352話_出会い
※今回から過去の回想編となります。
そこは後々、弱肉強食の森と呼ばれる場所。
大陸一広大な森でありながら、その大半は毒の霧と呼ばれる濃い霧で覆われている。
更に森の奥には誰が建てたのかも分からない城があるのだが、霧の影響で目視での確認も不可能。
その城に一人、魔族の男が住んでいた。彼は生まれながら毒に対する耐性が強く、限られた生物しか生きられない毒の霧の中でも難なく生活していた。
静かな場所を好む彼にとって、この場所は打って付けだったのだ。
特に何かをするわけでもなく、いつも適当に城の周辺を見回っては森に異変が無いか調査する。
この森には偶に人間がやって来る。そうすると魔物達が騒つく。
男にとって人間は決して脅威の対象ではなかったが、自分の領地を好き勝手に荒らされるのは好ましくないと使役する魔物を使って人間を森から遠ざけさせていた。
人間を襲う危険な魔物がいると分かれば、そう易々と森に近付くことは無いだろう。
男の策は功を成し、城周辺の森は完全に彼の支配下となった。
ただ予想外だったのは、ここ数ヶ月の間に男の周囲が随分と賑やかになった事だ。
気晴らしに城や森を離れては気に入った訳ありの魔族や人間を拾う。
行き場が無いから此処に住まわせてくれと頼まれ、最終的に城に住みつく。
その繰り返しで、いつしか気が付けば一つの村が出来そうなほどの人口にまで達していた。
自分以外の誰かが城で暮らすにあたって、先ず男は城周辺と森の一部の毒の霧を消滅させた。
次に、かつて森の主であったエドとウルに外来者の居場所の提供を依頼。
城内に自分達専用の水槽を設置することを条件に了承を得ると城に残りたいという意思のある者を除き、保護していた者達を解放した。
ちなみに城に残ったのはグレイ、ロゼッタ、キャンディ、ギル、ギィル、ロット、メラニーを含めた総勢十名である。
周囲が賑やかなのにも少し慣れてきた頃。
今日も男は森を散策していた。いつもと変わらない長閑な時間が流れている。
そう思っていた。魔物に襲われている人間を目にするまでは。
「こ、来ないで……っ!」
魔物を前にして完全に腰を抜かしていたのは細身の女性であった。服は泥だらけで足からは血が流れている。
魔物は血の匂いに興奮しているのか目が血走っていて今にも彼女に襲い掛かりそうだ。
咆哮を合図に魔物が一気に距離を詰める。
もう助からないと女は目を閉じた。
「…………、?」
いつまで経っても何もない衝撃に女は恐る恐る目を開ける。
自分を守るように立つ見知らぬ男の背中が見えた。
「失せろ」
氷のように冷たい声。自分に向けられたわけでもないのに女は身震いした。
人間としての本能が目の前の男に恐怖を抱いていた。にも関わらず、彼女がその場から逃げ出さなかったのは自分を魔物から守ってくれたのが彼だと分かっていたから。
男の一言で魔物は大人しくなり、去って行った。
命拾いしたのだと理解した瞬間、思い出したかのように足に痛みが走った。
痛みに耐える女の呻き声に気付いた男は振り返り、女の足に浮かび上がる生々しい傷を見つめる。
座り込んだ女の視線に合わせるように屈むと、男は傷のある足に手を翳した。
男の手から放たれた淡い光が傷を包み込んだ瞬間、傷の痛みが次第に引いていくのが分かった。
女は驚いたような顔をして男を見るが、男は女の方を一切見ようとはせず、治療に専念している。
治療が終わるまで二人の間に会話は無く、沈黙が破られたのは治療が終わった後のことだった。
「あの、ありがとうございました。助けて頂いたうえに治療まで」
感謝を述べる女を一瞥し、男は何も言わずに踵を返す。
「ま、待って! せめて何か御礼を」
「必要ない。貴様を助けたのも気紛れだ。それより、もう二度とこの森には来るな」
「そ、それは出来ないわ」
あれだけ怖い思いをしたのだ。もう立ち入ることは無いだろう。
そう思っていただけに予想外であった彼女の言葉に男は思わず足を止めた。
「私の村、貧しくて。お金も無いし、食べ物も無いの。今までは近くに生っている木の実や川で獲れた魚で何とか凌いでいたんだけど最近になって急に取れる木の実や魚の量が少なくなってきて、それで……」
男の城周辺の森は人地未踏な場所が多い故か食物の宝庫であった。だからこそ魔物達も森の中で難なく生活できている。
ライが毒の霧を晴らしたことで、これまで人間が行けなかった場所も行けるようになり、結果的に今回の騒動を生み出してしまったのである。
人間の事情など知ったことではない。此処は魔族達の為の場所。
人間もいることはいるが、それも男が認めた者だけだ。
「貴様の事情など俺には──」
「関係ない」と続くはずだった言葉は女の目から零れ落ちた一筋の涙によって途切れる。
男が人間の涙を目にしたのは、これが初めてだった。
女が涙を流したのは男に拒絶されたからではない。
村の状況、日に日に痩せ細っていく家族。自分を取り巻く全ての状況が悪化する一方で希望が見出せない。
更には魔物にも襲われて命を失うことも覚悟した自分に確かに差し伸べられた救いの手。
神は、まだ自分を見放したわけじゃない。
まだ神に見放されていない自分なら家族を助けられる。村の皆の力になれる。
唯々、それが嬉しかった。
そんな女の心情を男に理解できるわけが無かった。
男が女を見つけたのも助けたのも偶然で、それらの行為には何の意図も無いのだから。
それなのに不覚にも彼女の涙に見惚れてしまっていた。
何故、こんなにも彼女に惹きつけられるのか。その理由は男にも分からない。
それまで地面に縫い付けられたかのように動かなかった足が動いた。
男の手が、女の頬に伸びる。弾力ある頬を濡らす涙を指で掬い取ると彼女は目を瞬かせる。
「……泣くな」
それ以上、その涙で俺の心を掻き乱そうとするな。
発した一声で男の意図など伝わるはずもなく、案の定、気遣ってくれているのだと勘違いした女は花が綻んだように笑った。
これが後に魔王として世界に混沌を齎らす男と、その魔王誕生の切っ掛けとなる女の出会いである。




