47.5話_閑話:鬼とスライムと蜘蛛と……
※今回はなんと、ヒメカの兄(しかし、今回も名前は登場しない)視点です。
母親の手のように優しく髪を撫でる風が心地良い。程良い温度で身体を温めてくれる陽の光が心地良い。
こうして毎日、神経を尖らせていると今まで何も感じないまま全身に浴びていた自然の恩恵さえ、こんなにも心地良いと感じてしまう。
自分と自然だけの世界に小さな乱入者の気配を感じ、片目だけ開けて周囲の様子を窺った。
ポヨンポヨンと、なんとも気の抜ける音を立てながら現れた緋色の物体が視界の端で、こちらの様子を窺っていた。
「…………珍しい客人だな」
出来て間もない集落を訪れ、こんな場所にまで来た奴は初めてだった。しかも、まさかのスライム。
風に揺れる草花のように揺れていたスライムは再び気の抜けるような音を立てて距離を詰めてきたかと思えば、足元で左右に小さく飛び跳ねながら自分の動向を見守っている。
木に預けていた背中を少しだけ浮かすと、すぐさま後退り、威嚇行為なのか身体の一部を人型の手に擬態して空気を切るように拳を繰り出している。
だが、決して自分から襲いかかることは無い。どうやら今時のスライムは、自分が思っている以上に賢い生き物らしい。
「……そう警戒せずとも、拙者は其方に危害を加えるつもりは毛頭ない」
自分の言葉が伝わるかは不明だが、とりあえず声をかけてみると、スライムは拳を収めて恐る恐る近寄って来た。
ある一定の距離を保ちながら身体を震わせる、その姿から今、このスライムは目の前にいる自分が敵かどうかを判断しようとしているのだと、なんとなく伝わってきた。
敵では無いという意図を込めてゆっくりと微笑むと、スライムは再び身体の一部を手に擬態した。今度は、先ほどのように拳を繰り出すことはせず、自分の方へと差し出してきた。
「まさか、握手を求めているのか……?」
夢でも見ているかのような光景に目を丸くしたが、これは現実だと主張するようにスライムは擬態した手を更に近付けてきた。思わず、差し出された手を取ると、本来の人間の手では味わえない、清涼感と肌理細やかな感触に包まれた。
この感触を、もう少しだけ堪能していたかったが、どうやら、それは叶わなかったらしい。
「あらあら……貴方ったら、スライムとは仲良くするのねぇ? 以前、ワタシに問答無用で斬りかかってきた方と同じ人物とは、とても思えないわぁ」
招かれざる客とも呼べる存在の声が聞こえた瞬間、掴んでいたスライムの手を力一杯引っ張って抱き寄せ、空いている方の手を刀に添えた。
「まぁまぁ、そんなに殺気を向けて……貴方って、大人しそうな顔してるくせに意外と好戦的なのよねぇ。本当なら今すぐにでも貴方と、ワタシの縄張りで未だに屯している鬼人達を喰い殺したいところだけど、残念ながら今回はお預け」
「なに……?」
器用に不規則に並ぶ木々を避けて姿を現したのは、幼い頃から見てきた蜘蛛とは桁違いに大きい鬼蜘蛛だった。
仮に、自分が蜘蛛に対して極端な嫌悪感を抱いていたなら、この姿を目にした瞬間、間違いなく白目を向いて失神していたことだろう。自分の姿を捉えようとする目の動きさえ、背筋がゾクリとする。
「とても懐かしい魔力を感じて、ここまで来たのだけれど……どうやら見当違いだったみたいねぇ。よりにもよって、あの方とスライムを間違えるなんて……」
(あの方……?)
呆れたように息を吐きながら言葉を紡いでいる間も、警戒は怠らない。この鬼蜘蛛が、過去に自分達に襲いかかったのは事実だ。
ツノが折れる前の自分なら難なく相手に出来るが、今の状態でコイツの相手をするのは骨が折れる。あの時以来、威嚇はしてくるものの奇襲を仕掛けることが無いのが不幸中の幸いだ。
「ねぇ、そこのスライムちゃんを少しの間、貸してくれない?」
「……喰うつもりか?」
スライムを更に強く抱き寄せながら問いかけると、鬼蜘蛛は顔を左右に振った。
「まさか……そんな小さなスライムじゃ、腹の足しにもならないわよ。そのスライムから漂っている魔力を調べたいだけ」
「…………」
渡すべきか、それともスライムを逃がすべきか。戦意の無い相手を刺激するようなことになってしまっては、元も子もない。
自分の選択のせいで、集落が襲われるなんて事になってしまえば……情けないが、今の自分ではヒメカ達を守りきれる自信が無い。未来を託してくれた仲間や父のためにも、それだけは避けなくては。
(スライムには悪いが、ここはアイツの要望に応えて……)
スライムを抱き寄せていた腕を少しだけ緩めると、柔らかな何かが自分の腕を突いた。視線を向けると、身体から細長い触手のようなものを伸ばしたスライムが気付けと言わんばかりに何度も腕を突いていた。
スライムは自分に向けられている視線に気付くと、腕を突いていた触手を収め、人型の手を出して親指を立てた。まるで、自分は大丈夫だと言っているようだった。
もしかしたら都合の良い解釈だったのかもしれないが、自分の腕からスラリと抜け出して鬼蜘蛛の方へと迷わず飛び跳ねて行くスライムを見る限り、その解釈は間違っていなかったようだ。
言葉を持たないはずのスライムを相手にしているはずなのに、何故か同族を相手にしているような不思議な感覚に襲われる。
「あら、スライムにしておくには勿体無いくらい勇敢ねぇ。大体のモンスターはワタシの姿を見た瞬間、すぐ逃げ出すのに。そして、自分と相手の実力の差が分からないほど愚かでも無い、と……貴方、よほど優秀な飼い主の元で育ったのねぇ」
鬼蜘蛛も、このスライムに何かを感じ取ったのか感心したように言葉を吐いた。
目の前まで来たスライムを、2つ以上は確実にある目を一斉にスライムへと向けて数秒ほど見つめると、全ての目から透明な水滴が流れ落ち、地面を濡らしていった。水滴が落ちた場所では、植物達が雫を装飾品のように着飾ってキラキラと輝いていた。
「あぁ、間違いない……この魔力は……」
長年、恋い焦がれ続けた想い人が、ようやく現れたかのような反応に思わず面食らってしまった。スライムも鬼蜘蛛の反応が予想外だったのか、周囲を忙しなく飛び跳ねていた。
呆然とした表情で光景を見つめていると、パキッと木の枝を踏むような音が聞こえ、そちらへと目を向けた。
(拙者としたことが……彼らにばかり意識を向けていたとはいえ、こんなにも近距離にいた者の気配に、全く気付けなかったとは……)
視線の先には、頭を掻きながら足元で折れた木の枝を見つめる少年がいた。
何者だと、問いかけようと口を開いた瞬間、大きな何かが疾風の如く、少年へと向かって行った。
「え゛、いや、ちょっ、ま……っ!」
少年の慌てる声が耳に届いた瞬間、明らかに尋常でない音を立てて鬼蜘蛛は少なくとも5本以上の木に容赦なく激突した。強烈な突進を受けた木は衝撃の重さに耐えられなかったようで、全ての木が見事にポッキリと折れてしまった。
自分の背丈の何倍もあり、そこそこに太い木が、いとも簡単に折れたのだ。生身の人間が、これだけの衝撃を受けて無事でいられるはずが無い。
「あぁぁ……ライ様ぁ……ずっと、ずーっと会いたかったわぁ♡」
「っ、相変わらず熱烈な歓迎だな、鬼蜘蛛……確か、メラニーという名だったな?」
鬼蜘蛛の声とは明らかに違うものだったが、その声は確かに鬼蜘蛛から聞こえてきた。
「まぁ、ライ様! ワタシの名前、憶えていてくれたのねぇ。嬉しいわぁ〜〜♡」
興奮した趣で迫る鬼蜘蛛から、少年は周囲に張った結界で身を守っていた。
「そりゃあ、毎度毎度あれだけ熱烈な歓迎を受ければな……それより、少し離れてくれ。このままじゃ、落ち着いて話も出来ない」
鬼蜘蛛は少年の言葉にすんなり従うと、少年の周囲に張られていた結界は次第に薄くなり、消えた。自分は、夢でも見ているのだろうか?
ツノが折れる前の自分でさえ苦戦した、あの鬼蜘蛛の渾身の突進を瞬時に結界で受け止めただけでなく、言葉のみで従わせるなんて。しかも、それらを平然とやってのけたのが鬼人でも、況してや鬼蜘蛛でもない、人間だなんて。
「それにしても……よく、魔王だと分かったな」
「だって、どんなに姿は変わっていても、貴方様から溢れ出る魔力は昔と全く変わらないんだもの。だから、すぐに気付いたわぁ」
「……相変わらず、魔力や気配には敏感なようだな」
「ウフフ。まぁ、それもあるけどぉ……ライ様のだったから尚更よぉ」
そうだ、これは夢だ。そうに違いない。
豊富な魔力を感じるとはいえ、あの少年は間違いなく人間だ。捕食者と被食者という関係性で成り立っている鬼蜘蛛と人間が親しげに会話を繰り広げるなんて、あり得ない。
あり得ない……はずなのに。
(何故、頬を引っ張っても夢から覚めない?! 何故、引っ張った頬が痛む?!)
じんわり痛む頬に手を当てると、熱を持っているのか自分の手が冷たく感じられた。
やはり、これは夢では無いのだと嫌でも認めるしかなくなった事態に、何も言葉に出来ない無言の時間を貫いていると、近付いてきた少年が話しかけてきた。
「間違ってたら、すみません……ヒメカさんのお兄さん、ですよね?」
妹の名前が出た瞬間、これが夢だとか現実だとか、そんなものはどうでも良くなった。
真剣な表情で見つめてくる少年に、自分も真剣な表情で頷いた。
[新たな登場人物]
◎メラニー
・ヒメカ達が現在、集落としている場所一帯を縄張りとしている鬼蜘蛛。
・ヒメカ達を追い出そうと襲いかかったが、彼女の兄により失敗した。
・前世では、ライが率いる魔王軍に所属していた(しかも、記憶持ち)。
・当時と変わらず、今もライにご執心の様子。
今回の主役を差し置いて、先に名前が判明しちゃうという……(笑)




