75話_薔薇庭園
勢いよく水が流れる音を聞きながら、俺は、ゆっくりと扉を閉めた。
生理現象から解放され、心身ともに軽いはずなのに、この後のことを思うと憂鬱な気分になる。
人として当然の行為をしただけだというのに、こうも弱みを握られたような感覚に陥るのは何故だろう?
ここで踏み止まったところで、来るのが遅くなれば、余計に自分の首を絞めるだけだ。
憂鬱な気分を少しでも外に出すように大きく息を吐き、再び廊下の最奥部にある扉へと向かった。
扉を開けた瞬間、抱擁するかのように身体に纏わり付いた風が、そのまま長い廊下を駆け抜けるように去って行った。
憂鬱な気分さえも消化していくような優しく温かな風だった。
この城に来る際に肌身を擽っていた風と同じ風な筈なのに、どうして、こんなにも感じるものが違うのか……その理由は、すぐに分かった。
風が去った後も仄かに残る、上品で優雅な甘い香り。
この香りこそが、単なる風に〝心を穏やかにさせる〟効果を付与したのだ。
花の香りに誘われた蝶のように渡り廊下を進むと、先ほどまで歩いてきた廊下とは比べ物にならない開放感が、思わず両手を広げた。
空間の領域を示す壁が無く、代わりに俺の胸辺りの高さの塀で囲まれている。
塀から天井までは外との繋がりを遮る窓も壁も無いため、外からの風や音、太陽の光を直接、感じられるのだ。
廊下を駆け抜けようと思っていたが、こんなにも清々しい気分になれる場所を一瞬で去るのは勿体ない。
塀に手を掛けて見下ろした先に見えたのは、見事な薔薇庭園だった。
赤にピンク、黄色に白、他にもオレンジや紫などといった多色に染められているにも関わらず、互いが互いの色を尊重しつつも、各々の色の良さを主張するのは忘れない。
この庭園の創造主と数多の薔薇が織りなす人工と自然による繊細で緻密な計算の上で成り立った、あの世界は、一種の桃源郷のように神々しい。
2階という高さから眺めても、こんなにも心が奪われるのだ。
近くで見たら、どんなに素晴らしい事だろう。
もしかしたら、リュウ達が少し先で待ってくれているかも知らない。
もしかしたら、王子が既に来ていて待たせているかも知らない。
そんな考えが頭を過ぎったが、俺は、好奇心の赴くままに、来た道を戻った。
玄関まで戻って周囲を見渡していると、丁度、階段の真下にある位置に木製の古びた扉を見つけた。
シャンデリアに照らされた空間の中で、唯一、その光の恩恵を受けずに陰に隠れている扉は、まるで誰にも知られていない秘密の場所へと通じる入り口のようで柄にも無く胸が高鳴った。
何の根拠も無いが、この扉が、あの庭園に通じる入り口だと、どこか確信に近いものを得ていた。
ただ、扉を開けるだけ。
そんな動作は、これまで何度もしてきた。
それなのに、何故か異常なまでに汗ばんでいる手でドアノブを握り、時計回りに回転させ、ゆっくりと引いた。
扉自体は古びているせいか、どうも建て付け悪く、ギィギィと小さな悲鳴を上げている。
僅かに空いた隙間から、一気に流れ込んでくる風と共に、先ほどよりも強い薔薇の香りが、ツンと鼻を刺激した。
(あぁ、間違いない……この扉の奥に……)
確信に近かったものが確信そのものへと姿を変え、早く扉を開けろとばかりに俺の背中を押した。
ドアノブを両手で掴み、思いきり開けた瞬間。
広大な空を自由に飛び回る竜のような、思わず目を瞑ってしまうほどの強風が庭園を彩る薔薇を、草木を揺らし、散った花弁や葉を空へと舞い上げた。
風が次第に治まり、瞑っていた目を開けると、その目に映った光景に言葉を失った。
風によって散らされた花弁や草が、時に寄り添い、時に離れながら、まるでワルツでも踊っているかのように宙を舞っている。
色鮮やかな花弁を美しいドレス衣装で着飾った女性と例えるならば、若々しい中に力強ささえ感じられる新緑色に染まった葉は、そんな女性をエスコートする燕尾服に身を包んだ紳士的でスタイリッシュな男性……と、例えるべきだろうか?
今、俺の目の前にあるのは庭ではなく、優雅な舞踏会の会場。
クラシックな音楽が何処からともなく聞こえてきたとしても、俺にとっては奇とするに足りない。
扉を閉めて庭に向かって歩き出せば、サクッと芝生を踏む音がする。
近付けば近付くほど、この庭の構造の詳細が明らかになってくる。
更に、近付けば近付くほど、この庭の美しさは植物だけでは無く、芸術的な水の曲線を描く噴水や、道にも景色の彩りにもなる場面に置かれた色彩豊かな色タイルの床。
そして、美しい薔薇達の住まいである煉瓦が積まれた立派な花壇。
この庭にある物の配置、形、大きさ全ての要因が上手い具合に合わさった事により造られた世界。
もし、俺が世界一の画家だったならば、自分が最も良い絵が描ける絵の具で、紙で、筆で、この光景を描いていた事だろう。
1番近くにあった一輪の薔薇に触れようと、その場で跪き、ゆっくりと手を伸ばした。
その時、少し離れた所でサクッと芝生を踏むような足音が聞こえた。
その音は、俺が薔薇の咲き誇る花壇に辿り着くまでの間に、何度も足下から聞こえた音。
つまり、それは……自分以外の誰かが、この場所に来たことを示していた。
「……ぇ……誰?」
微かに漏れた若い男の声が耳を掠め、思わず顔を上げた。
そこに立っていたのは〝人〟だった。
黒いマントを羽織り、フードを深く被った……見るからに不審者。
誰? というシンプルな問いかけを、俺も目の前の人物に投げ返したい。
見た目は怪しいが、どうやら悪者では無いらしい。
それを証明してくれたのはフードから伸びた細い両手に抱えられた、太陽の光に反射して輝くブリキのジョウロだ。
この場所にジョウロを持ってやって来たという事は、彼は、庭の花に水をやりに来たと判断して構わないだろう。
「勝手に庭に入ってしまい、申し訳ありません。あまりにも薔薇が綺麗だったもので、つい……」
立ち上がって頭を下げると、男は戸惑ったように、元々深く被っていたフードを掴み、更に下へと引っ張った。
あれでは俺からも顔は見えないが、当の本人も何も見えないだろう。
「…………これらの薔薇は貴方が、お世話を?」
答えは返ってこないだろうと思いながら投げかけた疑問だったが、意外にも、目の前の彼はフードに覆われた頭をコクンと頷かせた。
どうやら、意思疎通を図ることは拒否されなかったようだ。非常に助かる。
とりあえず俺が怪しい者だと勘違いされる前に、名を名乗っておくとしよう。
「俺は、ライ・サナタスといいます。今日、アンドレアス王子からの手紙を頂きまして、その手紙の件でお話に……」
「え、兄さんが……っ、」
…………兄さん? 今、彼は、兄さんと言ったか?
確かに、そう呟いた彼は、しまったとばかりに口を閉ざしたが、既に手遅れだ。
今の言葉は、どういう意味かと尋ねようとした瞬間、それを遮るように再び突風が俺達を襲った。
「ぅ、わっ?!」
ガシャンと重みのある何かが落ちた音と共に、男の小さな悲鳴が聞こえた。
思わず目を開けると、落ちたジョウロから水が零れて地面を濡らし、彼の顔を覆い隠していたフードが完全に捲れた。
捲れ上がったフードから現れたのは、情熱的な炎のように真紅色な髪だった。
慌てて髪を整え、どこか焦燥を映した灰色の瞳は大きく開かれていた。
真っ赤な髪色に、灰色の瞳……この組み合わせ、前に、どこかで見たことがある。それに、彼の顔……誰かに似て……
中途半端に埋められたパズルに、少しずつピースをはめ込んでいく。
完成はしていないものの、そのパズルに何が描かれているのかは分かってきた所で、身体中に雷にでも撃たれたかのような衝撃が走った。
知らない、聞いてない。前世でも、そんな話は一度も聞いたことが無かった。
だが、完成に向けて前進したパズルが告げている。
目の前にいる男は、正真正銘……王子の弟である、と。
「……あの、」
思わず口を閉ざしたくらいだ。聞かれたくない事であろうことは重々承知している。
だが、聞かずにはいられなかった。
「貴方は……アンドレアス王子の弟殿下ですか?」
問いかけられた彼は、案の定、複雑そうに顔を歪め、下唇を噛みながら、渋々と頷いた。
「……そうだよ。僕は、アンドレアス・ディ・フリードマンの弟──アレクシス・ディ・フリードマンだ」
日の光を受けた彼の赤髪が、アンドレアスとは違い濁りのある瞳を隠すように揺れた。
[新たな登場人物]
◎アレクシス・ディ・フリードマン
・薔薇庭園に、突然現れた少年。
・アンドレアスの実の弟。
・容姿的な特徴は兄と酷似しているが、どこか儚げな印象。




