67.5話_閑話:結界師と青年の内緒話《下》
────私達、もう別れよう。
1週間ぶりに彼女から届いたメール(全文)である。
思えば、その日は朝から不運だった。
プライベートといい仕事といい、見事なまでに、その日は何一つ良いことが無かった。
1つの不運が起これば、その不運を超える不運が続き、更にその不運を超える不運が……といった感じでピタゴラスも吃驚な不運の連鎖が続きに続いて、最終的には、この世をおさらばする羽目になってしまった。
ここまできてしまったら、最早、嘆きを通り越して笑いしか出てこない。
そんな僕、紅林隼人の最期は実に呆気なかった。
直進してきたトラックに思いきり跳ね飛ばされたのだ。
空から降り注がれる太陽の熱を吸収し続けた地面のアスファルトが、仕事疲れで既にヘトヘトになっている僕の身体に容赦なく熱を放射していた。
身体中から汗が吹き出し、シャツが汗でへばり付いて気持ちが悪い。
一刻も早く、家に帰ってシャワーを浴びたい衝動に駆られていたが、どうしても寄りたい場所があったため、我慢して信号機が緑色を灯した瞬間、足を進めた。
急ぎ足で進み、横断歩道の中間地点辺りまで来た時だった。トラックが横断歩道を渡っていた僕と数人の通行人めがけて突進してきたのは。
横断歩道を渡る直前、設置された信号機は確かに緑色を灯していた。
子どもの頃、信号機が緑色を灯している時は進む、赤色を灯している時は止まれと習った。
誰だって、きっと1度は、そう習ったことがあるだろう。だから今回も、その習いの通りに横断歩道を渡っていただけだというのに、この仕打ちは何だ? 僕が一体、何をした?
切羽詰まる気持ちで横断歩道を渡っていた僕は、トラックの存在に気付くのが遅れ、避けることも身構えることも出来ず、トラックの巨軀の衝撃を一身に受けてしまった。
あの世界での記憶は、そこで途絶えている。
ガチャールさんやデルタちゃんからの話を聞いて初めて、僕が向こうの世界で死んだことを知った。
その話を聞いた時、僕は自分でも驚くほどに落ち着いて……いや、もしかしたら、その時は、まだ単なる夢だと思い込んでいただけなのかも知れない。
しかし、夢と片付けてしまうには、あまりにもリアルに感じられる他人の体温。
現に今も、月姫さんから感じる温もりが、これは夢ではないと教えてくれている。
(待てよ、待ってくれよ……)
こんなの、これまで読んできた小説と全然違う。
小説に登場する僕と同じ境遇の者達のほとんどは、前の世界に未練なんて微塵も無く、すんなりと異世界での生活を受け入れて自分の思うがままに楽しんでいたではないか。
そんな彼らに比べて、僕はどうだ?
この世界に来たばかりの時は、現状を整理することに手一杯だったが、ある程度、落ち着いた今は、前の世界に対する心残りや後悔で胸が押し潰されそうになっている。
明後日、高校時代の友人と飲みに行く予定だったのに。
仕事で、まだ手が付けられていない書類があったのに。
本当なら今頃、プレゼントを……母親への誕生日プレゼントを買いに行っていた筈なのに……っ!
〝語り〟という役割を超え、気持ちが前に出てしまった自分にハッと我に返り、なんだか気恥ずかしくなって、恐る恐る月姫さんを見た。
今更ながら訂正させて頂くが、僕はこれまで月姫さんに抱きしめられながら語っていたわけでは無い。
正直、柔らかな感触から離れるのは少々、ざんね……と、兎に角、僕は月姫さんに向かい合うように腰を下ろし、彼女に自分がこの世界に来る前の話をしていたのだと、誰に向けてか分からない言い訳を並べたところで、今度こそ彼女を見た。
彼女を見て、思わず息を呑んだ。
彼女は泣いていたのだ。啜り泣く声も出さず、周囲の空気に溶け込むように静かに。
覆面で顔を隠しているのに何故、彼女が泣いていると分かったのか?
それは、見えていないのが彼女の顔だけだったから。
目から零れ、頬を伝った涙は顔を離れ、地面へと落ちる。彼女のように正座をしていれば、膝が涙を受け止める。
僕が彼女を見た時、彼女の顔を覆う覆面からポタリと水滴が零れ落ちたのを見た。
しかも、それは1度だけではなく、その水滴の後に続くように何度も何度も落ちてきて、彼女が身に付けている燃え盛る炎のような緋袴に色濃い染みを作っていった。
「あぁ、すまぬ」
奥に何かが詰まったような声で、そう言った彼女は覆面で隠れた目を拭った。
「家族想いな奴じゃな、隼人は。それに御主は本当に、元いた世界を好いておったのじゃな」
違う、そんな大袈裟な感情を自分は持ち合わせていない。
学生時代、勉強ばかり押し付けられる日々が嫌いだった。
細かいことをグチグチと言う親が嫌いだった。時々くる客からのクレームも上司からのパワハラも、自分からぶつかっておいて頭すら下げない人も、みんな嫌いだった。
だけど、それ以上に……くだらない話で笑い合える友人の存在が心地良かった。
大学で一人暮らしして初めて、親の有難味を知った。
ありがとうと客に笑顔で言われる度に、この仕事をしていて良かったと思えた。
時々、自分に向けられた小さな親切に……この世界に生まれて良かったと、心から思えた。
(あぁ、なんだ……僕、なんだかんだ言って、あの世界が好きだったんだ)
良い思い出ばかりでは無いけれど、あの世界には確かにあった。
目を瞑れば、自然と思い浮かんでしまう懐かしく優しい記憶が。
〝本当に大切なものは、失ってから初めて気付く〟と、以前、何かの本で読んだことがあった。
今まさに、それを痛感した瞬間だった。
彼女の言葉で、ようやく自分の気持ちを自覚した瞬間、目の奥から押し寄せる波のように涙がこみ上げてきた。
もう、あの日常は戻ってこない。
僕が、あの世界に帰ることは……二度と無い。
結局、俺はどこに向ければ良いかも分からない、この言葉に出来ない感情を誰かに吐き出したかっただけなのだ。
そんなの僕の感情の吐け口にされた月姫さんからすれば唯々、迷惑でしか無い。
せめて一言でも謝りたいところだが、情けない事に鼻水まで出てきて、とても謝罪が出来る状態じゃない。
こんな顔を月姫さんに見られたくなくて顔を俯かせた。
「隼人よ、顔を上げるのじゃ」
月姫さんの言葉に、僕は顔を俯かせたまま、即座に首を左右に振った。
「頼む、顔を上げてくれ」
懇願にも近い、その言葉に思わず顔を上げてしまった。
顔を上げると、先ほどまで目の前に居た覆面で顔を覆った女性は居なくなっていた。
代わりに皺一つ無い陶器のような肌に、付け睫毛だと勘違いしてしまう程に長い睫毛。太陽の光を目一杯浴びたトマトのように真っ赤な唇と、綺麗な三角形を描いた鼻。
顔のパーツ1つ1つに特徴のある女性が正座をして、僕を見つめていた。
そんな女性の姿を捉え、脳裏に〝大和撫子〟という言葉が浮かぶ。
それ程までに、美しい女性だった。
「本当なら禁じられておるのじゃが……御主のような者を相手するのに覆面越しも失礼じゃと思ってな。素顔を晒すことにした。どうじゃ、400年以上も、この世界に居座っておる婆の顔は? とても見れたもんじゃ無いじゃろう」
ホホホッと口元に手を添えて笑う姿すら、美しい。
彼女の言葉に、とんでもないと首を左右に振った。
こんなにも美人な老婆の顔なら、いくらだって見ていたい。
「隼人よ。御主が近年、稀に見る清い心の持ち主であることは、よく分かった。そんな御主じゃからこそ、この世界も前の世界と同じように好いてもらいたい。じゃから……今から儂が御主に力を授ける。ま、今回の本題と言っても良いな」
そういえば、そんな話をしていたなと今更ながら思い出した。
ガチャールさんから貰った剣とは、また違った力。ファイルさんの説明ではイマイチ理解出来なかったが……具体的には、どのような力なのだろう?
小さく首を傾げた僕に、月姫さんはフフッと笑うと、神に祈りを捧げるかのように手を組んだ。
手を組み、目を瞑った月姫さんは、小さく口を開きブツブツと何かを唱え始めた。
彼女の呟きに答えるように彼女の艶のある黒い髪が風に靡いているかのように微かに揺れ始めた。
声が小さくて、何を唱えているのかは分からないが、それが魔法的な何かであることは分かった。
そんな状態が、十数秒ほど続いた後、月姫さんはどこか疲れたような表情で息を吐き、組んでいた手をゆっくりと開いた。
開いた手の中にある何かを確認すると安心したように微笑み、僕に手招きをした。
彼女の手招きに従い、立ち上がって彼女の前まで来ると、彼女は僕の右腕を掴み、手に小さい何かを握らせた。
右手の中に異物感を覚えながら、ゆっくりと閉じられた右手を開くと、そこには透明なセロファン紙に包まれた、これまた床の色を映すほどに透明な飴玉が姿を現した。
「それは、魔力 贈与飴と言ってな。まぁ、簡単に言うと、魔力を飴玉にした物じゃ。それを舐めれば、御主は儂と同じ〝結界〟の力を得ることが出来る。流石に儂と同じ芸当が出来るわけでは無いが、そこらの結界使いよりは優れた結界が張れるようになるぞ」
得意げに解説をし始めた月姫さんには申し訳ないが、僕には理解出来なくて、さっぱりだ。
いや、言葉としては理解できるが理屈が理解できないのだ。
その旨を伝えると、彼女は呆れたように肩を落とした。
「隼人、そのような些細なことを気にしておっては、この世界で、やっていけぬぞ」
(些細なことなのかな、これは?)
僕が元いた世界が科学技術で発達した世界ならば、ここは魔法等といった非科学技術で発達した世界。
これまで培ってきた常識の全てが通じるような世界では無いのだ。
適応していかなければならない。現実と向き合って、前へ進むしか無い。
都合の良い方にばかり逃げていた、あの頃のままでは駄目なのだ。
「……この飴を、舐めれば良いんですね?」
「そうじゃ。決して、噛み砕くで無いぞ。最後まで、じっくりゆっくりと溶かすのじゃ」
月姫さんの忠告に素直に頷き、セロファン紙に包まれた飴玉を取り出すと、飴越しに向こう側の景色が見えた。
数秒、その景色を見つめ、意を決したように飴玉を口の中へと放り込む。
口内をコロコロと音を立てながら転がる飴は、子ども向けの甘ったるい砂糖の塊のような味ではなく、大人にも好まれるような程良い甘さだった。




