もう一度だけ(2006年~07年ころの物語)
今こうしてノンビリとノホホン顔でいられるのは多分、これから話す絶望があったからに相違無い。私は何が変わったのだろうか、多分世の中を、社会を、信頼出来なくなったのだろう。それでもこうしてノンビリとしていられるのは、今私を支えてくれる数多くの人がいるからだろう。それでも私は信用出来なくなっている。社会情勢不安がそれに拍車を掛ける。
不景気、百年に一度と言われている未曾有の不況、それでも何とか生活出来ているだけでも本来は有り難い話なのだが、景気のいい時はどうだったのだろうか、景気のいい時にこそ私自身は苦労を重ね、お陰で社会を信用出来なくなる迄に至った。そんなある独りの男の話をここではしたいと思う。
~~ふりかえり~~
今こうしてノンビリとノホホン顔でいられるのは多分、これから話す絶望があったからに相違無い。私は何が変わったのだろうか、多分世の中を、社会を、信頼出来なくなったのだろう。それでもこうしてノンビリとしていられるのは、今私を支えてくれる数多くの人がいるからだろう。それでも私は信用出来なくなっている。社会情勢不安がそれに拍車を掛ける。
不景気、百年に一度と言われている未曾有の不況、それでも何とか生活出来ているだけでも本来は有り難い話なのだが、景気のいい時はどうだったのだろうか、景気のいい時にこそ私自身は苦労を重ね、お陰で社会を信用出来なくなる迄に至った。そんなある独りの男の話をここではしたいと思う。
~~以下、物語に入ります~~
「代打、オレ」
と言っていた監督が今秋引退を宣言した。最後の打席はヒットを放った。多分またいつかは復活すると思うし、イチファンの心理としては本当に復活して欲しいと本当に思った。何しろ日本のプロ野球のみならず、アマチュア野球含めての球界を、自らの野球寿命を削って迄守った人なのだから。………私はテレビのニュースでその様子を観て、思わず一筋の涙が零れ落ちた。自らの華やかりし日の事を重ね合わせながら、今の情け無い自分を思って。
件の監督が就任した時、私はある会社の主任に昇格した。社長直下のプレイングマネージャーになったのだ。それ迄も社内的には営業リーダーとして社長と常務の片腕として、小さな会社の切盛りをして来たが晴れてこの春に役付きとなった。この監督が就任して、初のシーズンを迎えたのとほぼ同時期の時だ。メディアでは頻りにこの監督の手腕に対する期待と前年に球界再編で揺れたその真っ只中に居たその事を取り上げて如何にその時の選択が正しかったかを告げていた。そんな流れ、風潮の中で人生で初の明確な役付きであり、自分の裁量をトコトン活かす事が出来る、そんな立場になり当然今迄以上の営業成績と共に管理的な手腕を私も全く立場諸々異なるが、期待されていた。私は私で前年に社長が主導となって行った社内人事、所謂リストラに対してどうすれば効果的なのか、社長にアドバイスをし更には実行役として私自らがクビを言い渡す事迄はしなかったがその一歩手前迄実際に行っていたし更に社内組織再編成にも協力した経緯があった。だからかなり期待されていたのだ。その期待に応えるべく今迄以上に仕事に邁進し、一定量の成果を収めていた。判らないなりにも管理者たるもの何たるか、という事もビジネス書などを読み耽り、また先輩管理職の方からご意見を伺いながら如何にマネジメントをしていけばいいのかを学んで行った。
兎に角毎日が仕事仕事仕事、仕事の連続。
気が狂う程に仕事の連続でかつて、テレビコマーシャルで歌っていた栄養ドリンクの歌ばかりが脳味噌を往復するかの如く仕事の連続、二十四時間ほぼ臨戦状態だった。終ぞ数年前迄自らの身体の事で蛻の殻状態だった私は、そんな事忘れたかのように充実していた。好事魔多し。そんな事も忘れていた。多忙極めたさる木曜日、私の携帯電話に実家から着信があった。
「あー、新二か、ちょっと大変な事になった。一本連絡をよこせ」
と、親父の声だ。珍しいな、何だか普段とは様子が違うな。それに実家から私の電話に何か入るとすればいつもはお袋だ。そうしてそのお袋は体調が悪いながらも仕事に明け暮れる私の事を心配して電話を掛けてくるのだ。でも今回は親父、一体何があったんだろう、そう訝りながら私は実家に電話をした。けれども繋がらない。仕方が無いので親父の携帯電話に電話をした。すると、
「母さんがな、くも膜下出血で地元の高度医療センターに入院した。緊急手術をするらしい。取り敢えず生死がこれで決まるから、心の準備をしておいてくれ」
親父の声はやや上擦っていた。私はその声を聞いて、目の前が真っ暗になるような、否、全身の力が一瞬にして抜けるような、そんな心地を覚えた。場所は京成上野駅の喫煙コーナー。近くの立ち喰い饂飩屋でキツネ饂飩を喰い終わった後だった。会社の喫煙コーナーで吸う煙草が極端に不味く思えた。
それからの私の日常は様変わりをした。
週に二回は持ち廻りで仕事を抜け出し母親の看病に赴く。一旦アパートに戻り、そこで車に乗り換えて郊外の高度医療施設のある病院に赴くのだ。そこで母親の無事を確認した後、兼ねてから不仲であった姉に小言を言われながらも姉の前では苦笑いだけを繰り返し、病院を出て自宅近くに車を置きそうしてまた電車に乗り換え仕事に戻る。そういう生活がずっと続いた。何としても持ち場を離れる訳にはいかなかったのだ。それは主任としての私の意地である以上に、主任になり立てである私が現場から抜けるとどうなるのか、指揮命令系統がグチャグチャになるのが容易に想像が出来たのだ。社長は心情としては理解を示していたが、仕事となると話は別、持ち場も離れていいが、指揮命令系統だけは保て、という一番の難題を吹っ掛けてきた。こっちはそれどころでは無いのに。私にとって苦難以外の何者でも無かった。しかし私の苦難は別の理由にもあった。
それは私は約四年前に自身が脳に関る病気を患い実際に生死を彷徨うような生活を余儀無くされていた。それは本当に先の見えぬ不安と何時又発作が起きるのであろうか、このままの生活を続けていたとしたらば私は私の脳味噌はドンドン縮む一方だから、何時か私は死ぬ、その前に呆けるのでは無かろうか、そのまま死んでしまうのであれば不可抗力だからやむ得ないとしても、中途半端に生きて呆けて正常時と痴呆時とを交錯するような、そんな苦痛だけは御免だ、と思い私は何度か遺書を作っては捨てて、そんな事を繰り返していた。更にコイツのお陰で私は職を失った。それ迄私は一人で某地方三県の営業担当者として広大な土地をグルグル廻っていた、時には車中泊をする事もあったし、一日数百キロと車を運転して、ドライバーズハイとでも言うのであろうか、そんな状況になる事も何度かあった。更には現地で女も作ろうとしたし実際作って振られたりこっちから身勝手に切ったりした。東京に当然彼女が居るのに。
そうしてその土地で私は一定の営業成績を収め、やがてはそこの代表的な土地に支店でも作り、なんて事も目論んでいたし事実として物件を探し始めていた。私が脳の病を起こしたのはその矢先だった。まさにこれも好事魔多し、という状況であろう。更に発病当初私は自らの判断を誤り、選ぶ医者を誤った。何故誤ったかと言えば自らの体力に対する絶対的な自信、これが私の判断そのものを狂わせた。そもそも死ぬかもしれない、という恐怖そのものはあったが、発作さえ起きなければ何ら常人と変わらぬ生活と判断をする事が出来るのだから、ある側面では死ぬかもしれぬ、という恐怖心と共に真逆に何とかなるんだろう、そんな期待もあった。そうして起きたのが後に判明したのだが誤投薬。これによるよる副作用が原因なのか判らないが急速に視力も落ちた。脳の病なのに、視力が衰えるのだから余計に私の感じる疲労感というのは、その酷さを増すだけで兎に角全身に行渡る倦怠感と嘔吐を伴う程の頭痛、そうして朦朧とする意識と幻聴などなど。更にこれは今現在で判った事だがここ最近ニュースで取り上げられたリタリンという薬に関する事件で、私が当初頼りにしていた医者もそのリタリンを患者に渡す、という事に関してある事件の当事者にもなってしまい逮捕されてしまった。私はそのニュースを聴いて戦慄を覚えた。
何故なら私自身、リタリンを投与されていたのかどうなのか、判断が付かないからだ。でも症状から鑑みるとひょっとしたら睡眠薬として渡されていた中のヒトツにリタリンが混ざっていたのかも知れない、しかしリタリンそのものは常用性があると見られているので(覚せい剤と一緒と言われているから)私はその薬に頼る事無く生活をしている事も鑑みると、リタリンそのものは投与されていなかったのかも知れない。何れにせよもう逮捕されてしまい、その病院は再開しないのだから藪の中でしか無い。そのお陰でこの時既に健康な時よりも強く疲労感や倦怠感を感じる、という状況は常に続き欠勤も繰り返していた。この会社の社長はそれでもいいからお前の手腕が欲しい、と請われて入った会社だったから余計にこの母親の事困窮を極めた。困窮する主な理由は私を拾ってくれた社長に対しての恩義と忠義の問題として。更には病そのものがここ数ヶ月で改善の兆しが見え始め漸く恢復に向う、そういった状況にあったのでこの安定は維持したい、意地でも維持したい、そう思っていた矢先の出来事だから困窮しているような有り様で自分でもどうすればいいのか、先の見えぬ不安感ばかりが募っていた。
こうした別の理由があるので私はこの苦難をどう乗り切ればいいのか、皆目見当が付かなくなっていた。その事は見事に体調に影響を及ぼした。仕事やら形だけの看病やらを終えてアパートに戻ると、すぐにトイレに行き嘔吐するように私もなった。酒など呑んでいないのにグニョ、と視界が歪み頭からは何なのかは知らないが妙な脳波信号が送り続けられて、とうとう電車に乗り込む事が出来ずに暫くやり過ごした事が何度か続くようになった。具体的には銀色の何かが見えるのだ。何かが眼前に飛んでいるのだ。これは何も酒を飲んでいる時だけでは無く、夜更かしなどをしたその翌朝もそうで、その後に襲うのが強烈な吐き気、しかし現実に嘔吐出来るのは三回に一回位で、言い知れぬ胸焼けと頭痛ばかりが私を包み込む。ただ幸いにも意識不明になる事だけは無かった。私が意識不明でぶっ倒れる事程私や私の両親、社長が恐れている事は無いのだが、恐らく自分の体質に合う薬を飲み始めた、その成果なのだろうか、このような変な脳波信号は送られてくるが、倒れないのだ。以前、誤っていた薬を飲んでいた私なら間違いなくここでぶっ倒れていた。更に妙なのは、通勤途中のこういった出来事は今迄無かった。何度も倒れて救急車で運ばれる時も通勤途中だけは無かった。恐らくは年齢を重ねるに連れて、どんどん生理機能が衰えている、という証拠なのだろう、或いは今ある現実から私自身は逃避したい、そう思っている気概がこのような事を招くのだろう、私はそう一人合点をしてならばせめて現実から逃げないように、現実を直視するように、と心構えだけは変えた。けれどもやはり通勤・帰宅途中に何だか意識が変わり、自宅迄持つ時と持たない時、両方あった。
けれどもお袋は私よりもっと酷いのだ。
過酷な状況で意識すらままならない、否、生死すらままならなくそうして記憶など勿論無い状態で病の床に臥しているのだ。私がしっかりしなければ誰がしっかりするんだ、私は本気でそう思っていた。この苦難を何とかして乗り越えなければ、私は本当に駄目な男に成り下がる、そうも思って一人で根を詰めていた。根を詰めなければやっていられないのだから。当然の如く会社からは成果だけを求める。部下の面倒も見なければならない、上司へのあーだこーだもしなければならない。そうしていると一体自分自身は何の為に仕事をしているのか、段々蓄積される疲労と共に、見失いかけるようになっていた。資本主義経済を、否、成果主義というここ数年で新しく入って来た今迄は皆判っていても口には出さない方式を採用しているこの国のシステムそのものを、憎まずにはいられなくなっていた。私は私の心棒を見失いながら。
私の心棒、それは自らの小説作品を出す事が出来ないか、発表する場は無いのか、と思っていた事だ。しかしながら中々才能が無くいっかな箸にも棒にも引っ掛からない。小説を書きたい、人の心が豊かになるような、そんな小説を自らの手で創り上げたい、そう願いながら、どうしても書く作品は絶望的な物ばかりで自らの作品であり、皮肉めいた作品ばかりが何時の間にか出来上がる。例えばそれは自身が文章のトレーニングと称して始めたブログなので。そうして私は自らの才能に絶望していた。それでも何とか明るい作品群を幾つか作り上げ、そうしてそれを作品集としてまず、自費出版してみよう、そう思い始めてからそれ迄の自堕落な金の遣い方を改めて貯金をし、そうしてコツコツと貯め込んだ金だけが自分の預金通帳に残った。しかしどうやらこの度のお袋の件で全部吹っ飛ぶ事が確定していた。それは親父と話をする迄も無くもう私の中で決めていた事だったから。
また、私にはもう一つ心の支えとしていたものがあった。野球である。と言った所今は週末だけやる草野球が私の心の支えである。サラリーマンを気が狂う迄しながらやる野球はこれが限界であるのと同時に、元々社会人野球などには進める程の実力など全く持ち合わせていない私には、いっくら大学の硬式野球部、しかも一部に昇格を果したチームに所属していたとはいえ、草野球程度でしか野球をやる場所がもう無い。週末は朝からグラウンドに立ち、そうして無心となって球を追い掛けていく子供に私は戻るのだ。
この位しか私には何か楽しみや心棒は無い。
この社会という生き物に縋らないと人間は生きていけない。マザーテレサは言った。
「人間で最も不幸なのは、誰からも愛されないで死ぬ事だ」
確かにその通りだと思う。だとしたら、私は今例えば誰に愛されているのだろうか?多分誰にも愛されていないのかもしれない。多分誰も愛していないからなのかもしれない。もし私が愛しているとすればそれは人では無く、野球というスポーツそのものなのかも知れない、そうして野球をやる人は誰でも、その瞬間だけは愛せると思っている。野球は計算高いスポーツであり、相手の裏を常にかく、そんなスポーツである。だから常に打算と陰謀、それだけの世界で今迄生きてきた私には水が合うのだ。そんな野球に私は恋し続けてもう二十二年。八歳の時から野球をしているから二十二年なのだ。コイツはいっくらこっちが恋をし続けても振り向いてはくれない。それがまたアスリートとしての闘争心を掻き立てる。恋愛以上に深いのかもしれない。かと言ってリアルな恋愛をした事が無いのか、と言えばそうでは無い。男三十路、恋愛の一つ二つしない方がどうかしている。まぁ、今はそういう輩も居るみたいだが。
「私と草野球と、どっちが大事なの!!」
彼女はそう叫んだ。今まさに草野球の身支度を整えてこれから車に乗り込もうとしている私に対して。私は無言で手を振る。バイバイ、という意味で。そうしてチラッと横目で彼女を見るとシーツを抱えて泣いていた。これから江戸川の行徳方面への河川敷に行って私は草野球のグラウンドに立たなければならない。約束事だから守らないといけない。今の状況では面倒だけれども、守らないといけない。そうしないとチームはリーグ戦に破れ、存続が危うい。こっちはこっちで危ういけれども、どっちを選ぶの、と言われても私にはどっちも大事、としか言い様が無い。少しの時間を待っていてくれれば、泥だらけになって戻りはするけれども、晩飯位はソコソコいいモノを喰わしてやれる。ちょっとした夜のデート位は連れて行ってやれる、だのに彼女にはその待っている時間が我慢ならないらしい、と、言うよりは恐らく本音としては、待てないのでは無く、自分より野球を優先される事にムカついているのだ。
いいじゃないか、週に二回位の草野球、運動不足の本人にしてみれば、そこでしか、あとはエッチをしている時でしか、身体などロクに動かさないのだから。だとしたら延々とエッチをしていればいい、という話では無い。そのうち股間はお互い擦り切れ、そうして飽きが来るに決まっている。私はそういう事に対しては到って淡白という訳では無いが、飽きるものは飽きる。一回、未だ十代だった頃、若さに任せてトンデモ無いトライアルレースのような真似をした事があった。と言えば恰好はいいが、現実にはお互い絶頂に達しないからそうなっただけで意地になっていただけだった。そうして結局私もその相手も絶頂に達せず結局お互いの胸に去来したものは虚しさだけだった。その後何度かその女性とやり取りはしたが自然消滅してしまった。今迄逢引を交わした中では恐らく一番美人だっただろうに、私は随分と惜しい事をしたもんだ。また、今、ある一定の酸いも甘いも知り尽くしてしまった私がこうやって叫ぶような女相手のエッチはもっと虚しい。少なくとも、十代の頃のその相手は、私を気遣ってくれていたし、私も相手を尊重していた。お互いのあのエッチの時に垣間見るような自尊心は何とかかんとか保たれていたのだ。けれども今、この彼女としても恐らくは自慰をしているのと大差ないとしか思えない。ならば自慰でもしている方がマシかと言えば人間欲深くそうでも無い。やっぱり生身の方がいい。結局何だかんだ言って、人間は肌を寄り添う事を求めるのだ。それでも残るのは虚しい事実だけなのだが………。
私は江戸川河川敷に向う国道十四号線に車を転がしながら、そんな事を考えてステレオをガンガンに響かせていた。そうして煙草が煙い車内、少し煙が眼に染みるから窓を開けて思わず叫びたくなる衝動を抑えて河川敷の駐車場に車を止める。そうすると何時もの仲間が待っている。そうしてイザ、プレーボール。私は外野だから殆ど打球など来ない。どん詰まりの打球か、こらやられた、という打球しか来ない。ここは河川敷だが、背中はちゃんとある。対岸の小岩の河川敷は打球が抜けると延々と追わないといけないから大変だが、背中があると楽だ。前に飛ぶ打球さえ意識すればいいのだから楽なのだ。
横では釣りをしているおっちゃんが居る。穏やかな休日の河川敷、川の水は下流の割には透き通っている。大昔に作った、という堰がありそこは写真家の人も注目するような珍しい物らしいが私にはよく判らない。こんな所で何が釣れるのだろう、と何時も私は疑問に思うが何度か眼にした光景の一つとして、グラウンドには魚の屍骸が転がっていたりする事があった。あの干からびた屍骸は不気味な心地以外何も残さない。太陽の光に反射される魚の身体が放つ銀色の光。その光と死臭に誘われて集る蝿の大群は本当に不気味である。どうしてこんな所に魚が転がっているのだろう、とよく思うが考えられるのは野良猫が咥えていたのを離したか、釣り人がタッパから落としたのを気付かずにいたか、大体はそのどちらかでは無いかと思われる。要は不可抗力なのだと思われる。けれどもその魚の屍骸は誰も処理しない。したがらない。そりゃそうだ、グラウンドに居る我々も特に処理する程の義理がある訳では無いのと、不気味なのだから。決まって外野ゾーンに落ちている。内野の土が盛ってある部分に魚など落ちていた事は今迄ここで四・五年野球をしているが一度も無い。一度なんて打球を追って誤って踏んでしまった事があり、ヌメヌメしたスパイクの、あの踏んでしまった、という後味の悪い感触が嫌で嫌で堪らずに、スパイクを水で洗い流した後、試合最中なのにアップシューズと呼ばれるウォーミングアップ用の運動靴に履き替えて試合をした事もある。
水上スキーを楽しむ人も時には居るが、ちゃんと許可を取っているのかどうなのか、私は知らない。否、そもそも許可なんて物があるのかどうかすら知らない。まぁ、穏やかな河川敷の風景だ。そこで大声張り上げて、野球をしている私はこの瞬間は子供に戻る。そうして野球という、振り向いてくれない母親に抱かれている。けれども草野球は七回で終わる。大体一時間四十五分位で終わる。あっと言う間に楽しい時は過ぎる、なんて言うけれども本当だね。そうして再び私は現実に連れ戻される。また、ステレオガンガンに響かせてアパートに戻る。今日も泥だらけになった。あぁ、洗濯が面倒だ、そう思いながら。
アパートに戻ると置き紙があった。
「今日は帰ります、綾子」
私は夕暮れに染まる部屋に一人、その虚しさに項垂れてしまった。
私だけでは無いと思うが、草野球の試合最中は恐らく多くの人は携帯電話の着信を無視するのでは無いかと考えている。試合に集中しているので、根本的に電話が鳴っている事にも気付かずにいるのかも知れない。私はその日、携帯電話を車の中に置きっ放しにしていたので当然気付かなかった。何しろ部屋に戻る迄ずっと携帯電話をどこに置いていたのかすら忘れていたのだから。そうして置き手紙と探し出した携帯電話の着信を確認すると、綾子からの着信履歴が十個はあったので、思わずゾッとした。決して私は綾子と別れるつもりなど無い。当然綾子を愛していると思っていたからだ。
更に草野球に行く事が出来るのは綾子を信頼しているからに他ならない。なのに、今日の家を出る時の言葉といい、昨晩のセックスに及んだ際の綾子の反応といい、ちょっと心に引っ掛かる部分はままあったが、知らないフリをしていた。またいつもの我儘が始まった、その程度にしか私は考えていなかったのだ。けれどもどうやら今回は違う事がここに至って漸く判った馬鹿な男が一人、夕暮れ時の部屋で呆然としている。置き紙を手にして。
それでも日常という奴だけは容赦無く訪れる。一人で晩飯を済ませ、洗濯も終わった解放感に暫し心の安らぎを覚えるも、もう明日の準備をしなければならない。明日は月曜日。こうしてまた私にも普段の日常が訪れる。明日に備えてもう眠らなければならないから眠る。そうしてあっと言う間に朝がやって来る。朝の訪れと共にウンザリとする心。この心の置き所は一体どうすればいいのだろう、なんて感傷に浸る間も無く私はまた生活を維持する為のレールの上をひた走らなければならない。あぁ、もう嫌だ、と嘆いた所で誰も何もしてやくれない。それが現実。だから人は寄り添う。何かに依存しなければ生きてはいけない。
「人間で最も不幸なのは、誰からも愛されないで死ぬ事だ」
やはりこのマザーテレサの言葉は当っている。だとすれば私は何に寄り添い、誰に愛されているのであろうか。皆目見当が付かない。打算だらけの男なのだから。綾子ですらひょっとしたらばだ、打算の上でのお付き合いなのかも知れない、そんな事を考える自分に少しゾッとした。そうすると結局私自身が無心になれるもの、今の私には野球しか無いのだ。私は正直あの時困ってしまった。綾子に、
「私と草野球と、どっちが大事なの!!」
と叫ばれた時。回答を詰め寄られたら、綾子だ、と言えるだけの自信が無い。それは何故なのだろうか。よく判らないのだが、そう言えるだけの自信など皆無なのだ。もし母親に同じ事を訊かれたら勿論、母親と言うがそれは亦違う意味なのだから。その母親は今、病床に臥している。私にはどうにもこうにも………先が見えない。けれどもただ一つだけ判る真実、それはやはり野球が好きである、という事なのだ。綾子の叫びはその事を奇しくも私に気付かせてしまったのだった。
それから綾子と私は暫く連絡を取らなかった。私から電話をするつもりも無かったが、綾子もきっと同じだったのだろう。そうして私は母親が退院すると同時に綾子に別れを告げた。ある、秋の日だった。もう、お前の我儘に付き合っている暇など無い、忙しいのだから、と告げて。2006年の秋だった。
………あれから年が経ち件の監督は引退する事になった。
「代打、オレ」
の監督は最後にヒットを打った。その姿をテレビで観て私は思わず涙してしまった。今こうして何も無い状態でその勇姿を見ている自分が情け無くなって。
私は殆ど自らが持っていた全てを失った。社会的信頼と恋人、それからその他諸々。絶望の淵、とはこの事を言うのだろうか。殆ど私には何も無い。守るべき物が親を除けば何も無い。仕事は業績を挙げたにも拘らず、社内政治に負けてしまいクビ同然で辞めさせられてしまった。
その後にも仕事は就くには就いたが、何ら遣り甲斐も無ければ実感も無い、そうしてコミュニケーションも無い、余りにもフワフワとした状態で毎日を過ごすのが嫌になりとっととそんな会社を辞めちまえ、他に幾らでも会社はある、そう思って辞めた迄は勢いがあったが、再び仕事にも就けないテイタラクでだらしのない日々を送った。私にはどんな事で遣り甲斐を見出す事が出来るのであろうか、毎日就職試験を受けていて皆目見当が付かなってしまい、それでも受けなければ私は社会にも参加出来ない、このまま落伍者の烙印を押されるのは余りにも早過ぎる。もう少しだけ、もう少しだけ、何とかしたい、何とかしなければ今の私は本当に路頭に迷って死んでしまう。それは抱えている持病の関係もあるが、とにかく抱えている持病は毎日薬を飲まなければならないので、今盛んに言われているネットカフェ難民にもなれない。本音はいっその事、車谷長吉のような生活を送りたい、どこかドヤにでも潜り込んで、そこで臓物をただ独り黙々と捌く様な、そんな生活を送りたい、そう願いながらも健康保険を常に持っていなければ私は病院にすら行く事が出来ない。だから今の居住と住民票は最低限維持しなければならない。あっ、そうすると守るものはあるな、私は私の住民票と健康保険は守らなければならないようだ。生きていく上で最低限のライン、それを守らなければ私は死んでしまう。死んでしまったら元も子もない。だから処方箋で出して貰えるぎりぎりの日数分の薬を溜め込んで私は生きている。何時か活き活き出来る日を夢見て。
出来れば、もう一度だけ、私は先輩とキャッチボールが………したい。
多分、あの頃が一番活き活きとしていたのだから。