70話_長かった一日
カツェの熱烈な抱擁から解放されたカリンはカーテンの奥にいるカグヤと向き合うように立っていた。
「カグヤさん……今まで、ありがとうございました」
深々と頭を下げたカリンに、カーテンに映るカグヤのシルエットは小さく首を左右に振った。
「頭を上げてくれ。儂が御主に出来たのは、ほんの少しの時間稼ぎくらいじゃ。御礼を言われるような事は何もしておらん」
カグヤの言葉に、今度はカリンが首を振った。
「カグヤさんは私の傍に、ずっと居てくれたじゃない。すごく心強かった…………カグヤさんが、私のお母様だったら良かったのに」
貼り付けたような笑顔で彼女は言った。
「……本当に、もう身体の方は大丈夫なんじゃな?」
カグヤの最後の問いかけにカリンは少しだけ間を置いた後、何かを惜しむように小さく頷いた。
「そうか……じゃが、また少しでも体調に異変があれば、すぐに知らせるのじゃぞ? 分かったな? 絶対じゃぞ」
「えぇ、約束するわ」
カリンの言葉にカグヤは満足そうに頷くと、デルタの名を呼んだ。
「悪いのじゃが、カリンとカツェを寮まで送ってやってくれぬか?」
「はい、お任せ下さい。……二人とも、こちらへ」
そう言ってデルタが誘導した先には俺が通って来た一寸先の見えない深い闇が広がるトンネルのように大きな入り口があった。
カリンとカツェはカグヤに向かって一礼すると、デルタの後を追った。
「この入り口は今、ギルドへと繋がっています。私の後に続いて来て下さい」
それだけ言うと、デルタは闇に飲み込まれるように姿を消えた。
カツェもデルタに続いて闇に足だけ突っ込んだが、突然、何かを思い出したような声を漏らし、こちらへ振り返った。
「ライ・サナタス! 今日は、ありがとニェ! また明日、学校で会おうニェ!」
笑顔で大きく手を振りながら、そう言った彼女は、今度こそ闇の中へ躊躇なく飛び込んだ。
それにしても、いつからフルネーム呼びが定着してしまったのだろう?
最後に残ったカリンも、こちらをチラリとは見たものの、すぐに前へと向き直り、闇に溶け込むように消えて行った。
「カグヤさん。オレっち達も、そろそろ退場するっす。色々と報告もしなきゃいけないんで……」
「あぁ、そうじゃったな。ガチャール、御主もファイルと共に行くが良い。御主達が、その目で見たもの全てを、彼奴に伝えてくれ」
カグヤの言葉に、ガチャールとファイルは同時に頷いた。
「了解っす。それじゃあ、二人は、オレっちが送って……」
「あぁ、その必要は無い」
ファイルの提案を否定で遮ったカグヤは少しだけ言葉を詰まらせると、気まずそうに頭を掻いた。
「いやぁ……実は、まだまだ話し足りなくてのぉ。況してやライとは、まだ会話らしい会話もしておらん。こちらから呼んでおいて碌に会話もせず帰すというのは味気ないじゃろ?」
ホホッと暢気な笑い声を零したカグヤに、ファイルは呆れたように肩を竦めた。
「そんなこと言って……話し相手がいなくなるから少しでも長く、この空間に滞在させたいだけっすよね」
「おや、御主にしては鋭いのぉ」
カグヤとファイル。きっと彼らは、それなりに長い付き合いを経て、現在のような関係を築いたのだろう。
彼らのことを何も知らない人物が今の2人の会話を聞いたら、仲の良い叔母と孫の会話だと勘違いしてしまうに違いない。
「年寄りの長話に付き合わせるのも程々にしといてやってくだせぇよ?」
「誰が年寄りじゃ、馬鹿者」
「200年以上も生きておいて、何を言ってるんすか」
所々、容赦の感じられない言葉も聞こえてくるが、両者からは時々、笑みが零れている。
この容赦のないやり取りこそが、彼らにとっての〝会話〟なのかも知れない。
「それじゃ、行ってくるっす…………あまり無理はしないでくだせぇよ」
ファイルが最後にカグヤにかけた言葉は、意外にも彼女を案じるような声だった。
「分かっておるわ。御主も気を付けてな。ガチャール、ファイルを頼んじゃぞ」
「は、はい!」
その会話を最後に、ガチャールとファイルもまた、墨のように真っ黒に染められた闇の中へと消えていった。
こうして、この場に残ったのは、俺とハヤトとカグヤとスカーレットの3人と1匹だ。
「さて……待たせたな、ライ・サナタス。御主のことは、アルステッドやヴォルフから耳にタコが出来るほど聞いておる。本当なら、すぐにでも御主とも親睦を深めていきたい所じゃが……その前に一つ確認しておきたい事がある」
「……何でしょうか?」
先ほどまでファイルと穏やかな会話をしていたとは思えないほどに今の彼女からは一点の曇りも見えない生真面目な雰囲気が漂っていた。
「御主……〝四竜柱の贄〟を知っておるか?」
聞き慣れない言葉に俺は首を傾げることしか出来なかった。
だが、お蔭で俺の気持ちは伝わったらしくカグヤは酷く安心したように胸を撫で下ろした。
「……知らないのなら良い。忘れてくれ」
忘れろと言われたもの程、忘れられなくなるのは何故だろう?
結局、忘れられそうになかったので俺の記憶の引き出しに新たな言葉として追加しておくことにした。
それ以降の彼女はファイルと会話を交わした時のような穏やかな雰囲気を取り戻し、俺の学校での生活やクエストでの出来事、そしてハヤトが元いた世界の事など様々な話に耳を傾けては、楽しそうに笑った。
そんなやり取りが行われて一時間ほど経った頃。
「……っと、もう、こんな時間か。これ以上、御主達をこの場に留めておくわけにはいかんの。寂しいが、今回は、この辺で御開きとしよう」
カグヤの言葉に少しばかり名残惜しい気持ちを押し殺して頷いた。
この部屋には時計が無いため、現在の時刻は分からないが、結構長い時間、話していた気がする。
「非常に申し訳ないのじゃが……儂は、この空間からは出られぬのじゃ。だから御主達の見送りは、この場でさせてもらうぞ。その代わりと言ってはなんじゃが、御主の寮部屋に直接、繋がせてもらった。あ、ちなみに隼人はギルドへ繋がるようにしておる。デルタ達が御主の部屋を用意して待っておるらしいからの……それから、ライよ」
「……はい」
別れ際に呼びかけられ、思わず身構えてしまった。
「……カリンを助けてくれて、ありがとう」
母親のような慈愛に満ちた声で、彼女は最後の言葉を放った。
◇
俺とハヤトはカグヤに別れを告げた後、異空間へと繋がる暗闇の前で互いに別れを告げ、各々、闇の中へと足を踏み入れた。
闇を抜けた先にあったのは彼女の言った通り、俺の寮部屋だった。
時間は俺が思っていた以上に長く流れていたようで絶え間なく時を刻み続けている時計に目をやると既に消灯時間を過ぎていた。
リュウも、自分のベッドで既に夢の世界へと旅立っている。
俺は出来る限り音を立てないように進み、制服を脱ぎ、寝間着を準備した。
スカーレットは既に活動限界を超えていたようで俺がシャワールームへと行くのを見送りながら、いそいそとベッドへ上がって寝る体勢へと入っていた。
(……俺も、シャワーを浴びたら寝るか)
眠気を誤魔化すように欠伸を噛み締めて俺は忍び足でシャワールームへと向かった。
俺が暢気にシャワーを浴びていた間、たった一人となった寂しい空間でカグヤは地を這う姿勢で喘息の発作のような息遣いを繰り返し、口から溢れ出した鮮血で安らぎの色である緑色の床を赤く染めていた。




