようとすらした時、伸びた炎が退いて行く。
「……っ!?」
同時に、勝手に羽衣はほどけてゆく。
固く閉ざされた中。花開く様に広がると、中心には――ニーズヘッグと、死してないエリーがいた。
クロトの目から雫がぽたりぽたりと落ち、溢れ出す。
それは異様な光景でもあり、当然の様な光景でもあった。
エリーにはわかってしまっていた。鏡迷樹海の時から、この蛇はずっと泣いていたのだと。
「……本当に、姫君は俺より覚悟あんだな。こんな奴に本気で命かけるとか。……馬鹿だって。底なしの善人だって。呆れ通り越して……、だから欲しくなっちまう。こんな俺にも……ちゃんと救いの手を伸ばしてくれるんだからな」
思わず炎蛇は笑った。
自分と全て、過去からの行いに呆れ。吹っ切れてしまう思いだった。
「マジで姫君、クロトの要件が終わったら俺に喰われてくれるわけ?」
「……いいですよ。それで貴方が、ニーズヘッグさんがクロトさんに協力していただけるなら」
少女の意思は硬かった。
確認の問いかけに、エリーは真っ直ぐとした視線をニーズヘッグに向け、揺らぐことなく宣言する。
契約成立か。ニーズヘッグは静かに頷き、エリーの目元に残った涙を拭う。
「ちなみに姫君。質問いいか?」
「……? はい」
炎蛇はニカッと笑う。
クロトの姿のせいか、エリーは途端にそんな表情に戸惑いつつも首肯。
続いて質問を蛇は姫にする。
「――姫君。死ぬの怖いか?」
「……え。私は」
「返事は二択。怖いか、怖くないか、だっ。どうなわけ?」
死を約束された契約。
それに決心が付いたはずが、蛇から出されたのはその決心に微かな揺らぎを生み出す。
「…………それは、確かに怖い……ですけど」
誰だって死は怖いもの。エリーにはその考えがある。
恐怖の欠片が微塵も無いなど、そんな馬鹿げた話はない。と、断言できるほどだ。
答えに炎蛇は鼻で笑う。
そして、目元を拭った手は少女の頬に滑り、むにっと軽くつねった。
「……っ???」
「――だったら自分から死んでもいいなんて言うなっ。俺との取引材料だろうが、その覚悟だけで俺はいいっての。……まじ負けた。むしろ、スッキリした感じだ。姫君の願い、確かにこの【炎蛇のニーズヘッグ】が聞き入れた」
「それ……って……」
「姫君のため、そしてクロトのために【炎蛇のニーズヘッグ】は無償で力をかそう。約束する」
次に差し出された手。それは小指を立てていた。
目を丸くしたエリーは、無意識にその小指に自分の小指を重ねる。
子供でも知っている、指切りという約束の行為。言葉と、その身で交わした証が視界にはあった。
「悪魔との約束は絶対だ。保証しといてやるぜ、姫君」
「――そうか。なら私にも詫びの一つあってもよいのではないか?」
パッとほどける指。
ニーズヘッグの背後では手を唸らせるフレズベルグが。
背筋に走る寒気と、押し潰さんばかりの圧。それにニーズヘッグは肩を跳ね上がらせる。
嘘をつかない程度の言い訳を考えようとするも、待たずにフレズベルグの手は蛇の頭を鷲掴みで捕らえていた。
「え~っとぉ……。マジでゴメン……ってぇ、言ったら許してくれるか?」
「ほう? お前の中の私はよほど寛大なのだな。――潰す」
「本当にやめてください!」
腹をくくり、ニーズヘッグは大きく深呼吸をする。
「……とりあえず、お前に一番心配かけたのは事実だよな。50年……、いや、合わせて100年近くか。全部俺の弱さが成した事だ。お前が俺を今でも友人と思ってなくてもいい。でも俺は、そんなつもりねぇからさ。こんないつでも話せる状況じゃないが、ちゃんと俺はいるからよ。……また俺の事、【友人A】って呼んでくれるか?」
振り向いた金の瞳。言葉と合わせ、申し訳ないとニーズヘッグは思っていた。
今更な事だ。幾度かの忠告も聞かずに、状況を悪化させたのはニーズヘッグである。
それが今では、一人の少女により会心した。
人間にとって長い時間曲げずにいた炎蛇の心は、今やっと曲がり角を見せた。
悪魔にとっては些細な時間なのに、フレズベルグにはそれがようやくと、長くも感じたものだ。
憤怒と同時に、安心すらした。
「それは今後のお前しだいだ。……お前からした約束だ。お前の性分くらい、付き合いの長い私が一番よく知っている。だから、……信じる事としよう、愚かな【友人A】」
するり、と。フレズベルグは手を滑らせ落ちる。
続いて、エリーにへとわずかに首を傾ける。
「人間の考えは理解に苦しむが、今回ばかりは感謝する姫。こんな馬鹿な愚か者すら、救おうとするのだからな」
「……私はそんな特別な事はなにもしてませんけど?」
エリーにはなんの自覚もない。ただ思っただけの行動にすぎず……。
「それでもいい」と、フレズベルグは言う。
ニーズヘッグは二度とエリーを襲わない。そして、今後もその力をクロトに貸すだろう。
クロトとエリーを阻む障害は消え、別れる必要がなくなった。
解決したと思えたが……。
「だが、ニーズヘッグ。お前は魔力が今ろくに使えん。どうするつもりなのだ? 明らかな戦力外も邪魔でしかないのだが……」
「んん~、どうっすか。魔界に行けば回復は早いと思うが、こんな体で行けば即狙われるしな。……一年ほどか?」
「知らん。とりあえず、一年はかかるだろうな」
「難儀……」
そこからはニーズヘッグの魔力をすぐに回復させる方法だ。
それが叶わなければ、別の意味で切り離されてしまう。
「……ち、近くに弱い魔女でもいないか? ちょっと喰ってくるっ」
「いたら苦労はせんし、やめろ。やはり手っ取り早いのは魔界に行く事か。しかし、我らだけでそれを決めるのも難があるぞ」
「俺、あの電気女に頼むの嫌なんだが」
「私もだ」
ニーズヘッグとフレズベルグの勝手な行動はネアの怒りを買う。
それを見越して更に頭を抱える悪魔二体。
それならと、エリーは自分からネアに話そうかと手を上げようとする。
だがその時。指先にチクリと鋭い痛みが走る。
何かと目を向けてみれば、右手の人差し指の先から赤いモノが。
気付かずに、エリーは指先を切っていた。
ニーズヘッグに襲われた時か、それとも窓ガラスが割れた時か……。
大した傷ではないが、気付いてしまえば痛みがじわじわと感じられる。
小さく「痛い」と呟くエリー。
その姿を見ていた二体の悪魔は声を揃える。
「「――それかっ」」
ピクッ、と。エリーは跳ねる。
いったいどのことだと、首を傾ける。
「フレズベルグ、これはありなのか?」
「あり……と言ってよいのか……。しかし、確証はないが……」
「……あの。なんの話ですか?」
不安なエリーは置いてけぼりになりそうになる。
「姫君の血肉で魔力が得られるなら、血だけで魔力を回復できないかって事だ」
「呪いの力は認めているが、その辺の確かな情報はない」
「とりあえず試してみるか?」
「決めるのは姫だろう」
「私は、大丈夫ですよ? ちょっとでいいんですよね?」
「一応は。……じゃあ、姫君」
ニーズヘッグはエリーの右手をとる。
指先から伝う鮮血。少し吸い出す程度は可能だ。
小さな手を握り、口元に近づけようとするも……、ニーズヘッグは戸惑う様な姿を見せる。
「……やばい。真剣な場面なのに、なんか興奮してきたっ」
息を荒げ、顔も赤い。ただ指先から血を吸うだけなのに、発情する炎蛇に、心なしかエリーは引いてしまう。
「くだらん事言わず、とっととやれ。姫に迷惑だ」
「あー、はいはいっ。姫君、ちょっと吸うぞ……?」
少女の指先を口に含み、呼吸を整えて吸う。
血の味が舌に伝わり、喉に流れ込む。
なんの変化も感じられず、一瞬「ダメか」とすら思えた時。
――ニーズヘッグの心臓が、その時強く跳ねる。