386.5話_閑話:とある王子と令嬢の話《中》
カリン・ビィギナーが四竜柱の贄となったのは偶然だった。
今となっては見る影も無いが、幼少時代の彼女は虚弱体質で決められた時間より少し遅れただけで高熱を出しては、よく点滴を受けていた。
何度か医者に診てもらったものの原因は分からず、苦しむ彼女を見ていられなくなった両親は王都の宮廷魔導士に相談することにした。
魔導士は眉間に皺を寄せて「この子は近いうちに魔力を失うかも知れない」と予言するように言った。
その魔導士は魔力の消滅の研究をしていた。
当時は魔力の消滅を引き起こす要因は体内に保持されている魔力量にあるという説が濃厚とされており、特に魔力量が年齢に応じた平均値よりも低い者は発症する可能性が高いと示唆されていた。
ちなみに現在は魔力量が平均値と殆ど変わらない者や平均値を超えている者も魔力の消滅に発症した事例が発生しているため、上記の説は誤りだと断言されている。
カリンは生まれつき魔力量が平均値を下回っていたため、その可能性を説かれたのだ。
魔法で名誉や地位を築き上げてきたビィギナー家の血を受け継ぐ者から魔力の消滅に発症した者が出たとなれば、これまで先祖代々築き上げてきたものが無に帰してしまうと恐れた夫妻は藁にも縋る思いで使用禁止の魔法薬に手を出した。
それは竜の血を配合した古から伝わる秘伝の魔法薬。
力を増幅させる代わりに人としての尊厳を奪ってしまう。その薬に頼った者の末路を夫妻は知っていた。知っていたが、それでも頼るしかなかった。
どんな形であれ、魔力を失わずにいてさえくれれば。それが彼らの唯一の願いだったのだから。
竜の血を手に入れ、無事に魔法も成功したお蔭でカリンは魔力量は平均以上に跳ね上がり、虚弱体質からも解放された。
数ヶ月ほど彼女の様子を見ていたが、魔法の副作用らしき症状も見当たらない。
どうやら心配は杞憂だったようだと誰もが思った時だった。そんな彼らの心情を嘲笑うかのようにカリンの身体に変化が起こったのは。
彼女の肌に鱗のような浮き出てきたのである。無理やり剥がそうとすると酷く痛がるため放置することしか出来なかったが、その間も鱗は彼女の柔肌を侵食していった。
医療機関で診察を行うも原因は分からず、医師に「何か原因に心当たりは?」と問われたことで夫妻は魔導士から貰った薬を飲ませたことを伝えた。
何の薬かと医師から尋ねられても夫妻には答えられない。彼らには、あれが本来は何の薬で、竜の血液以外に何が配合されているのかさえ把握していなかったのだから。
娘が助かるなら何でも良い。鱗が浮き出る程度の変化なら服で隠してしまえば問題ない。
夫妻にとって恐ろしかったのは娘が化け物になることよりも、自分達の血筋を受け継いだ者から魔力の消滅に発症する者を出してしまう事だった。
かといって、娘への愛が全く無かったわけでもない。彼女が元気に走り回る姿を見て夫妻は自分達の一生をかけて彼女を守ろうと決意を固めた。
カリンが五歳になった頃には彼女は好奇の目から逃れられなくなっていた。竜のものと酷似した尻尾が生えてしまったからである。
腰から長く伸びた尻尾ばかりはドレスで隠すことも出来ない。彼女が人間離れした容姿をしているという話が広まったのは、あっという間だった。
その見た目のせいで同級生からは罵倒を浴び、彼女を守る立場であるはずの教師ですら彼女を遠ざけていた。
完全に孤立したカリンは、それでも学校に通い続けた。
友達なんて要らない。自分には、自分を愛してくれている両親がいる。
夫妻の愛は、しっかりとカリンに届いていた。そんな彼らの関係に亀裂が生じたのはカリンが七歳の誕生日を迎えた直後のことだった。
「……貴女のような一族の恥晒しを産んでしまったこと、心から後悔しているわ」
昨日まで優しく微笑んでくれていた母から向けられた冷たい瞳。突き放すような言葉。
カリンは悪い夢でも見ているような錯覚に陥った。
「と、突然どうしたのよ、お母様……?」
「突然ではないわ。昔から、ずっとそう思ってきたのだから」
「う、嘘よね? だって、私のこと愛してるって。貴女は自慢の娘だって言ってくれたじゃない!」
「えぇ、そうね。でも、もう限界。やはり心にも無いことを言うのは疲れるわ」
心にも無い。それは、つまりカリンを騙していたということ。
だが、カリンは信じなかった。母親が自分に向けていた愛が偽物だったなんて信じたくなかった。
(きっと私が何か悪いことをしてしまったんだ。だから突然、あんなことを言い出したんだわ)
彼女の言葉を信じられなかったカリンは、そう解釈した。
父親は以前と変わらない態度でカリンに接してくれたが、母親はカリンを避けるようになった。
カリンが声を掛けても一瞥するだけで返事をしようともしない。
それでもカリンは諦めなかった。今まで以上に、もっと頑張れば、また褒めてくれる。
そうしてカリンは魔法学校の初等部生で最も優秀な生徒となったが、母親がカリンに微笑むことは無かった。
それから三年後、彼女の十歳の誕生日。カリンは四竜柱の贄に選ばれた。
◇
カリンには婚約者がいた。フリードマン家の長男、アンドレアスである。
カリンに特別な想いを寄せていた彼は毎日のように彼女を城に招待しては庭で二人楽しく遊んだ。
彼女といるだけ幸せだった。これからも、もっと一緒にいたいと思った。
彼にとっては紛れもない初恋だった。彼女の姿が変わろうとアンドレアスの気持ちは変わらなかった。
例え、彼女の姿が人間でなくなろうともアンドレアスにとっては大した問題ではない。
彼女がカリン・ビィギナーでありさえすれば、それで良い。しかし、そんなこと気恥ずかしくて本人の前で言えるはずもなかった。
婚約破棄が成立した、あの日からアンドレアスは後悔している。
あの時、もっと自分の想いを口にしていれば。彼女の心の変化に気付けていたら。自分達の関係は今とは違うものになっていたかも知れない、と。
「……こうして二人きりで話すのは何年振りだろうな」
「……貴方との婚約が破棄されて以来のことですから十数年振りと言ったところでしょうか」
カリンの口調が気に入らなかったアンドレアスは不満そうに口を尖らせた。
「その堅苦しい口調は止めてくれ。昔は、もっと……」
「王子」
それ以上は言わせないとばかりにカリンが口を挟む。
「私も貴方も昔とは、もう何もかもが違うのです」
「我は、そうは思わない。今も昔も我は我で、カリン殿もまたカリン殿のままだ」
「子どものような事を仰らないで。近々、貴方は王になるのですよ。元婚約者とはいえ私を気に掛ける必要など無いでしょう」
「貴殿には我が仕方なく気に掛けているように見えたのか? だとしたら心外だ。我は貴殿だから気に掛けている」
「ですから、それは私と貴方が元婚約者だから……」
「元婚約者というだけなら婚約破棄が成立した時点で他人に戻っている」
「では、貴方が御人好しだから?」
「御人好し、か……カリン殿、我は王族である以前に一人の人間だ。それも欲深く、卑しい人間だ。誰よりも幸せになって欲しいと願っているのに、その役目を誰かに譲りたくないとも思っている」
「……仰っている内容の意味は理解しかねますが、私は貴方のことを卑しい人間だと思ったことはありませんわ」
カリンは訝しむようにアンドレアスを見つめるが、彼は困ったように微笑むばかりで何も返さない。
その姿にカリンは何かを言葉にするのを躊躇っている印象を受けた。
カリンが知るアンドレアスは、こんなことしない。言いたいことは、きっぱりと言う。
彼以上に竹を割ったような性格という表現が似合う存在を彼女は知らない。
「……貴方らしくないわね。言いたいことがあるのなら言えば良いじゃない。昔みたいに」
口調が素に戻ったことに気付いたのは全てを言い終えた後だった。
アンドレアスは驚いた顔を見せたが、次第に咲き始めの花のように綻んだ。
「酷いな、カリン殿。それでは我が常に考えなしで話しているようではないか」
「だって貴方、昔から頭で考えることは苦手だったでしょ。小さい頃に私が貸してあげた本も最初の数ページしか読めなかったし」
「……そういえば、そうだったな」
懐かしい思い出。二人だけの特別な思い出。誰も知らない。ライでさえも。
たった、それだけのことなのに少しでも優越感に浸ってしまう自分は、やはり卑しい人間だとアンドレアスは自嘲気味に笑う。
「カリン殿は、これからどうするつもりだ?」
「……これから?」
カリンの問いかけに肯定するようにアンドレアスは頷く。
「魔王が倒されたことで貴殿は四竜柱の贄としての任を解かれた。だからと言って全て元通りになったわけでも、貴殿が受けてきた仕打ちが無かったことになるわけでもない。それでも貴殿には今、自分の為の未来を考え、実現させるだけの自由がある。人として与えられて当然であるべき権利を貴殿は漸く手にしたのだ」
「…………」
随分と大層な話になったなとカリンはアンドレアスの盛大な物言いに半ば感心しながらも問いに何と答えようかと頭を捻らせたが、急に良い答えが浮かぶはずもなく、沈黙が続く。
その沈黙にアンドレアスは不安を覚える。何も考えてないから言えないのか、言いたくないから黙っているのか彼女の反応では判断できなかったからだ。
「……そんなこと言われても急には思い付かないわよ。あの日まで、ずっと未来のことなんて考えないようにしてたんだもの」
「ふむ……では、質問を変えよう。今後何かしたい事はあるか?」
「したい事……」
したい事なら山ほどある。これまで我慢してた事。諦めていた事。
もう行動を制限する必要は無い。自分の気持ちに嘘を吐く必要も無い。
何故なら、彼女の人生は彼女自身のものなのだから。
「それなら、あるわ。沢山あり過ぎて何からすれば良いのか分からないくらい」
「……そうか」
嬉しそうに話すカリンを見てアンドレアスの心は満たされていく。
こうして彼女の笑顔を見ることが出来るのも、彼女と同じ時を過ごせるのもライのお蔭。今の彼女を作ったのはライなのだとアンドレアスは改めて彼の行いに心から感謝した。
「そう言う貴方は……って、聞くまでもなかったわね」
「はっはっは! さすがはカリン殿。我のことを、よく分かっているな!」
子どもの頃と同じように……とまでは言えなくても、こうして二人で話せる機会が再び巡って来るとは十二年前のアンドレアスなら夢にも思わなかっただろう。
「そういえば結局、話って何だったの?」
カリンの言葉で自分が話をしたいとバルコニーまで連れ出したことを思い出したアンドレアスは何か考えるような表情をした後、肩の力が抜けたように笑って「何でも良いから貴殿と話がしたかったのだ」と言った。
そんなアンドレアスにカリンは「何よ、それ」と呆れたように返したが、その表情は彼の心情を見透かして優しく理解するような表情だった。
「……冷えてきたわ。このままだと貴方も私も風邪を引いてしまうわね。早く中に戻りましょう」
「……そうだな」
本当はもう少しだけ彼女と一緒にいたかったが、彼女が本当に風邪を引いてしまったら困るためアンドレアスは素直に提案を受け入れる。
けれども、会場に戻る前にアンドレアスは確認しなければならない事があった。二人の時でなければ訊けない大事なこと。
「カリン殿、戻る前に一つだけ訊いても良いか?」
振り返って「何?」と言いたげな視線を向けるカリンにアンドレアスは一度だけ喉を鳴らし、意を決した表情で口を開いた。
「貴殿は…………ライ殿のことを好いているのか?」




