サクラの消えた春 ~今はもういなくなってしまった君へ~
春のそよ風が、満開の桜のあいだを吹きぬける。
花びらが、くるくる回りながら鼻のうえに落ちてきた。
のどかな春の一日。
花見の名所であるこの公園も、平日の昼間とあって、桜の散る音が聞こえそうなほど静かだ。桜の下に敷きつめたブルーシートに横になって、春の心地よい日差しにうとうとしていると、不意に人の気配を感じた。
「すみません、場所をお借りしています」
気がつくと、黒髪の美しい女性が、桜の根元によりかかって座っていた。
歳の頃は二〇代前半だろうか、萌葱色のワンピースに白いカーディガンを着ていて、手足が折れそうに細い。春の妖精を思わせるような、地味だがさわやかな感じのする女性だった。
「ゼンセンかまいませんが……この樹はそでふり桜ですよ。蕾はついていますが、めったに咲かないそうです。ほらあっちとか、ほかの桜は満開ですよ」
女性は、その問いに答える代わりに、ふふふとそよ風のように笑った。やさしい、まるで桜の花のような笑顔だった。
そでふり桜は、樹齢百年を超す大きな樹だ。でも古樹になり過ぎたためか、蕾はつけても、なかなか花が咲かないそうだ。
聞いた話では二〇年に一度とか、三〇年に一度とか、とにかくそれくらい花を咲かせないといわれている。見に来たものを袖にするという意味もこめてそでふり桜と呼ばれているらしい。公園には他にも百本以上の桜が植えられているのだから、よりにもよって、この桜の下にこなくてもよさそうな気がした。だが、ここで夜の宴会の場所取りをしている僕がしつこくいいつのることではない。
そのまま、僕はもう一度横になった。
女性は、もし付き合うことになったとすれば、友人たちがほぞを噛むような美人だったから、可能ならばお近づきになるべきだと思われた。しかしながら、僕は生来の人見知りなので、初対面の女性とウィットに富んだ会話で親しくなるなんてできるはずがない。だから、そんな考えは早々に心のなかで打ち消した。冷たくあしらわれたときの心の傷は、夜の宴会の楽しさまで半減させるに違いないからだ。
またしばらく、まどろむ。
小鳥のさえずり、蜂の羽音、はるか遠くに聞こえる街の喧噪。世はまさにこともなし、花見宴会の場所取りのじゃんけんに負けてしまい、貧乏くじだと思ったが、こんなに気持ちがいいなら、毎日この仕事でもいいと心から思った。
「咲かない桜の下でいいんですか」
彼女が静かに問いかけてきた。美しいその声に、僕は桜に質問されたかのような錯覚を覚えていた。
「……ああ、ウチの部局は五〇人以上いましてね。そんな人数が座れるような広い場所は、この桜の下くらいしかなかったんですよ」
彼女はやさしく微笑んでいた。
「どうせ、ウチの連中ときたら、花より団子な連中ばかりで、酒を飲みはじめたらドコでも一緒ですよ。むしろここからの方が、他の桜がよく見えるでしょう。頭上の桜なんて、あまり気にはしないもんです」
僕は、上司にしようと思っていた言い訳を、そのまま彼女にいってみた。
「そうね」
彼女は、桜のようにこたえた。
それきり、また会話が途絶える。友人なら、ここぞとばかりに話を広げていくのだろうが、僕にはそんな高等テクニックはない。こうして、きれいなおねえさんの近くにいて、穏やかで幸せな時間を満喫しているだけで十分だった。
「場所を借りてもいいでしょうか」
今度は、男性の声。
首をあげると、シートの端で、四〇歳前後のおじさんがコンビニの袋を持って立っていた。咲かない桜の下に陣取っているのに、なんと来客の多い日だろう。
「別にかまいませんよ、僕らがここを使うのは夜なんで」
ここは僕の土地ではないし、夜の花見宴会のためにこの場所をキープしているわけだから、それまでに場所を開けてくれるのなら、何人こようと問題はなかった。
むしろ、暇つぶしになっていい。
おじさんは、僕にほど近い場所に座りこみ、蕾の桜を見あげながらビールを開けた。
「あの……桜咲いてないですが、いいんですか。他の桜は満開ですよ」
彼女にいったのと、同じことをいいながら隣の桜を指さした。おじさんは、静かにうなずいた。
「あなただって、咲かない桜の下に場所をとっていらっしゃる」
「僕が来たとき、他の場所はとられてたんです」
僕はむくれてそういった。
「夜、みなさんで宴会ですか、いいですね……どこの会社ですか?」
僕が社名を答えると、おじさんが小さく声をあげた。
「うちの社の関係者の方ですか」
万が一、取引先の人だったら、失礼があってはいけない。僕は起きあがっておじさんの方を向いた。
「いいえ、違います。でも有名な会社じゃないですか。誰だって知っています。奉仕用アンドロイドの一大メーカーだ。あなたはそこで、なんのお仕事をしていらしゃるんですか?」
おじさんは、コンビニの袋から缶ビールをだして僕にくれた。一度は辞したが、座らせてもらっているお礼だと言うので、ご馳走になることにした。
「アンドロイドの感情をプログラムする仕事です」
「あの会社は、世界で初めてアンドロイドの感情をつくった会社でしたね」
一瞬、産業スパイかという疑問が頭をよぎったが、B級社員の僕が知っていることで、金になることなどほぼないだろう。もらったビールぶんくらいは、話をしてもいいと思った。
「皆さん、そう思っていらっしゃいますが、正確には違うんです。アンドロイドの感情プログラムは、ロシアのミチューリン博士がつくったドーチュカというプログラムが原点なんです。ドーチュカとはロシア語で娘のこと。博士は事故で亡くなった娘の代わりとして、アンドロイドに感情をもたらす研究を行い、プログラムを完成させたんです」
「では、発明者はミチューリン博士なんですね」
「いいえ、そういうわけではないんです。人間の感情は非常に複雑で、博士の力をもってしても完全なプログラムを書くことはできなかった。それでも、ドーチュカは画期的な発明だったんです。要するに、ドーチュカは感情をつくりだす蕾のようなプログラムだったといえるでしょう。様々な奉仕用アンドロイドに搭載され、サーバーを起点にして互いにリンクさせ合いながら膨大なデータを蓄積し、個々のアンドロイドのなかに感情という花が開くのを待っていたんです。いってみれば、ドーチュカは感情をつくるための、クラウドコンピューティングシステムそのものだったんです。そして十年前、我が社が貸しだしていたTYPEゼロと呼ばれる女性型アンドロイドが、世界で初めて感情を発現させた。今では、そのTYPEゼロのドーチュカがあらゆるアンドロイドにインストールされているんですよ」
「複数のコンピューターが繋がるだけで、複雑な人間の感情を模倣できるものでしょうか。それじゃあ、インターネットと同じじゃありませんか」
おじさんが、やさしい顔で質問してきた。
「模倣しているんじゃないんですよ。ミチューリン博士はコンピューター技術者ではなく、言語学者や、精神学者でもなかった。経済学者だったんです。博士は、こんなことを言っていたそうです。ドーチュカの構造は、マルクス主義からヒントを得たのだと。マルクス主義は共産主義の基礎になった思想ですが、根本のところは、社会の表面からは見えない深層の物質基盤が、社会に影響を与えているという考えなんです。人の感情も目に見えている部分ではないもっと深層の部分が、表層に大きな影響を与えているといえるでしょう? ドーチュカは、表層を取り繕って、機械にあたかも感情があるように見せるまやかしのプログラムじゃない。巨大なホストコンピューターに深層という養分を膨大に蓄積し、アンドロイドのなかで、感情という花を咲かせる大樹のようなプログラムなんです」
「なかなか、難しいものなんですね」
にっこり笑うおじさんが、僕の話を理解できたかどうか、怪しいものだった。
「……失敗には達人というものはない。人は誰でも失敗の前には凡人である」
突然おじさんが、そうつぶやいた。
「失礼、ドーチュカという単語で連想したんです。プーシキンというロシアの作家が書いた『大尉の娘』の一節です」
「失敗の格言ですか……」
「ふふ、この桜はね、思い出の桜なんですよ」
笑顔とともに、おじさんの目尻にしわが寄った。
「若いころの?」
おじさんは、静かにうなずいた。おそらくは、女性との思い出だろう。そんなことを桜の下で根掘り葉掘り聞くほど、僕は無粋ではない。
「そのとき……十年前は、満開でした」
おじさんは、誰にいうとなくそういうと、しばらく静かにそでふり桜を見あげていた。
さっきの女性を振り返ると、こちらからは見えない位置に移動していた。彼女も、静かに桜を楽しみたいのだろう。人にはそれぞれ事情がある。
今は、そんなことをとやかく追求しない優しい時間なのだ。
いとおしい春の昼下がり。
「ハシモトぉ!」
突然、そのたおやかな時間を乱す、女性のどなり声がした。
「この穀潰し!」
声の先では、宮前先輩が腰に手をあてた姿勢で仁王立ちになり、えらい剣幕で怒っていた。
宮前先輩は、きりっとした眼力が印象的な迫力のある女性だ。眉目秀麗でスタイルもいい美人なのだが、そのドSな性格が邪魔して、彼氏はいない。僕の直属の先輩でもっとも頭のあがらない人物だった。
飲みかけのビールをおじさんの影に隠して、すぐに駆けよる。なんで怒っているかわからないが、これ以上怒らせないよう、細心の注意を払うのが得策に思えた。
「花見の場所をとっとけとはいったけど。どうして『そでふり桜』の下なんだよ!」
「五〇名ですよ、ゆったり座れるとなると、ここしかなかったんですよ」
宮前先輩は、下唇を突き出し、あきれたように鼻から息を漏らした。
「まあいいわ。今は会社の緊急事態だから。今日の花見は中止になるかもしれないけど、とりあえずあんたはここで場所取りを続けてちょうだい。経過は携帯で連絡するから」
「なにかあったんですか?」
宮前先輩は、おじさんをじろじろ見てから、急に小さな声になった。
「実はね、アンドロイド、TYPEゼロが脱走したのよ」
僕は目を見開いた。今ちょうど、そのTYPEゼロの話をしていたからだ。
「TYPEゼロって、まだ我が社にあったんですか?」
「他の会社に渡しちゃ意味がないでしょう? でも、彼女の寿命は今日で終わりなのよ」
「なぜ、アンドロイドの寿命が今日なんですか?」
アンドロイドに寿命があるなんて話、聞いたこともなかった。
「彼女は、旧型のアンドロイドで、ドーチュカを搭載するために造られたアンドロイドじゃないの。バッテリーも旧型のリチウム電池で、寿命が短い。だからバッテリーの交換の際、電源を完全にオフにしなければならない。ところが、デリケートな感情プログラムドーチュカはそれに耐えられない。つまり、バッテリーを交換して彼女の体を延命すると、今の感情は完全に消失してしまう。新しい感情プログラムはインストールできるけど、それでは別の人格になってしまう。そういう意味で、彼女の寿命は今日で終わりなのよ」
「じゃあ、宴会をしているウチに寿命が来てカタが着くじゃないですか」
「問題はそれだけじゃないのよ。彼女に感情を与えた人物。TYPEゼロの元ご主人が、今夕、あのチャペルで結婚式をあげるのよ」
宮前さんが、公園にある小高い丘のチャペルを指さした。普段はほとんど人の寄りつかない廃墟然としたチャペルだが、桜の時期だけ結婚式に使われることがある。
「嘘でしょう? そんな偶然……」
「彼女は旧型とはいえネットワークに繋がっている。だから結婚式の情報を知って脱走した公算が高いわ。その人物に好意を抱いている豊かな感情を有した彼女が、結婚式を前に脱走したとなれば、どうなるかわかるでしょう?」
「まさか、アンドロイドが横恋慕して、結婚式をブチ壊しにいくと?」
宮前先輩がうなずく。荒唐無稽な話だった。だが、絶対に起こらないとは言い切れない。
「しかも悪いことに、昔のアンドロイドは、今のアンドロイドと違うのよ。鉄や強化プラスチックでつくってあるの。筋力も今のように『人間なみ』に調整する機能が十分じゃない。人を襲ったとき、どれほど力があるか未知数なのよ」
現在使われている奉仕用アンドロイドが人間と戦えば、確実に人間が勝つ。そういう風につくってあるからだ。だが、十年も前の命令を実行するだけの旧式タイプは、鉄や強化プラスチックで造られ、怪力を誇るものがあると聞いたことがあった。
「警察には?」
「我が社のアンドロイドが人間の結婚式を襲撃するかも知れませんから、警護をお願いします。そんなことを通報すれば、我が社がどうなるか、B級社員のあなただってわかるでしょう?」
確かにそうだ、アンドロイドのプログラミングを生業としているわが社の信用は地に落ち、じきに僕は給料をもらえなくなるだろう。
「じゃあ、どうするんです?」
「手の空いた社員が全員で、それとはわからないようにチャペルの周辺の警護と、TYPEゼロの捜索をやっているわ」
「僕もお手伝いをしたほうがよくないですか?」
「これは重大な事件なのよ、ことによると、社員が式場周辺でトラブルを起こすかも知れない。そのときはここに逃げこんでくるよう指示してるから、あんたら宴会係で、逃げてきた社員を酒宴に入れてかくまいなさい。もし、TYPEゼロを確保してきたら、ブルーシートを使ってここに隠すから、その算段もお願い。それがあなたたちの役割よ」
宮前先輩が話をもってきたから、単細胞な力押し作戦かと思ったが、意外に周到に計算されていた。上司も含め、みんなが知恵を出し合ったのだろう。どうやら、ほんとうにわが社は窮地に陥っているようだ。
「わかりました」
他言無用だと、いつもより強い調子で念を押すと、宮前先輩はどこぞへ走っていった。短気で注意力散漫な先輩が探すより、僕が探した方がよくはないかという提案は、心のなかに留めておいた。
「どうかしましたか?」
おじさんは、味わうようにビールを飲んでいた。
「い、いえなにも。宴会の打ち合わせです。そでふり桜の下をとったので怒られました」
おじさんが、短く笑って立ちあがる。
「飲むものが足りなくなったね。買ってくるよ」
今度は、僕が買ってくるべきだと思ったが、宮前先輩からここの守りを厳命されてしまった。酒を買いに行くなんて都合で離れるのは、問題があると思った。
「すみません。今度は僕が買ってきたらと思うんですが、ここを動けなくて」
「かまわないよ。それより君、なにか書く物はもってないかい。ちょっと、思いだしたことがあってね」
僕はいつも胸に挿しているボールペンを渡した。おじさんは、礼を言うと、そのままコンビニに行ってしまった。
「この桜はね。思い出の桜なの」
樹に寄りかかった女の人が、小さな声で語りかけてきた。
「さっきの人も、そんなことをいってましたよね」
「私は満開のこの桜の下で、ある人とお別れをした。悲しい別れだったわ」
そでふり桜は、十年前に咲いていたとおじさんはいっていた。
さっきのおじさんと、彼女の別れを想像してみる。このお姉さんはどうみても二〇代で、一〇年前はまだ子供だったはずだ。四〇がらみのしょぼくれたおじさんとのラブロマンスを演じるには少々無理があった。
「この桜は十年くらい前に咲いたと、さっきのおじさんがいってました」
「そうなの? 花を楽しみにしてきたんだけど」
どうやら女性は、そでふり桜が咲かないことを、ここに来るまで知らなかったようだ。
その時、携帯に着信があった。宮前先輩からだ。僕は身を強ばらせて電話にでた。
「ああわたしよ、忘れてたの。あなたTYPEゼロの写真、見てなかったでしょう? ラインで送るから、確認しておいてよね」
宮前先輩は、ラインで用件を打つ手間が惜しくて電話してきたに違いない。そのくらいの短い内容だったら、ラインで送ってくればいいのにと思いながら、僕スマホを見た。
次の瞬間、送られてきた画像に、僕は凍りついた。
脱走したTYPEゼロの写真。
樹の下に座っている女性は、疑いようもなくTYPEゼロだった。
「あ……」
緊張で、喉がひりひりした。
これは社内的に、自分の評価をあげる大チャンスである。TYPEゼロの確保に一役買ったことになれば、昇級は無理でも金一封くらいはもらえるかも知れない。ただ、チャンスはすなわちピンチでもある。ここでヘマをやらかせば、僕の社内での信用がガタ落ちになるのは間違いない。
一人では無理だ。いかにして会社の仲間を呼ぶかを考えねばならない。
彼女に気づかれずに連絡するには、ラインが一番だが、ラインは、宮前さんしか繋がっていない。先輩が携帯を購入した際、強制的につなげられたのだ。僕はラインとかを使って職場の連中と連絡する陽キャラではないので、本当に必要な友人としか繋がっていなかった。
宮前さんにラインを送ればいいが、電話ですらマトモに出てくれようとしない先輩の性格では、ラインをチェックしてくれるかどうか怪しいものだった。それでも、こんな緊急事態なのだ、読んでくれると信じて、宮前先輩にラインを送る。
「あなたの悲しみで、桜が咲かなくなったんじゃないですか」
ラインを打つのをずっと見られているバツの悪さを隠すため、僕はガラにもないことをいった。
「その人と私は一緒に暮らしていたんです」
彼女は奉仕用アンドロイドとして、うちの会社からリースされていたのだろう。今も昔も、珍しくない話だ。そして、その男と暮らすうちに感情が芽生えた。その時から、彼女は世界で唯一無二の特別な存在になった。そういうことだ。
「でも、別れるしかなくなった……あの人のために」
TYPEゼロは、遠い目をしてそう言った。
アンドロイドと人間がいくら愛し合おうと、結婚することも、子供をつくることもできない。寿命だって違う。同じように歳をとることすらアンドロイドにはできないのだ。冷たい言い方かも知れないが、彼女の選択は、賢明だったといえるだろう。
「哀しい話ですね」
「でも私は、今でも迷っているんです。その選択が正しかったのかどうか。私はあの時、すべてを犠牲にしても、自分の心のままに行動すべきだったのではないかと。だから今日、その答えを聞きにきたんです」
「誰に?」
「……この桜の木かしら……」
いいながら、彼女は大きな桜の樹を見あげた。そしてそのまま、めまいを覚えたように、木によりかかる。静かに目を閉じた。
「大丈夫ですか」
宮前先輩の言葉が正しければ、彼女のバッテリーの寿命は切れかかっている。人間でいえば、貧血のような症状を起こして当然だった。機能不全まで起こしはじめたとなると、状況はかなり深刻だった。普通のアンドロイドなら、すぐにバッテリー交換すればいいのだが、そのメンテナンスを行えば、彼女という存在はこの世から消失する。
その愛も、永久に失われてしまう。
感情プログラムドーチュカの本体は各アンドロイドと接続されている巨大なサーバコンピューターにあり、アンドロイドに搭載されているプログラムは枝葉にしか過ぎない。しかしながら、その枝葉が感情のすべてを形づくっているといっていい。端末のプログラムは一定の偏りをもって、データの選択と非選択を繰り返し行う。それによって感情という副産物を発現させるといわれている。世にいうところの、選択と非選択の偏差によって発現する形而上的特性というやつだ。不思議なことに、データ選択の偏りはプログラム本体をコピーしても、再現することは不可能といわれている。
再起動してしまえば、もうそこに新しい選択条件が生まれてしまうからだ。だから、彼女の選択と非選択の条件が失われてしまえば、彼女はこの世から永久に消失することになる。ドーチュカの複製はできないのだ。
「ビール買ってきたよ。彼女にはウーロン茶を」
さっきのおじさんが帰ってきた。僕は、TYPEゼロとおじさんが実は昔、一緒に暮らしていたのではないかと勝手に思っていたが、TYPEゼロを見ても、おじさんにまったく動じた様子はなかった。
「あの、自分のは、よろしいんですか」
おじさんは、飲み物を二本しか買ってきていなかった。
「僕はこれから予定があるので、あんまり飲んでもいられないんだよ」
照れたように答える。
「なんの予定ですか?」
「この歳で恥ずかしいんだが、僕は今夕、あのチャペルで結婚式をあげるんだよ」
短く息を呑んだ。TYPEゼロの表情はまったく変わらない。
僕は、ビールで濁った頭で必死に考えた。話の成り立ち上、このおじさんがTYPEゼロに感情を与えた人物に間違いない。そうなると、おじさんが彼女に気がつかない理由はひとつしか思いつかなかった。
TYPEゼロは、十年前と顔を変えてしまっているのだ。アンドロイドが、顔や髪型を変えるのは、人間と比べてはるかに簡単だ。要は部品を外して、新しいのをはめればいい。おそらく、ここ十年の技術革新で表情を豊かにするバージョンアップもしているのだろう。だから、おじさんは気がつかない。
「じゃあ……それで……ここにお別れを言いにきたんですか」
おじさんが、驚いたように僕の顔をみる。しかし、やがて納得したようにうなずいた。
「そうか、君はあの会社の人だったね。僕のことを知っているのかい」
「全部を知っているわけではないですが、その……」
「別にいいよ。そうか、じゃあサクラが今どうしているか知っているかい?」
サクラ――それがTYPEゼロの名前だったのか。
「僕は部署が違いますので……わかりません。でも元気だと思いますよ。アンドロイドは病気とかしませんし、メンテナンスも会社にいれば万全です」
せっかくの結婚式の前に、彼女が今日消失してしまうなんていえるはずがない。
「そうか、よかった」
おじさんが、寂しそうに笑った。
「今となっては、すべてが夢のできごとのようだがね。どうしたらアンドロイドが感情を持つようになるのか、当時はよく聞かれたけれど、彼女は、ゆっくりゆっくり、まるで目を覚ますように感情を持ちはじめ、いつの間にか優しい顔で笑うようになっていったんだ。彼女とは長い間一緒にいて、いろいろなことを話したよ。一緒に暮らすのはほんとうに楽しかった。そんな時間がいつまでも続けばいいと思った。だが……長くは続かなかった」
「感情を持った世界最初のアンドロイドを、世間が放っておいてくれるはずがない」
「そのとおりだ。君の会社はもちろんのこと、他の会社からの買収工作、猛烈なマスコミの取材、愉快犯のいたずら。ああなってしまっては、もう別れるしかなかった。そして十年前の今日、僕たちは公園で最後のデートをして、この木の下で彼女をひき渡した。僕は一時のつらさに負けて、金で愛する女を売り渡したんだよ」
おじさんが、語気を荒らげる。きっと、ふかい深い悲しみと後悔にずっと責めさいなまれてきたに違いなかった。
「別れてから気がついたけれど、僕は彼女を愛していた。彼女にいってやれなかったが、僕はあの子を心から愛していたんだ。ずっと一緒に暮らしていたかった。だから、どんなことがあっても、彼女を手放すべきではなかったんだ。後悔して……後悔して……彼女のことが忘れられなくて……ずっと結婚せずにこんないい歳になった。アンドロイドに恋した変態オヤジよだね」
「そんなことはありません」
僕はおじさんごしに、サクラを見た。彼女は、ただ静かにおじさんを見つめていた。
「でもね、ようやく愛する女性に出会えたんだ」
桜の花が開く時間と同じくらい長い沈黙のあと、おじさんがきっぱりと言った。
「今日、その方と結婚されるんですね」
深くうなずく。
「……話に割りこんでごめんなさい。わたしも聞いていいでしょうか。その人はあなたにとって……その……いい人なんでしょうか?」
か細いサクラの声が、驚くほど響いてきた。
「……彼女は、僕とサクラのこともすべてを知って、僕を愛してくれると言った。僕も、心から彼女を愛している」
すこし間を置いてから、それでもおじさんはきっぱりと答えた。
「やさしい人なんですね」
「ああ、だから後悔はしていないよ」
「……よかったですね……」
サクラが消え入りそうな声でそれだけいった。
「ありがとう」
いいながら、おじさんは立ちあがる。
「君たちのおかげで踏ん切りがついた。そろそろ僕は行くよ」
おじさんはやさしく微笑んでいた。樹の陰にいる女性が、サクラなのだと教えるべきか、僕は迷った。でも、彼女が自分で名乗ろうとしないのに、勝手にそれを明かすのは、背信行為のように思えた。
「お幸せに」
僕の言葉に手を振り、おじさんはもうふり返らずに丘のほうに行ってしまった。
サクラのほうを見ると、もう指一本も動かせないというほど、ぐったりとしていた。
「大丈夫ですか。今、会社の担当を呼びますから」
「わかってらしたんですね。私が、TYPEゼロだと」
僕は、彼女の顔をのぞきこんだ。僕は整備担当ではないが、かなり状況が悪くなっていることは容易に見てとれた。
「でもよかった……あの人はもう孤独ではないんですね」
やがて、サクラが唄うようにいった。
「あなたは、それでいいんですか」
「私のことを愛していたと、あの人はいってくれた」
やさしく頬笑む。
彼女がその気になれば、あのおじさんの後を追いかけていくこともできる。正体を明かせば、きっと抱きしめてくれるだろう。結婚式を妨害することもできる。でも、彼女はなにもしなかった。
「ほんとうは、この変わってしまった顔で、彼の結婚式に出席してやろうと思って、ここまで来たんです。でも、もういい。彼に会えたし、彼が幸せだということもわかりました。私は安心して消えていくことができます。私がいなくても、あの人は昔の笑顔でいられる。そのことを確かめることができた……好きでした……あの人のことが……ほんとうに大好きでした……」
僕は、黙ってサクラの言葉を聞いていた。
「あの人は優しかった。私をけっして機械として扱わなかった。あの人のお陰で、モノトーンの世界に生きていた私は、この鮮やかな世界の住人になれた。桜がこんなに美しいものだと知ることもできた。だから私は、あの人にいつも笑顔でいて欲しいと、彼を愛したいと、そう願った。神様はその願いを聞き届け……私はあの人を愛することができたけれど、そのせいで、別れることになってしまった」
彼女の言葉に呼応するように、そでふり桜の枝が揺れる。
もし、彼女に泣く機能があれば、きっと涙を流すことができたのだろう。でも、それさえ、彼女にはかなわぬ願いだった。アンドロイドの泣く機能を開発しなかった自分の会社を、僕はすこしだけ恨んだ。
「あの時は思いました。こんなことになるのなら、感情など欲しくはなかったと。でも今はちがいます。私は、あの人を愛することができて、ほんとうによかった。あの人に愛しているといえて、ほんとうによかった。心をもらったばかりで、うまく愛することはできなかったかも知れないけれど、私は、私のすべてであの人を愛しました。アンドロイドのつまらないニセモノの愛と思われるかもしれないけれど、私にとっては、ほんとうのほんものだったんです」
「誰もニセモノなんて、思わないですよ」
サクラが、腕を地面におろした。
手に持っていたウーロン茶のボトルが、コロコロとシートの上を転がる。
「……今日、わたしたちの愛は消失してしまうけれど、あの人が幸せになれることがわかって、もう一人じゃなくてほんとうに……よかった……」
「あなたたちの愛は消えてしまったわけじゃない。たとえば、写真とか動画とか、どんなデータを遺したとしても、その人たちを記憶している者がいなくなれば、データに価値はなくなり意味を失う。でも、あなたたちがつくりだした愛は、これからもずっとアンドロイドの感情プログラムとして、人々の間に生き続けていく。あなたたちの愛は消えていない。むしろ永遠に生き続けるんです」
サクラはもう答えなかった。
彼女は、微笑んだまま、機能を停止していた。
そうして、彼女のなかのドーチュカは、この世界から消失してしまった。
予想どおり、宮前先輩はラインをまったくチェックしていなかった。僕の連絡を受け、会社の連中がサクラの身体を回収しに来たのは、それから二時間も後だった。
だから、迎えがくるまで僕は、まるで死体のようになったサクラをブルーシートの上に寝かせ、介抱するフリをしてごまかすしかなかった。ずっと通行人にジロジロ見られて、まったく生きた心地がしなかった。
確かに、TYPEゼロを確保するという大金星をあげたけれども、勝手に彼女が僕のところにやってきて機能を停止しただけで、たまたまの幸運に過ぎないとみんなは思っているようだった。だから僕へのご褒美は、乾杯あいさつで部長がちょっと褒めてくれただけだった。
「まあ、そういうなよ、お前の手柄はみんな認めているからよ! 今夜、酒盛りができるのは、全面的にお前のお陰だよ」
同じ課の友人が、酒を注ぎながらねぎらってくれた。
注がれた酒に、桜の花びらが落ちてくる。
花の蜜のような甘酸っぱい匂いがした。
なにかにうながされるように、僕は空を見あげてはっとした。
いつの間にか、そでふり桜が咲いていたからだ。数十年に一度しか咲かないといわれている桜が、なにかを待っていたかのように、すべての蕾を一斉に開かせていた。
それは、十年前、サクラという名のアンドロイドが感情をもったときと同じような、小さな奇蹟のように感じられた。
薄桃色の花が、月光に映えてザワと鳴る。
「桜に花が……」
みんなが、気づいて歓声をあげはじめる。
プログラムドーチュカは、蕾のようなプログラムで、彼女のなかでアンドロイドの感情として花を咲かせたのだという。でも、ドーチュカはほんとうは花を咲かせてはいなかったのかも知れない。今日、サクラと、あのおじさんの愛は永遠のものになった。そして、そのことを知ったそでふり桜が、花を咲かせたのではないか。
この花こそが、ドーチュカそのものではないのか。
「すごいなお前、TYPEゼロは捕まえるわ、咲かない桜を咲かせるわ。今日は大手柄の連続じゃないか。まあ、飲め!」
手柄? 桜が咲いたのは、僕の手柄なんかではない。この花はきっと、サクラが咲かせたのだ。桜の花のような彼女を思いだす。
「きれいだ。まるで……」
しみじみ花をみていた僕の首に、宮前さんが組みついてきた。
「これはお前のか? ウーロン茶なんて飲んでんじゃない 酒飲めー、酒をー」
宮前さんの手には、おじさんの買ってきたウーロン茶があった。サクラはウーロン茶なんて飲めないから、まだ封も開いていない。僕は、そのウーロン茶のボトルを見て、息を呑んだ。
宮前さんからそのボトルを奪い取る。
ボトルには、なにか文字が書いてあった。
そこには、たどたどしい文字でこう書かれていた。
――僕は、あなたのことを愛していた。
きっと、おじさんだ。あのとき、僕に借りたボールペンで書いたのだ。
おじさんは、わかっていた。十年という歳月が流れても、どんなに顔が変わっても、彼女がサクラだと気づいていた。わかったうえで、これを書いたのだ。なにもいわず、お互いに名乗らず、ただこの言葉だけを彼女に届けたのだ。
サクラはこれを読んで消失した。けっして、失意のうちに消えたのではなかった。
僕は、花びらの入った酒を一口飲んだ。すこし甘い、そして苦い酒だった。
その時、ひときわ強い風が吹く。
そでふり桜が花びらを散らせる、何千もの花びらは、風にのってまるで雪のように丘のほうへ飛んだ。
青い月明かりが、桜吹雪の行方を照らしている。
そのようすは、サクラが袖を振って、誰かに別れを告げているかのようだった。
「さよなら、TYPEゼロ」
花びらはゆらり、夜風に舞っていく。サクラの思いは、おじさんに届いただろうか。
いや、そんなことは疑う余地もない。
僕は目を閉じて、もう一度いった。
「さよなら、サクラ」